27. 1/16 大浴場
おかしいと感じたのは、ほんの小さな違和感だった。
ゆっくりと目を開けると、天井がゆるやかに揺れている。
どこかで低く響くエンジンの音。
ここがまだクルーズ船の中だということを、ぼんやりと思い出す。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、白く眩しい。
きっと天気がいいのだろう。雪の国の澄み切った空とは違う、海からのキラキラとした光。
旅の翌朝。
私は布団の中でそのぬくもりを味わいながら、久しぶりの自分の船室の匂いに安心していた。
ああ、帰ってきたんだなぁ、と。
ベランダの向こうに、昨日までの雪景色がちらりと頭をよぎる。
それを打ち消すように寝返りを打った。
──その瞬間。
『いった!!いたたたたた⋯!!』
背中から腰、腕、太もも、ありとあらゆる場所が悲鳴を上げた。
何かに刺されたような痛み。いや、燃えるような筋肉痛だった。
『な、なにこれ⋯!』
布団の上で転がるたびに、体中の筋肉が存在を主張してくる。
犬ぞりで手すりを握りしめた腕。
そりが揺れるたびに踏ん張った脚。
荷物を持って雪道を歩いた肩と背中。
そして何より、寒さに震えながらかまくらを作って笑っていた全身が、いま一斉に請求書を突きつけてきたようだった。
寝返りをうつだけで「うっ」「あっ」「ひぃ」と情けない声が漏れる。
『⋯いや、そりゃそうだよね⋯あんなに走って、叫んで、笑ってたんだもん⋯。』
天井を見つめながら、痛みに顔をしかめ、それでも笑いがこみ上げる。
雪原を駆け抜けるライラプスたちの姿、吹きつける風、アリーヤの笑顔——
カーテンの隙間からこぼれる光が、白くやわらかく部屋を満たしていく。
その光の中で、私は両手をそっと伸ばしてみる。
『いたた⋯』
やっぱり痛い。
でも、不思議と悪くはない。
この痛みのひとつひとつが、雪の国で過ごした時間の名残のように思えた。
でも──それと『痛みが耐えられるか』は、まったくの別問題だった。
目を開けるたびに、体中がギシギシと音を立てているような気がする。
腕を伸ばすのも一苦労。首を少し動かすだけで背中にまで鈍い痛みが走る。
まるで全身がぎゅっと硬い氷の中に閉じ込められているようだ。
『⋯これ、ほんとに筋肉痛だけ⋯?』
ぼやきながら、布団を頭までかぶる。
動くたびに痛いなら、もう動かなければいい。という怠けた結論に落ち着きかける。
けれど、そんな決意を裏切るように、お腹がぐぅ〜と鳴った。
『うう、正直だなぁ⋯』
昨日は帰船のあと、昼夜兼用の食事をビュッフェで簡単に済ませただけ。
あのときは疲れが勝って、ほとんど味も覚えていなかった。
今は、空腹のほうが痛みに勝ち始めている。
しぶしぶ布団をはがし、半分眠ったような体をズルズルと引きずり出す。
カーペットに手をついた拍子に肩が『ピキッ』と鳴った。
『いったぁ⋯ほんとに、どこもかしこも⋯』
ケトルに水を入れ、スイッチを押す。
そのカチッという小さな音が、やけに頼もしく聞こえた。
湯気が立ちはじめると、部屋の乾いた空気が少し和らぐ。
ベッドの下をあさって、フリーズドライの貝柱雑炊を見つけた。
『これ、あってよかった⋯』
マグカップに無理やり押し込み、お湯を注ぐ。
潮の香りがふわっと広がる。日本らしい香りだ。
『⋯あぁ、いい匂い⋯』
ティースプーンで掬いながら、ちびちびと口へ運ぶ。
少し塩気のある味が舌に触れるたび、疲れた体に沁みわたっていく。
体の芯がゆっくり温まり、頬がぽっと赤くなるのがわかった。
痛みは、まだある。
でも、湯気の中で呼吸を整えているうちに、ようやく動けるような気になってきた。
食べ終えた私は、マグカップを机の上に置いたまま、かろうじてカーテンを開け、再びベッドに沈み込んだ。
もう少しだけ⋯あと5 分だけ。そう自分に言い訳しながら、柔らかい布団に顔を埋める。
船のエンジンの低い唸りと、壁を叩く波の音が、心地よい子守唄のように響いていた。
でも、5分が10分になり、10分が20分になっても、体はまったく動かない。
全身が痛い。特に腕と太もも。寝返りを打つたびに「いてて」と小さく声が漏れる。
『⋯これ、もう一日休みにしてもいいんじゃない?』
誰に聞かせるでもなく呟いてみる。
今の仕事は自由裁量制。
在宅で、クルーズ船からでもできるリモートワーク。
上司に報告さえ不要で、一日くらい休んだって問題ない。
頭の中に、雪の国の白い景色がよぎる。
アリーヤと笑いながら転げ回った雪の上。
あれを「仕事に支障が出るほどの運動」だと認めたら⋯何かが崩れそうだった。
『いや、ダメだ。ここで甘えたら、絶対クセになる⋯』
船が小さく揺れる。
まるで、「それでも休んでいいんだよ」と囁かれているような気がした。
私は布団を蹴り飛ばし、起き上がった。
端末を掴み、電源ボタンを押す。
黒い画面に青白い光が灯り、見慣れたデスクトップが現れた。
『よし⋯起動した。えらい。私、えらい⋯』
自分を励ましながら、背筋をそらしてストレッチをする。
ノートPCから目を逸らせば、まだ静かな海が広がっている。
痛む腕をそっとさすりながら、キーボードを叩き始めた。
ギリギリまで粘った末に、いつもの時間から仕事を始めることに私は成功した。
「も、もうイヤだ⋯いや、でももうすぐそこだ⋯」
頭の中で小声で繰り返しながら、私は痛む足を一歩ずつ前に出した。
夕飯もビュッフェで簡単に済ませたけれど、あのとき食べた温かい料理の余韻さえ、今は筋肉のこわばりにかき消されている。
足首から太もも、背中にかけて、筋肉という筋肉が石みたいに重くて固い。
手すりにすがりながら歩く自分の姿が、窓ガラスに映っているのが少し可笑しい。
けれど、目指す先を思うと自然と口角が上がる。
この船には、大浴場がある。しかも、海を見下ろせる展望窓つき。
外国船で大浴場を備えているのは珍しく、乗船した初日からずっと楽しみにしていたのだ。
この凝り固まった体をほぐすにはお風呂につかるしかない。
そう信じて、私はひたすら廊下を歩いた。
カーペット敷きの廊下はやけに長く、壁にかかる航路図や美しい絵画が、何度も『もう少し先だよ』と無言で囁いてくる。
足は鉛のように重く、肩も背中もギシギシと軋む。
あとちょっと、あとちょっと⋯。
ようやくガラス扉の先に、青白いライトに照らされた「SPA」の文字が見えた瞬間、胸にこみ上げるものがあった。
救いの地を発見した巡礼者みたいに、心の中で「やっと⋯!」とつぶやく。
が、その感動は、たった一枚の紙切れによって地に落とされることになる。
ドアの横に掲げられた注意書き。
「Please wear a swimsuit.」
白地に黒字のシンプルな札が、残酷な宣告をしていた。
『⋯えっ』
目を瞬きながらもう一度読み直す。
何度読んでも「水着のご着用をお願いします」以外の意味はない。
あぁ、やっとの思いでここまで歩いてきたのに、部屋から水着なんて持ってきていない!
希望に胸を膨らませてここまで歩いてきた私は、完全に撃ち抜かれた形だ。
眉間に手を当てて目を閉じる。
ど、どうする⋯?
頭の中で冷静な私と衝動的な私が取っ組み合いを始める。
「もういい、諦めて部屋に戻ろう。せっかくここまで来たけど、今日は無理だ。」
「でも明日はまた寄港地。この体をほぐしておかないと、また歩けなくなるよ!」
頭の中で、二人の自分が責め合うみたいに交互に声をあげる。
それを背後で、まるで観客みたいに見ているのは、廊下を歩く他の乗客たちだ。
タオル以外も入ってそうなバッグを抱えたおばさまたちが、笑顔でスパの中へ吸い込まれていくのを横目で見ながら、私はますます決断を迫られる。
水着を取りに戻るか、もう諦めるか。
立ち尽くしたまま、私は心の中で深い溜息をついた。
部屋に戻る途中も、体は悲鳴を上げ続けていた。
でも、ここで引き返したら後悔する気がしてならない。
エレベーターに乗り込み、自分のデッキに戻る。
扉が閉まる音がやけに大げさに響く。
「もう少し⋯お風呂が待ってるんだから」と自分を励ましながら、水着と、タオルを抱えて再び出発した。
二往復目の廊下は、先ほどよりもずっと長く感じた。
でも、扉の向こうで立ちこめるスチームの匂いが近づくにつれて、ようやく報われる気がしてくる。
『今度こそ、入る⋯!』
勢いよくスパのドアを押し開けた。
中は、思っていたよりずっとシンプルだった。
想像していたような日本の温泉や銭湯のような「洗い場」などはどこにもない。
白いタイル張りの壁の奥に、いくつかのシャワースペースが等間隔に並んでいて、その先には大きな浴槽が湯気を上げている。
シャワーといっても、体を洗うためというよりは「上がる前に浴びるだけ」といった感じだ。
周囲の人たちも特に石鹸を使うこともなく、軽く湯を浴びてからそのまま湯船に浸かっている。
「なるほど⋯そういう感じか。」
私は心の中で小さく頷きながら、荷物をロッカーに入れ、恐る恐るシャワーの列へ向かう。
シャワーから出るお湯は驚くほど温かく、冷え切った肌にじんわりと染み込んでいく。
ササッと流した私はゆっくりと浴槽に浸かった。
筋肉痛でぎくしゃくしていた体が、少しずつほぐれていくのが分かる。
お湯の音に包まれながら、私は息を吐いた。
『…やっぱり来てよかった。』
湯船の湯面は照明を受けて淡く金色に輝いている。
湯気の向こうでは、年配の女性たちが楽しそうにおしゃべりをしていて、そのゆったりとした空気に、私の心もようやく落ち着きを取り戻していった。
浴槽の縁に体を預けると、じゅわりと熱が筋肉の奥まで染み渡っていく。
首まで浸かると、あの全身の痛みすら遠くに霞んでいくようだ。
天井近くまで伸びた大きなガラス窓からは、冬の海が広がっている。
外は薄く曇っていて、空と海の境目がぼんやりと溶け合っていた。
海面の上を低く漂う霧の向こうに、氷の欠片のような白波がちらちらと光っている。
その冷たい景色と、今この体を包む熱の対比が、なんだか夢の中みたいだった。
船の速度に合わせてゆるやかに流れる景色を眺めながら、自然とアリーヤの顔が浮かぶ。
カマクラの中で笑っていた顔、オーロラを見上げていた時の横顔。
あの夜空の光が、今でも網膜の奥に残っているような気がした。
『また、あの国に行けたらいいのに⋯』
湯気の向こうに向かって小さくつぶやく。
窓ガラスには、湯気に揺れながら、眉を下げた自分のぼんやりした姿が映っていた。
外では冷たい風が波をなで、船体の影が長く伸びていく。
私は湯の中でそっと足を伸ばし、ゆらめく湯面の光を見つめた。




