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28.1/17 氷瀑の国

諸事情により、筋肉痛は急速に回復しました。

「本船は、現地時刻午後12時に予定通りヤシルサへ下船開始予定です。下船されるお客様は、必ず現地時刻午後6時までに船にお戻りください。」




どんよりとした雲が山肌にまとわりつくように垂れこめ、太陽の光は薄いベール越しにしか届かない。

それでも空気は澄んでいて、吸い込むたびに胸の奥がキリリと冷たくなる。


私は雪山の登山道を、一歩ずつ確かめるように登っていた。

まだ若干残る筋肉痛がじんわりと太ももを刺すが、きつい山道でないことは幸いだ。

そもそも、ここまで来たら引き返すわけにはいかない。


たまたま同じオプショナルツアーに申し込んでいたセルヒオと、他愛ない話をしながら、登山のつらさを誤魔化す。

会話が途切れると、風の音と靴裏のパリパリ、ザクザクという乾いた音だけが残る。

金属のトゲ付きブーツが霜を噛むたび、音が雪面に吸い込まれていく。


時折ゴォォと風が吹き下ろしてきて、フードの端をあおる。

顔に触れる空気は冷たいが、うっすらと頬が火照っている。

体は確かに疲れているのに、どこか心地よい。

これで晴れてたら完璧だったのに。

そんなことを思いながら、一歩一歩転けないように確かめながら歩いていく。


ガイドさんの軽快な足取りとともに、私たちはゆっくりと斜面を登っていった。

途中、彼が息を切らしもせずに披露する豆知識が、単調になりがちな登山道の空気を少し和らげてくれる。


「このあたりの氷は、夏でも完全には溶けません。地面の下には古い氷の層があって、『眠る氷』なんて呼ばれてるんですよ。」

「へえ…眠る氷。なんだかロマンチックですね。」


私がそう言うと、セルヒオが笑いながら「サクラ、それ映画とかのタイトルになりそうだな」と茶化す。

そんな冗談を交わしているうちに、ガイドさんが前を向いたまま声を張り上げた。


「間もなく一つ目の滝に到着しますよ!」


その言葉を聞いた瞬間、全員の足取りが少し軽くなった気がした。

そして、木々の間からそれは姿を現した。


「わぁ……。」

「おぉっ!」


歓声があがるのも無理はない。

目の前には、幅広く横に伸びた滝が、まるで時間ごと凍りついたように静止していた。

かつて悠々と流れていた水がその勢いを保ったまま氷となり、陽の光を受けて淡く青白く輝いている。

氷の表面には小さな水のしずくが封じ込められ、まるで無数の宝石を散りばめたカーテンのようだった。


近づくと、空気がさらに冷たくなる。

吐く息がすぐに白く凍りそうだ。


「では、少しお待ちください。」


ガイドさんはそう言うと、大きな荷物をそっと雪の上に降ろし、腰にぶら下げた金属のハンマーを手に取った。

そのまま滝の横手から裏側へと慎重に足を進めていく。


ガリ……ガリ……カツン、カツン……


氷を削る音が、しんとした空気の中に響く。

音がやけに鮮明に聞こえるのは、それだけ周囲が静かだからだ。

白い息を吐きながら待っていると、時折パラリと小さな氷片が落ちてくる。

ガイドさんが説明してくれた通り、これは安全確認のための作業──滝裏の道を通る前に、落ちそうな氷柱を削り落としてくれているのだ。


遠くで鳴るカツンという音が、やけに頼もしく感じられた。


「どうぞ、ゆっくり足元に気をつけてくださいね」


ガイドさんの声に促され、私たちはひとりずつ滝の裏側へと進んでいった。

入口は思ったよりも狭く、腰をかがめなければ通れない。

頭上からは、凍りつききれずに残った細かな水滴がぴちゃん、ぴちゃんと滴り落ちる。

中に入ると、入口からは想像がつかないほど広く、外とは別世界のような静けさだった。


光が凍った滝の表面を透かして差し込み、青白く淡い輝きが壁一面に広がっている。

氷越しの世界はぼやけて、向こう側の人影がゆらゆらと揺れて見えた。

どこか夢の中にいるような感覚だ。


「すごい…。」


思わず声が漏れる。

息が白く散って、氷の粒が反射した光を受けてきらめいた。


セルヒオが後ろから「写真、撮ってあげようか?」と笑う。

私は頷いて少しだけ前に出る。

足元の氷はざらついて滑りにくいが、ところどころ薄い水の膜が張っていて、踏みしめるたびに冷気が靴底から伝わってきた。


ちょっと滝を触ってみたり、セルヒオが外から何枚も写真を撮っていたり、あらかたツアー参加者が満足した頃、次の滝に向かって出発した。


1つ目の滝からそう離れていない場所に、2つ目の滝はあった。

遠くからでもその存在感が分かるほどの高さ。

白く凍りついた壁面は、どこか生き物の背中のように盛り上がり、溶ければ轟々と大地を震わせるであろう勢いを、いまもそのまま閉じ込めているようだった。

時折、上の方から「ピシッ」と氷の軋む音が響くたびに、あたりの空気が一瞬で張り詰める。


「ここが二つ目の滝になります。」


ガイドさんが声を張る。吐く息が白く舞って、すぐに霧散していった。


彼らはさっそく荷物を下ろし、手際よく大きなテントを組み立て始める。

私たちはここで少し休憩を取るのだという。

風が強くなってきて、頬に刺さる冷気が一段と鋭くなる。

私は体を小さくしながら、その作業を眺めていた。


その横で、別の一団が静かに準備を始めていた。

分厚いコートを脱ぎ、下から現れたのは動きやすい防寒ウェア。

腰にはハーネス、手にはアイスアックス、足元には鋭いアイゼン。

氷の壁を登るための装備が、雪の上で金属音を立てていた。

人数は10人に満たないが、皆、緊張と高揚の入り混じった表情をしている。


その中に、セルヒオの姿もあった。

風に髪を揺らしながら、彼はロープを確認している。

目が合うと、いつものように軽く笑って手を振った。


「悪いんだけど、俺が登る時、録画しておいてもらえないか? 寒かったらもう三脚に固定してくれて構わないから。」

「え、仕事のやつ!?」

「ふっ⋯いや、これは趣味で撮ってるだけ。」

「あ⋯それなら、任せておいて! セルヒオの時にはテントから出て来て撮っておくね!」

「頼んだ。」


セルヒオは肩をすくめて笑い、また装備の確認に戻った。

氷の滝を登る。そう、彼らはこれから「アイスクライミング」をするらしい。


そういえば、オプショナルツアーの案内に「希望者は体験可能」と書いてあった気がする。

でもそのときは、雪山を登るだけで十分だと思って、まともに読まなかった。


まさか、本当にあの凍った滝を登るなんて。

間近で見ると、その高さは息をのむほどで、氷の壁面は光を反射して淡く青く輝いている。

そこにアイスアックスを突き立てて登るなんて⋯。


「すごくない……?」


思わず独り言が漏れる。

隣の女性も頷いて、「信じられないわ、あんなの映画みたい」と息を呑んだ。


セルヒオはアイスアックスを構え、深呼吸をひとつする。

彼の吐く白い息が、ふわりと揺れて消えた。


ガイドのひとりが先頭に立ち、腰のロープを確かめながら氷壁の前へ進む。

彼は慣れた手つきでアイスアックスを構え、軽く氷面を叩いて強度を確認した。


「よし、問題ない」


短くそう呟くと、鋭い音を立ててアイスアックスを深く打ち込む。


カン、カンッ!


金属が氷を割る乾いた音が、谷にこだまする。

そのたびに、氷の欠片がパラパラと落ち、足元の雪に吸い込まれていく。

彼の動きには一切の迷いがなく、まるで氷を知り尽くしているかのようだ。

数メートル登ったところで、命綱を通すための金具を氷に打ち込み、ロープを固定していく。

冷気の中、息が荒くなることもなく、まるで儀式のような静けさで作業が続いた。


下から見上げると、すごく簡単そうに見て不思議なくらい、静かに、しかし確実に上へと進んでいく。


「……さすがだな。」


誰かが感嘆の声を漏らす。


しばらくして、ガイドが頂上近くに到達し、「固定完了!」と声を上げた。

その瞬間、下にいるクライマーたちの間に緊張が走る。

準備を整えていたセルヒオが、一歩前に出た。


「じゃあ、行ってくる。」


そう言って、軽く笑う。

けれどその目は真剣で、氷壁をまっすぐに見据えていた。

ヘルメットの下から覗く横顔には、少しの恐れと、それ以上の高揚が混ざっている。


アイスアックスを握り直し、彼は足を氷に食い込ませた。

ギィ、ギリッ。アイゼンの刃が氷を捉える。

そして、カンッと音を立ててアイスアックスを突き刺すと、体を持ち上げた。


──登り始めた。


ロープがピンと張り、空気が張り詰める。

下から見守る私の胸も、無意識に同じように固くなっていた。


私は吐く息を白くしながら、手袋越しにスマホを構えた。

寒さで指の感覚が鈍く、操作もおぼつかない。

でも、撮り逃したくなかった。

目の前で、氷壁を登るセルヒオの姿は、まるで映画のワンシーンみたいだったから。


雪を散らしながら、セルヒオの背中が、ゆっくりと氷の滝を這い上がっていく。

画面の中で、彼の青いジャケットが雪の白に鮮やかに浮かぶ。


カンッ、カンッ。


アイスアックスが氷を掴む音が、風を切る音に混じって響く。

そのたびに、体がぐっと持ち上がり、足のスパイクが氷に食い込む。

見ているだけで息が詰まる。


「すごい……」


誰に言うでもなく、小さく呟いた。

セルヒオの後ろ姿からは恐怖の影が感じられなかった。

慎重だけど、迷いがない。

動きは一定のリズムで、まるで慣れているみたい。


時々、ふっと顔を上げると、滝に積もった細かな雪が舞い降りてくる。

彼の肩やヘルメットに積もる前に、風が吹き飛ばしてしまう。

それがまた幻想的だった。


ズームを上げると、ロープを伝って手がかじかむのが見えた。

息を白くしながらも、彼は笑っている。

遠くて声は聞こえないけれど、その口の動きでなんとなく「楽しい」と言っているのがわかる。


背後では他のツアー客たちが歓声を上げていた。


「見て!もう半分まで行った!」

「すごいな、あの人!」


私はスマホの画面を少し下げ、肉眼で見上げた。

氷の滝を登る青い影と、その上に広がる灰色の空。

冷たい風が頬を刺す。


セルヒオのアイスアックスが最後の一撃を打ち込み、ロープが一瞬たわんだ。

次の瞬間、彼は頂上に手をかけ──体を持ち上げる。


「やった……!」


私は声を上げながら、録画ボタンを止めた。

手がかじかんで、うまく押せなくて、何度も画面をタップする。

でも構わなかった。

ちゃんと撮れてる。

あの瞬間を。あの笑顔を。


そのあとも、次々と挑戦者たちが滝に取り付いていった。

女性もいたし、年配の人もいた。

それぞれのアイスアックスが氷に突き刺さるたび、金属的な音が静かな山の空気を震わせる。

みんな一様に息を白くしながら、ひたむきに登っていく姿が美しかった。


私は撮影を終えると、スマホを胸ポケットにしまい、そっと息を吐いた。

手はかじかみ、足の感覚も薄くなってきている。


「こっちで温まってください」


ガイドさんに声をかけられ、寒さに耐えきれなかった私はそのまま休憩用のテントへ入った。


中は驚くほど暖かかった。

オーロラテントと同じように熱を発するテントらしい。

湯気を立てるポットからは甘いハーブの香りが漂う。


「どうぞ。ローカルハーブティーです」


紙コップを受け取ると、両手で包むように持つ。

指先にじんわりと熱が戻ってくる感覚に、思わず目を閉じた。


外からは、時折歓声と氷を削る音が届く。

でもその音も、テント越しだとどこか遠い世界の出来事のようだった。


「終わりましたよー!お疲れさまです!」


そんな声が聞こえたのは、お茶を二杯目に注いでからしばらく経った頃だった。


しばらくして回り道をして帰ってきたチャレンジ組がテントの入口を開くと、冷たい空気が流れ込む。

同時に、登り終えた人たちの笑い声と、ホッとしたような吐息が混じる。

ヘルメットを外したセルヒオの髪は雪で濡れ、頬は赤く染まっている。

それでも、目は少年のように輝いていた。


「撮ってくれてたか?」

「もちろん。すっごくカッコよかったよ!」

私がスマホを掲げると、彼は「それは楽しみだ」と笑いながら手をこすり合わせた。


ガイドさんが用意してくれた温かいお茶を皆で分け合う。

手の中の紙コップから立つ湯気が、まるで登ってきた氷の滝の余韻を包み込むように、ゆっくりとテントの天井に消えていった。


セルヒオが自分のスマホを受け取ると、手袋を外して慎重に操作を始めた。

私もなんとなく隣に座って、カップを手にしながら画面をのぞき込む。


映像の中では、氷壁をよじ登るセルヒオが映っていた。

アイスアックスを振り下ろし、氷の欠片が飛び散るたび、背後に青白い光が瞬く。

登るたびに足元から雪煙が上がり、まるで氷の世界を切り開いていくみたいだ。


──すごい。

その映像に引き込まれていると、横からセルヒオが口元を緩めた。


「…うん、悪くないな。思ってたよりちゃんと撮れてる。」

「ほ、本当? なんかもうちょっと引いた方がよかったかなって…」

「いや、アップもいい。臨場感がある。見てると手が冷たくなる感じがする。」

「でも、ちょっと揺れてたかも。息してるだけで腕が震えてたし…」

「そこがリアルなんだよ。」


彼の声が落ち着いていて、妙に優しい。

その言葉に少し安心して、私も画面に目を戻す。


──と思ったら、突然聞こえてきた。


「すごい!」「やった!」


自分の声。

テンションの上がった私の声が、しっかり動画に入っていた。

思わずカップを持つ手が止まり、耳まで熱くなる。


「あ、これ……」

「ははっ、サクラの声、いいな。応援してくれてたのか。」

「う、うん…なんか、勢いで…。」


セルヒオは画面を止め、肩をすくめながら微笑んだ。


「嬉しいよ。こういうの、撮った人の気持ちが映るからさ。」


テントの外では、まだ風が唸っている。

でも中は、テントの熱とお茶の香りと、少し気恥ずかしい空気で満たされていた。


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