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29.1/18  船上の罠

何でこんなことになってしまったんだろうか。

もう少し前に気づいていれば⋯。


お昼なのにまだまだ冷たい海風が頬を撫でる。

私はプロムナードデッキを、ぐるぐると同じコースを歩き続けていた。

海鳥の鳴き声と、遠くで響くエンジンの低い音。

デッキの木材が、靴底のリズムに合わせてコトコトと音を立てる。


「はぁ⋯」

深いため息が、潮風に溶けた。


——罠に溢れていたのに。

気づいていたのに。


それに気づいたのは、昨日の夜のことだった。

一日の終わりにシャワーを浴び、鏡の前に立った時。

お腹についたズボンの跡が、あまりにもくっきりしていた。

まさか⋯⋯。

旅の間は気をつけていたはずだ。

でも、頭の片隅でずっと引っかかっていた違和感が、急に形を持って現れた気がした。


「違う、勘違いだよね⋯」


そう自分に言い聞かせながら、翌朝、意を決して船内ジムへ向かった。


ピピッ。


軽い電子音が鳴る。

視線をゆっくりと落とした。


──プラス3キロ!!!


「う、うそでしょ……!」

目を疑うように何度も計り直したけれど、結果は変わらなかった。


あのビュッフェ、毎朝毎晩「せっかくだし」と言いながら取りすぎていたパン。

夜に友達と分け合ったスイーツ。

おまけに、事あるごとに飲んでいた甘い飲み物たち。

ひとつひとつは小さな誘惑でも、積み重なれば立派な罠だ。


気づけば今、私はその代償を払うようにデッキを歩いている。

潮の匂いが鼻を刺し、遠くに青く光る水平線が見える。

通り過ぎる乗客たちがのんびりとデッキチェアに腰かけ、カクテル片手に笑っている。

それを横目に見ながら、私は心の中で固く誓った。


「絶対、今日から戻す……!」


でもそのすぐ先の角を曲がれば、昼食の香ばしい匂いが、風に乗ってやってくるのだった。



同じ景色を見ながら、ぐるぐると何周か歩く。

波の音と足音だけが単調に続く中、時間の感覚がだんだん曖昧になっていった。

気づけば30分ほど経っていた。


……よし、今日はここまで!


息を整えながら軽く伸びをする。

海風が心地よく頬をなで、髪を少し持ち上げた。


もっと歩けよ、とか。というか走れよ、とか。

そんな声が聞こえてきそうだが、そこは聞かなかったことにしたい。

確かに言われてみればその通りなんだけど、継続こそ大事だ。

そう、私は「続ける」という偉大な一歩を踏み出したのだ。


終日航海日には30分歩く!


寄港地では観光で十分歩いている。

忘れ去っていたスマホの歩行カウンターを見返してみると、驚くほど立派な数字を叩き出していた。

でも、問題はそこじゃない。


終日航海日。

つまり、船が一日中どこにも寄らない日。

そういう日は、ほぼ歩かない。

部屋からビュッフェ、ビュッフェからデッキ、そしてまた部屋——この動線で一日が終わってしまう。

駅まで歩く通勤もないし、エスカレーターも階段もない。

移動手段はエレベーターか、短い廊下だけ。


そりゃあ体重計も悲鳴を上げるわけだ。


よし、決めた。

私は拳を握った。


お昼ごはんの前後、どちらかのタイミングで必ず30分歩く。

天気が悪くても、風が強くても、ビュッフェの誘惑が強くても。

今日から続けるんだ。


プロムナードデッキをあと一度だけ振り返り、私は爽やかに——いや、やや足を引きずりながら——控えめに食事を取るため、ビュッフェ会場へ向かうのだった。




決意はした。明日からもちゃんと歩く。

そのつもりではいる。理性はそう言っている。


⋯でも、できることなら今すぐにでも戻したいじゃないか、このお腹!


仕事を終えた私は、ポケットの中の小さな希望——いや、割引チケットをぎゅっと握りしめ、サコッシュにしまい込んだ。

向かう先は、船内のスパエリアにあるマッサージサロン。


昨日までは何気なく眺めていたそのメニュー表。

「アロマボディ」「リフレクソロジー」「フェイシャルケア」……

その下に、気づかなかった一文があったのだ。


「痩身エステ」


あの瞬間、心の中で何かが弾けた。

目を凝らして2度見、3度見したあと、気づけば予約ボタンを押していた。


もちろんわかっている。

マッサージだけで3キロ痩せるなんて、そんな夢みたいな話、あるわけがない。

それに、受けるのは1回きり。

だって──値段が、ね?


でも、ほんの少しでいい。

老廃物がどうとか、リンパの流れがなんちゃらとか、そういうので……

もしかしたら、体重が1キロ、いや、500グラムでも変わるかもしれないじゃないか。


それだけでも、ちょっと希望が持てる。

歩くモチベーションが上がる。

⋯そして何より、罪悪感が少し薄まる。


そんな、半ば現実逃避にも似た期待を胸に、私は甘く静かな香りが漂うサロンのドアを押した。


中に入ると、ふわりと漂うのはアロマの香りだった。

ラベンダーとオレンジが混じったような、柔らかくて落ち着く匂いが、空気のすみずみまで染み込んでいる。

外の喧騒——といっても、クルーズ船特有の穏やかなざわめき——が一瞬で遠のいていくようだった。


照明は控えめで、天井には小さな間接照明が柔らかく灯っている。

床には厚めのカーペットが敷かれ、歩くたびに足音が吸い込まれていく。

受付のカウンターには白い蘭の花と、透明なガラス瓶に入った精油のボトルが並んでいた。

背後の棚には、金色の文字で書かれた看板。


「こんにちは。ご予約されていますか?」


柔らかい声のスタッフが近づいてくる。

完璧な笑顔と共に、席を勧められ、温かいハーブティーのカップが差し出された。


「こちら、施術前のウェルカムティーになります。カモミールと少しのレモングラスです。」

「あ、ありがとうございます…。」


私は座りながら辺りを見回す。

ソファはふかふかで、座った瞬間に体が半分沈み込む。

奥にはカーテンで仕切られるようになった施術ベッドが3つ並び、今は他にお客さんがいないのか、貸切状態だった。

窓の向こうには、冬の海が夕陽に照らされゆっくりと揺れていた。

波のうねりに合わせるように、部屋全体もほんのわずかにきしむ。


小さな音でヒーリングミュージックが流れている。

水のせせらぎや森の風を模した音が、まるで現実の境界を曖昧にするかのように響いていた。



「それでは、カウンセリングシートにご記入をお願いします。特に気になる部分などありますか?」


スタッフの声に我に返り、私は笑って答える。


「お腹と足と…心のデトックスですかね。」


スタッフはくすっと笑い、「かしこまりました」と言って深く一礼した。


施術部屋に案内されると、そこは温かい空気に満ちていた。

中央にはふかふかのベッド。白いタオルが丁寧に折り重ねられ、整然とした美しさがあった。

壁には香炉が置かれ、甘い香りが微かに漂っている。


「こちらにお着替えをお願いしますね。終わりましたら、うつ伏せでお待ちください。」


スタッフが柔らかく告げてから、カーテンを閉める。


渡されたのは、薄い紙でできたブラジャーとパンツ。

どちらも頼りないほど軽く、少しでも動けば破れてしまいそうだった。

クルーズ船で、まさかこんな格好をする日が来るとは思わなかった。

だって日本にいる時でも痩身マッサージなんて受けたことないのに。


衣服を脱ぎ、紙の下着を身につけると、体が急に外気にさらされたような感覚に包まれた。

室温は心地よいのに、どこか落ち着かない。

自分の体の輪郭が、やけに意識の中で鮮明になる。


ベッドに横たわると、肌に触れるリネンがしっとりと温かく、体の力が少し抜けた。

背中越しに船の微かな揺れが伝わり、それが心臓の鼓動と重なってくる。

たぶん、恥ずかしさよりも、これから何をされるのかという緊張のほうが勝っていた。


カーテンの向こうから、スタッフの足音が近づいてくる。

そして、静かに声がした。


「失礼いたしますね。始めていきます。」


オイルの香りがふわりと広がり、温かな手のひらが脚に触れた瞬間——あ、これは気持ちいいかも、と思ったのも束の間だった。


「すこし強めに流しますね。」


お姉さんの穏やかな声に、私は軽く頷いた。


──次の瞬間。


「いっ……たぁっ!!」

心の中で叫んだ。

餅だ。完全に私は餅だ。

つきたての柔らかいそれを、容赦なく手のひらと指でこねられている。


お姉さんは、見た目は細身で上品。

でも、その腕力はとんでもない。

プロレスラーでも目指しているのでは?と思うほどの力で、太ももを、ふくらはぎを、ぐいぐいと押し流していく。


「すこし痛みますが、リンパが詰まっているところですね〜」


にっこりと笑いながら言うその口調が、逆に怖い。


「そ、そうなんですか〜⋯⋯!」


かろうじて絞り出した声は、半分悲鳴だった。

特に足。

膝の裏からふくらはぎにかけてのラインは、もう修行。

油断すると声が出るので、歯を食いしばり、ベッドの端を握る。

「詰まりが取れるほどスッキリしますからね〜」という励まし(?)に、涙目で頷くしかなかった。


それでも、不思議なもので、痛みに慣れてくると体の奥がじわじわ温かくなり、血が巡っていくのがわかる。


「では次、お腹のほう失礼しますね。」


お姉さんの手がみぞおちから下腹へと滑っていく。

オイルの温かさと、手のひらの圧。最初は心地よくて、思わず小さく息を吐いた。

──が、すぐに異変が起きた。


「い、いたたたたっ⋯⋯!」


おへそのまわりをくるくると円を描くように押されるたび、内臓が悲鳴を上げる。


「ここ、すこし張ってますね〜。」


にっこり微笑むお姉さんは、痛がる私を見て確信を得た研究者のよう。


「そ、そうですか⋯! なんか効いてる気がします⋯!」


言いながら、声が裏返る。

おへその下あたりをぐぐぐっと押されると、息を止めるしかない。

効いてるどころか、何か出そう…!

内心そんなことを思いながら、私はただひたすら耐える。


そしてお腹が終わると、今度はうつ伏せになるよう促された。


背中に手が置かれた瞬間——世界が変わった。

オイルを広げる手のひらが、肩甲骨のまわりをゆっくりと滑る。

温かくて、柔らかくて、熱い羽毛で包まれるような感覚。


「うわ⋯気持ちいい⋯。」


思わず声が漏れる。


さっきまで痛みに歯を食いしばっていたのが嘘みたいだった。

背中の筋肉がゆるゆると溶けていく。


「パソコンとかで、だいぶ張ってますね〜」

「そ、そうなんです。肩がもう岩みたいで。」

「ふふ、たしかに。でも、これでだいぶ軽くなると思いますよ。」


指先が肩のラインをなぞり、腰のほうへ滑っていく。

そのたびに、痛みではなく温かい安堵がじわじわと広がった。

ああ、背中だけでいいかも。いや、背中だけでお願いしたい…。

そんな弱音を心の中で繰り返しながら、私は次第に脱力していった。


マッサージが終わると、まるで全身の骨が抜けたように力が入らなかった。


「お疲れさまでした。ではこちらへどうぞ。」


お姉さんに促され、ふらふらと立ち上がる。

部屋の奥には、花びらの浮いた湯船が用意されていた。

ピンクや白、黄色の花びらが静かに湯面に揺れていて、まるで映像のワンシーンのよう。


「15分ほど、こちらでゆっくり温まってくださいね。」


そう言ってお姉さんは退出していった。


湯に足を入れた瞬間、全身がとろけそうなほど心地よかった。

オイルの香りが湯気と混ざり、鼻の奥をくすぐる。

手足を伸ばすと、水面がきらりと揺れて花びらがくるくると回る。

はぁ……天国…。

目を閉じると、遠くで波の音が聞こえるような気がした。


しばらくして、お姉さんが控えめに声をかけてきた。


「体重、こちらでお測りしますか?」


一瞬、心臓が跳ねた。

そうだ、最初のカウンセリングシート。

あのとき、つい見栄を張って元の体重を書いてしまったのだった。

あれより今はプラス3キロ⋯


このままだと、せっかくマッサージされたのに太ったことになってしまう。

想像するだけで、羞恥と焦りが同時に込み上げる。


「い、いえ、大丈夫ですっ!あとで自分で測ります!」


思わず食い気味に断ってしまった。

お姉さんはにこりと笑い、「かしこまりました」とだけ言って去っていく。


私は湯船の中で、そっとため息をついた。

マッサージで軽くなったはずだ、そうに違いない。そうであってくれ⋯!


湯船を出たあとタオルで体を拭きながら、心の中で後から体重を測りに行こうと決意した。



⋯⋯⋯ちなみに300グラム減っていた。

でもでも!!

全身鏡で見た時の体つきがちょっとシュッとして見えたから!

たぶん浮腫みとか取れてるから!

お姉さんの頑張りは表れていたと思いたい⋯。

明日からもちゃんと歩こう⋯。



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