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30.1/19 天空の修道院

「本船は、現地時刻9時に予定通りフロルミアへ下船開始予定です。下船されるお客様は、必ず現地時刻午後4時までに船にお戻りください。」



船のデッキに出ると、風が頬を撫でた。

朝の光を受けた海面は銀色に輝き、ゆるやかな波がきらきらと瞬いている。

その向こう、すぐ近くに見え始めた陸地に浮かぶように、切り立った岩山がそびえていた。


灰褐色の断崖の頂にはひとつ、小さな建物が張り付くように建っている。

テルコート教会のフロルミア修道院。

朝靄の名残がその岩肌にまとわりつき、薄いヴェールのように揺れている。

崖の中腹にはかすかに古びた石段が見え、まるで雲の上へ続いているかのようだ。


甲板の柵に手をかけながら、私は思わず息を呑んだ。

どこか現実離れしたその姿はをぼんやりと見つめる。

あんな高さに、どうやって建てたのだろう。

どうして、そこに祈りの場を求めたのだろう。


青い空と、白い雲と、断崖の上にぽつんと佇む修道院。

今日そこへ足を踏み入れるのだと考えると、ワクワクと胸が高鳴った。



港に降りると、すでにツアーの係員さんが待っていた。

手に掲げた小さな旗をゆらりと振りながら、にこやかにこちらへ手を振っていた。

後ろには10人程乗れそうな小型の⋯あれ、牽いてるのなんだろう?人?

一応、人力車としておこう。それが何台も止まっていた。

牽引するのは二足歩行だから、近人種の誰かかな?

が、1台につき4人、木製のがっしりした荷車みたいな屋根のない箱型の人力車の支木を握っている。


近づくにつれて、その正体がはっきり見えてくる。

太く逞しい脚には短い黒毛がびっしりと生え、膝下からはまるで牛のような蹄。

首から上は完全に牛だ。

立派な角を持つ頭部、重たそうな鼻息。

けれど胴体は人間のように直立しており、肩や腕の筋肉の付き方はまさに力仕事にぴったりという感じだった。


ミノタウロスだ!

まさか、今日の目的地に行く前から見られるとは。

ミノタウロスは近人種ではないとガイドブックには載っていたけれど、ヒト種にしか見えなくてとりあえず「おはようございます」と挨拶をする。

⋯完全に無視された。

いや、聞こえなかったのかもしれない。もう一度言い直す勇気はないけど。

もしくは「観光客とは口をきくな」という職業上のルールでもあるのかも。


「では皆さま、こちらへどうぞー! この車に乗って修道院の麓まで向かいます!」

自分を色々慰めていると、係員さんの声が響き、ツアー客たちが次々と乗り込んでいく。

私も列の最後尾に続き、木製の箱──いや、車体に乗り込んだ。

板張りの座面は少し硬いけれど、揺れを吸収するためか、底には厚めの藁のようなクッションが敷かれている。

他の乗客たちもわいわいと座り、全員が乗り終えると、先頭の係員が軽く手を上げた。


「では皆さま、これよりフロルミア修道院へと向かいます!」


その声に合わせるように、前方のミノタウロスたちがゆっくりと動き出す。

ギシギシと車輪が回り、重たい木の音が響いた。

思っていたよりもずっと滑らかな動きで、地面の小石を踏みしめながら、力強く進んでいく。


「今、皆さまを牽いているのがミノタウロスと呼ばれる種族です」


前の座席に立ったガイドが、風に髪を揺らしながら説明を続ける。


「彼らは他種族とは言葉を交わすことができないため、近人種には分類されていません。ですが、性格はとても穏やかで、力仕事を得意としているんですよ。皆さんのような観光客を運ぶ仕事は、彼らの中でも穏やかな気性の者が選ばれます。」


へぇ、と小さく声を漏らす人もいる。

確かにあの大きな体にしては、動きは驚くほど丁寧だ。

は! 他種族と言葉を交わさないから、挨拶無視されたんだ!

よかった、私のせいじゃなかった!


「さて、これから向かうフロルミア修道院は、今からちょうど100年ほど前に建てられました。もともとは岩山の上にある小さな祈りの場で、最初の修道士たちは、なんと縄梯子で上り下りしていたそうです。今は岩を削って階段が作られていますが、それでもかなりの傾斜です。見えてきましたら、どうぞ下を覗き込まないように。風も強いので、帽子を押さえてくださいね!」


その言葉に笑い声が漏れる。

私は窓際──といってもただの板の縁──から遠くの岩山を見やる。


切り立った崖の上、まるで空中に浮かぶように、灰色の石でできた建物がひっそりと建っていた。


「……あれが、フロルミア修道院です。」


ガイドが指さす先で、雲の切れ間から差す光がその屋根を照らした。

その瞬間、周りの乗客から小さな歓声が上がる。

光に照らされたことで神々しさが増した気がした。


のんびりとしたスピードで崖の下の山の麓についた私たちは車から降りた。


「それでは、これよりフロルミア修道院へ向かいます。ミノタウロスによる登山をご希望の方は、こちらへ集合してください。」

「自力登山の方はこちらでーす!」


ワイワイとグループが分けられ、私はミノタウロス登山側に集まった。

登れるとは思ったけど、ミノタウロス登山が気になってオプションを頼んだ。

車から離れたミノタウロスたちは、背負子を係の人からつけられている。

⋯⋯え、背負子?


私の前に並んでいた人たちが、次々に背負われていく。

列の先頭で、係員がひとりずつ順に名簿を確認しながら、軽い口調で声をかけていく。


「はい、次の方どうぞー。こちらのミノタウロスにお乗りくださいね。」


え、乗る?

そう思った矢先、目の前で一人の女性が、ミノタウロスの背中に取り付けられた背負子に腰を下ろした。

ベルトがカチャカチャと取り付けられ、次の瞬間、女性の身体がふわりと持ち上がる。

そのまま背負われるようにして、ぐっと地面が遠ざかった。


『えっ、やっぱり背負うの!?』


思わず口から言葉が漏れる。


目の前で次々と観光客が背負われていく光景は、なんともシュールだ。

全員落ち着いた表情で、気楽な雰囲気で順番を待っている。

どうやら私だけが完全に想定外の事態に狼狽えているらしい。


「はい、では次の方〜」


呼ばれてしまった。

恐る恐る近づくと、係員がにこやかに説明してくれる。


「はい、このように背中合わせに座ってください。足はこちらのベルトで固定しますね。揺れますので、最初は少し緊張するかもしれませんが、すぐ慣れますよ。」


目の前のミノタウロスがゆっくりと腰を落とした。


目の前のミノタウロスは、岩肌のようにごつごつした肩と、優しげな琥珀色の目をしていた。

体毛は灰色で、短く刈られていて清潔感がある。

たしかに見た目は少し怖いけど、どこか穏やかな雰囲気を漂わせていた。


「失礼します⋯」


そっと背を合わせて腰を下ろす。


どっしりとした体の熱が伝わってくる。

革の背負子がぎゅっと背中を包み込み、係員が器用に腰と太ももにベルトを締めた。


──近い。いや、近すぎる。


「大丈夫ですか?」


係員の確認に頷くと、ミノタウロスがゆっくりと立ち上がった。

ぐぐっと視界が高くなる。


「うわ、高い……!」


地面がどんどん遠ざかっていく。

手すりを握り、指示された通りできるだけ力を抜いて背中を預けると、背負子の感覚の向こうで、確かに生きた鼓動を感じた。


ガイドが前方で声を張る。


「皆さま、これがフロルミア式登山です! 修道院が建てられた当時、物資を運ぶ際にこうした力ある者たちが支えていたんですよ。登りながら景色をお楽しみください!」


ミノタウロスたちが一斉にゆっくりと歩き出した。

彼らの足取りは思ったよりも静かで、足元の土がわずかに軋むたび、低く安定したリズムが体を伝ってくる。

私のグループは前方を行く自力登山組を追うように、ゆったりとしたペースで山道を登っていった。


最初のうちは緩やかな坂道で、背中の揺れも心地いい。

左右にゆらっ、ゆらっと揺れるたびに、山風が髪をなでていく。

けれど、ミノタウロスの大きな体に支えられている分、視界はかなり高い。

しかも、背中合わせで前傾姿勢だから、見えるのはほとんど空。

雲ひとつない青空の向こうに、時折白い鳥の群れが横切る。


視線を下げてみると、私の後ろを歩く別のミノタウロスと、その背に乗る女性が見える。

登るにつれ、道はだんだんと険しくなっていった。

岩を踏むたびに足音が低く響き、ミノタウロスの大きな胸が上下する。

背中越しに感じる熱が、じわじわと伝わってきた。


「ふーっ……ふーっ……」


荒い息が耳元で聞こえる。

うわぁ、絶対に重いよね、私……!

申し訳なさでいっぱいになるけれど、途中で降りるわけにもいかない。

せめて邪魔にならないように、背筋を伸ばしてバランスを整える。

ミノタウロスの足取りは変わらず穏やかで、息が荒いながらも一歩一歩、確実に進んでいく。


──たぶん、1時間は登っている。

腕時計を確認する余裕もなく、ただ背中に伝わる鼓動と風の音で時間を感じていた。


やがて、前方からざわざわと人の声が近づいてきた。

空しか見えない視界の中、風の向きが変わり、どこか開けた場所の匂いがする。


「こちらでーす!」

係員の明るい声が響いた。


ミノタウロスがゆっくりと足を止め、深く息を吐く。

その背中の動きで、ああ、着いたんだ、と実感した。

見えないままでも、空気の広がりと、みんなの歓声でそれがわかる。


ゆっくりとミノタウロスが膝を折り、地面に腰を下ろすと、ずっしりとした衝撃が背中を伝った。

それと同時に係の人が駆け寄ってきて、慣れた手つきで背負子の留め具を外してくれる。


『よいしょっと……』


ベルトが外れると同時に、私は背中から軽やかに降りた。

振り返ると、ミノタウロスは無表情──いや、そもそも表情が読めない。

大きな胸が上下していて、息が荒い。

汗に濡れた毛並みからは、少し獣特有の匂いが漂ってくる。


「ありがとうございました。」


どうせ通じないとは思いつつも、思わず口にしてしまう。

もちろん返事はない。

ガン無視。

だけど、なんだかんだでここまで安全に運んでくれたのだし、感謝の気持ちは伝えたい。

自己満足でも、礼は言っておきたいタイプなのだ。


体をぐっと伸ばし、肩を回す。

1時間も背中に固定されていたせいで、筋肉がちょっと固まってる。

さて、と前を向いた瞬間、私は目を瞬いた。


⋯あれ?

なんか、崖の下だ。

登ってきたはずなのに。

周囲を見回すと、確かに少し標高は上がっているようだけど、肝心の修道院はまだ遥か上。

切り立った岩肌の上のほうに、うっすらと建物の影らしきものが見える。


「それでは、ここで休憩したあと、いよいよフロルミア修道院に向けて出発いたします!」


係の人が元気よく声を張る。


「えっ?」


思わず声が出た。

同じように驚いた人が何人もいたらしく、ざわざわと周りが騒がしくなる。


「え、上までミノタウロスに連れて行ってもらえるんじゃないんですか?」


誰かが代表して聞いてくれた。

私も内心、全力で頷いている。

係の人はにこにこと笑顔を保ったまま、きっぱりと答えた。


「いえ、ここから先はフロルミア修道院の敷地になりますので、ヒト種の方しか登れません。オプションの説明にも『修道院麓まで』と記載されております。」


一瞬の沈黙。

そのあとに、「あ〜、そういう意味だったのか……」という諦め混じりの声がいくつか漏れた。


もちろん、私もその中の一人だ。

「麓まで」って、そういう「麓」!?

せっかく楽して上まで行けると思っていたのに…。


見上げれば、崖はまっすぐ天へと続いている。

木々の間から覗く空は眩しいほどに青く、でもその下の道は岩と階段が続く急斜面。

どこにも「楽そうな道」なんて見当たらない。


『…うそでしょ。』


思わずため息が漏れる。


1時間も背負われて、ようやく登山が「始まる」なんて。

ちょっとした修行体験に来た気分だ。


しばらく休憩を取ってから、いよいよ登山再開。


「では、こちらが修道院への道になります。お気をつけてどうぞ〜!」


係の人がにこやかに手を振る。

その笑顔が、今はなぜか遠い。

ミノタウロスたちはすでに荷を解かれ、のんびりと草を食んでいる。

ああ……代われるものなら代わりたい。


仕方なく、私はリュックを背負い直して列の最後尾に加わった。


階段の入口は、岩を削って作られた簡素なものだった。

見上げると、まるで空へ続くような急勾配。

手すりは途中までしかなく、足を滑らせたらそのまま転がり落ちそうな狭さ。


一段目を踏み出す。

うん、これは登山じゃなくて「修行」だ。


ぎゅ、ぎゅ、と靴底が岩を踏む音。

息が上がるのが早い。

階段はかろうじて人がすれ違えるほどの幅で、壁と崖の間を縫うように続いていた。

時折、下りてくる人と肩をすり合わせながら、慎重に登っていく。


「すご……これを昔は縄梯子で上ってたって言うんでしょ?」


前を歩く女性が小声でつぶやく。


「うそみたいですよね。」


返事をしながらも、息が苦しくてそれ以上続けられない。


風が吹くたび、崖の下から海の匂いがふわっと上がってくる。

さっきまでいた港が、もう豆粒みたいに遠い。

怖いけど、ちょっと綺麗。

そんな気持ちが入り混じって、足を止めるわけにもいかず、ただ黙々と登るしかなかった。



段々と上の方から、人の声が風に乗って届いてくる。

「うわー!」「きれいー!」という歓声。

それが近づくにつれ、胸の奥に小さな希望の火が灯る。

もうすぐ、もうすぐだ。


最後の踊り場を曲がると、視界がぱっと開けた。

息を弾ませながら最後の数段を登りきると、そこには信じられない光景が広がっていた。


目の前に現れたのは、崖の上とは思えないほど広々とした平地。

その中央に、フロルミア修道院が静かに佇んでいた。

修道院は木製の2階建てで、壁がテルコート教の5色で塗られていて、灰色の岩肌との対比が不思議と美しい。


周囲には、どこから生えているのかわからない木々がいくつも伸びていた。

崖の上だというのに、根元には小さな草花まで咲いている。

海からの風に枝葉がざわめき、日差しの中で影がきらきらと揺れた。

それだけで、この場所がどこか異世界めいて感じられる。


周りをぐるりと囲む手すりに近寄ると、そこから遥か下に街並みと海が見えた。

あんなに遠くまで登ってきたのかと思うと、膝の力が抜けそうになる。

それでも、目の前に広がる絶景に、疲れよりも感動のほうが勝った。


「……すごい。」


誰かの声が風に溶けて消える。

たぶん私も同じ顔をしていたと思う。



修道院の前の広場には、静かな風が吹き抜けていた。

その中に、赤いマントをまとった人たちがぽつりぽつりと見える。

陽の光を受けて布がかすかに揺れ、深い赤が岩肌の灰色の上で鮮やかに映える。

彼らが、この修道院に仕える修道士さんたちだとすぐにわかった。


少し離れた場所に、木箱を胸に抱えた修道士が立っている。

参拝者たちはその前で立ち止まり、1人ずつ小さく会釈をして、箱に硬貨を落としていく。

金属が触れ合う「ことり」という音が、厳かな空気の中に小さく響く。

私も列の最後尾に並んで、自分の番を待った。


今度は、本物なんだ。

詐欺じゃなくて、本物の修道士でここは信仰の場所。

そう思うと、胸の奥が少しだけ引き締まる。


「ことり」と、私も箱に硬貨を落とした。

修道士さんは目を閉じ、柔らかく何かをつぶやく。

その声は祈りの言葉だとわかるけれど、言葉そのものは理解できない。

けれど、不思議と心が静かになるような響きだった。


彼は最後に手を祈りの形にし、会釈をしてくれた。

私は付け焼き刃の真似事でしかないけれど、胸の前で指を絡め、見様見真似で祈りを返す。

それを見て修道士さんがふっと目を細め、穏やかな笑みを向けてくれた。


修道院の扉をくぐると、ひんやりとした空気が頬をなでる。

外の陽光とは対照的に、内部は静かで荘厳だった。

壁一面に描かれた絵が、薄明かりの中で淡く光っている。

黄色や緑、深紅の絵の具が重なり合い、時間を超えて息づいているようだった。


正面に描かれているのは、中央に立つ女神様と、その周囲を囲む十人の神々。

係の人が小声で説明してくれた。


「中央が主神。その周りは十の使徒です。」


なるほど、そういう神話なのか。

他にもたくさんの神様が至る所に描かれていて、私は知らない名前の神々ばかりだったけれど、不思議とどの神様の表情も温かかった。

剣を持つ者、果実を掲げる者、祈りを捧げる者。

ひとりひとりが穏やかな表情で描かれ、どこか素朴さがある。


頭上の天井には、青い空と金の星が描かれている。

小さな息をついて、私はただその場に立ち尽くす。



そう広くない修道院の中は、みんなすぐに見終えてしまい、あちらこちらから「お腹すいたね」という声が聞こえてくる。

かくいう私も同じだ。もうすぐお昼の時間。

このあと、山を下りてからナルサーシウトで食べたタラットゥーヤを、みんなでいただく予定になっている。


──そう、あの長い階段と下山を経てから、ようやく昼食だ。

予定通りとはいえ、空腹の今となっては少し恨めしい。


「お腹空いたなぁ」と心の中でつぶやきながら、私はゆっくりと階段を下りる列に加わった。



すみませんがストックが切れましたので、目指せ週1更新に変わります。

次回は土曜日更新です。

引き続きよろしくお願いします。

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