26.1/15 雪の国3日目
今日も少し寝坊してしまったけど、昨日よりは早く起きた。
それでもやっぱり家主夫婦と旅のご夫婦は、もう朝食を終えて片づけをしていた。
ダイニングには焼きたてのパンとバターの香りがまだ残っていて、ストーブの火がゆらゆらと音もなく揺れていた。
「アリーヤ、起きてこない。夜遅かったです。」
アリーヤのお母さんが、穏やかな笑みを浮かべながら言った。
その言葉は私と同じくらいの片言のセルマー公用語で、どこか柔らかい響きだった。
私はマグカップを両手で包み、いただいたトルメ・ティーで指先を温める。
スパイスの香りが湯気とともに立ちのぼり、少し眠気を溶かしてくれる。
窓の外は、昨日の夜の雪がうっすらと残っていて、朝日が反射してきらきらと光っていた。
しばらくすると、階段のほうからととと、と軽い足音がして、眠そうなアリーヤが現れた。
髪は少し乱れていて、頬もほんのり赤い。
「おはよう、サクラ。大変。カマクラは全身が痛くなるよ。」
「ふふっ、やっぱり? 私も同じことを思います。おはよう、アリーヤ。」
2人で笑い合うと、家主の奥さんが温かいスープをよそってくれた。
外からは、昨日までは聞こえなかった犬の鳴き声が響いてくる。
低く、時々甲高く、何頭かの声が交じり合って遠くの森から反響している。
「犬だ!」と私が窓の方を見ると、家主の旦那さんがにこやかに言った。
「ライラプス、オルトロス〜〜〜。ツアー〜〜人〜〜〜。」
まるで犬たちを呼ぶ合図のように、外の方からわんわんと賑やかな鳴き声が返ってきた。
改めて耳を澄ますと、鈴のような金具の音や、人の掛け声、そして雪を踏みしめる重たい音が混じって聞こえる。
どうやら、今日の犬ぞりツアーの準備が始まっているらしい。
ライラプスもオルトロスも、今日、私が乗る犬ぞりを牽くモンスター犬のはずだ。
あの名前を聞いたときは少し怖いイメージを持っていた。
けれど、窓越しに響く声や音には、どこか生命の弾むような楽しさがあって、恐怖というものは不思議と感じなかった。
朝ごはんをのんびり食べ終えて外に出ると、空気がきゅっと肌を刺した。
吐く息が白く広がり、雪面がまぶしく光る。
視界の先では、数十頭のモンスター犬たちが色とりどりのハーネスに繋がれていて、尻尾を振りながら跳ね回っていた。
銀灰色の毛並みを持つのがたぶんライラプス。
筋肉がしなやかに盛り上がっていて、走れば風のように速そうだ。
もう片方は、黒く大きな体に、二つの頭を持つオルトロス。
その双頭は互いに少し違う色の瞳をしていて、片方は琥珀、もう片方は深い群青。
地球の神話と違って尻尾は普通だけれど、見た瞬間に「モンスター犬」という言葉の意味がよくわかる。
けれど、実際に見てみても怖くはなかった。
むしろその大きな体を震わせて吠える姿は、ただ純粋に走ることが嬉しくてたまらない犬たちそのものだった。
雪を蹴る音も、尻尾を振るたびに舞う粉雪も、どこか無邪気で、見ているだけで笑顔になってしまう。
「ねぇ、サクラ!」
アリーヤが隣で息を弾ませながら笑った。
「ほら、あれ見て! オルトロス、二つの頭でけんかしてる!」
たしかに、片方の頭がもう片方の耳を引っ張っていて、係員が苦笑しながら間に入っている。
私は思わず吹き出した。
寒さでこわばっていた体が、いつの間にかほぐれていく。
雪の上に集まる犬たちの熱気で、空気まで少し温かく感じた。
係員が集まったツアー客たちに向かって笑顔で説明を始めた。
「この子たちは、普段は日中は林の中で自由に過ごしてるんです。明け方に放して、夜になるとちゃんと家に戻ってくるんですよ。」
その言葉に思わず「すごい⋯」と声が漏れた。
ライラプスもオルトロスも、見た目は立派なモンスター犬なのに、まるで飼い犬のように人の言葉を理解しているようだ。
「今日は犬ぞりをしますからね、朝から走りたくてもう大興奮です!」
そう言って係員が笑うと、確かにその通りで、犬たちは紐につながれているのがもどかしいとばかりに雪を掘り返していた。
前足でバフバフと雪を蹴り上げ、時おり「ワン!」と短く吠える。
それに応えるように別の群れも吠え返し、あたり一面に明るい声が響いた。
そのエネルギーに圧倒されながらも、私は思わず笑ってしまう。
係員が安全確認を終えると、モンスター犬たちは少しの間だけ自由にしてもらえた。
「少しなら触っていいですよ〜できるだけ名前を覚えてください。」という声に、ツアー客たちが一斉に目を輝かせる。
もちろん、私もアリーヤも例外ではなかった。
『わぁ⋯!』
近くにいたライラプスが、尻尾をブンブンと振りながら雪を蹴り上げてくる。
銀色の毛並みが朝日に光っていて、まるで氷の中を泳ぐ光の獣のようだ。
しゃがんで手を差し出すと、鼻先でそっと匂いを嗅ぎ、次の瞬間、勢いよく顔をすり寄せてきた。
『わっ、冷たい! でもあったかい!』
思わず笑ってしまう。
ライラプスの体温は思ったよりも高く、毛も意外と柔らかい。
雪の上にしゃがんで撫でているうちに、もう一頭、もう一頭と集まってきて、気づけば私の周りは銀色の犬まみれだった。
「サクラ、モテてるわね!」
アリーヤの声が聞こえた。振り向くと、彼女の方には双頭のオルトロスが二匹。
二つの頭が同時に舐めていて、彼女は笑いながら両手で必死に顔を隠していた。
『〜〜!〜〜〜〜。〜〜〜〜〜!』
アリーヤの訴えは意にも介さず、オルトロスの片方の頭がくしゃみをして、もう片方の頭が不満そうに吠える。
それがまるで兄弟げんかのようで、見ているだけで楽しくなる。
係員が「オルトロスは嫉妬深いんですよ」と笑いながら言う。
「片方を撫でると、もう片方も撫でてほしくなるんです。」
「かわいい⋯けど大変そう。」
アリーヤはそう言いながら、両方の頭を交互に撫でていた。
雪面では、他のツアー客も思い思いに犬たちと戯れている。
尻尾を追いかけるライラプス、雪に顔を突っ込むオルトロス、そして人の足元で腹を見せて転がる子犬のような一頭。
モンスター犬といっても、ただの犬とそう変わらないくらい騒がしかった。
首輪についている名札と、モンスター犬たちの顔を、私は必死に頭の中で一致させようとした。
『えっと⋯ルグがこの子、サフリが⋯あれ? さっきはこっちにいた⋯』
犬たちは自由奔放に跳ね回り、覚えたそばから混ざっていく。
そんな私を見てアリーヤが笑う。
「サクラ、それはたぶんスコール。ほら、尻尾の先が白い。」
「あ、本当です!」
目印を見つけるたびに、小さな発見のようで嬉しくなる。
雪の上を転げるようにして遊び、手袋の上から伝わる犬たちの体温と息づかいに、胸の奥がじんわり温かくなっていく。
息を切らして笑い合ううちに、気づけば時間は過ぎていた。
犬たちはまだ遊び足りない様子で雪を蹴っていたけれど、私は名残惜しくも立ち上がった。
家に戻ると、室内の空気がほんのりと木の香りを含んでいて、外の冷たい空気とはまるで違う。
荷物をまとめながら、何度も部屋を振り返る。
短い滞在だったのに、ここに確かに自分の生活の名残がある気がして、胸が詰まった。
下に降りると、家主ご夫婦と旅のご夫婦、それにアリーヤが揃って待っていてくれた。
ストーブの火がゆらゆらと揺れ、温かな空気の中に見送りの静けさがあった。
「ありがとう、ございます。」
唯一覚えた現地の言葉で、私は深く頭を下げた。
言葉が通じるか少し緊張もしたけど、家主のご夫婦は目を丸くして、それから優しく微笑み、うんうんと何度も頷いてくれた。
「〜〜〜、楽しい〜〜〜? 思い出〜〜〜。」
お母さんがゆっくりと話す。
アリーヤがすぐに訳してくれる。
「『短い間だったけど、楽しめた? ここの生活があなたのいい思い出になると嬉しい』って。」
「⋯はい。とても楽しかったです。」
言葉の壁があっても、それを越える温かさが胸に届く。
ひとりひとりとハグを交わす。
厚手の服越しでも、相手のぬくもりが伝わってきた。
「またね」と言葉にならない想いを目で伝えて、私は家を出た。
吐く息が白く溶け、静かな村の風景がゆっくりと遠ざかっていく。
アリーヤは犬ぞりの出発地点まで見送りに来てくれるという。
振り返ると、あの家の煙突から細い煙がまっすぐ空に伸びていた。
なんだか淋しくなって、私は小さく手を振った。
犬ぞりの出発地点に近づくにつれ、胸の奥にあったしんみりとした気持ちは、冷たい風の中にあっという間に吹き飛ばされていった。
そこには、相変わらず大興奮で吠え、跳ね、雪を蹴り上げている犬たちの姿があった。
黒と灰色の毛並みが陽の光を受けてきらめき、リードが鳴る音と、鼻息が白く立ちのぼる。
彼らのエネルギーはまるで冬の大地そのものの鼓動みたいだった。
近くには、あの箱ヘラジカモドキ車も停まっている。
犬ぞり組とヘラジカモドキ車組、ふたつのチームがそれぞれ出発の準備を進めている。
「時間になりました。行きましょう。」
ガイドの声に促され、私はアリーヤのほうを振り向いた。
雪の光を反射する白い息が、彼女の頬のあたりでふわりと揺れる。
「私は楽しかったです。アリーヤのおかげです。」
胸の奥から自然に言葉が出た。
しっかりと抱きしめると、アリーヤも両腕を私の背中に回してくれた。
「私も素敵な思い出ができたよ。ありがとう!」
声が少し震えているのは、寒さのせいだけではない気がした。
「ありがとうございます!」
もう一度笑い合い、私は名残惜しい気持ちを押し込めて犬ぞりのほうへ向かう。
6頭のモンスター犬たちが繋がれ、雪の上で待機していた。
どの子もライラプスらしく、引き締まった体つきと鋭い目つきをしている。
しかし、チラチラと振り返る顔と、尻尾の動き、息づかいは、まるで「早く行こう」とせがむ子供のようだ。
他の犬ぞりもすべて同じ犬種で編成されているようで、チームごとに整然と並んでいる。
一方、ヘラジカモドキ車に乗る人たちは、ガイドに誘導されながらぞろぞろと車へと乗り込んでいた。
犬ぞりは3人乗り。
私のそりには、優しそうなご夫婦が一緒だった。
先頭に寝そべるように乗る私の後ろに奥さんが座り、一番後ろで旦那さんが手綱を握る。
旦那さんはさっき教わったブレーキの位置を確かめ、かけ声を何度か反復して小さく「よし⋯」と呟く。
奥さんも不安そうに、それでも笑みを浮かべていた。
「それでは出発です!」
ガイドの合図が響く。
『〜〜!』『〜〜ーっ!』
あちこちから掛け声が上がり、犬たちが一斉に身を沈める。
私は手を横に出し、アリーヤに向かって思いきり手を振った。
言葉が届かなくても、気持ちは届くと信じて。
「サクラ! またね!」
アリーヤの声が風に乗って届いた。
胸の奥がぎゅっと熱くなる。
『〜〜!』
旦那さんの掛け声とともに、犬ぞりがぐんと前に跳ねた。
雪が弾け、世界が動き出す。
視界の端でアリーヤが小さくなっていく。
私は冷たい空気を思いきり吸い込み、手すりをぎゅっと握りしめた。
犬ぞりは、跳ねるように進んでいくヘラジカモドキの背中を追いかけるようにして、列をなして雪原を走っていった。
雪はやんでいて、薄く光を反射する白い世界の向こうには、冬の太陽が低く輝いている。
空はどこまでも澄み渡り、吐く息がすぐに白くほどけていった。
だが、太陽が出ているとはいえ、肌を刺す風は鋭い。
箱ヘラジカモドキ車のときとは比べものにならない。
マフラーの隙間から流れ込む風によって頬がすぐにじんじんと痛み、まつげの先が薄く凍っていく。
そして何より、林の影に入るたび、空気そのものが一段冷たく変わるような錯覚に襲われた。
冷気の層が見えない壁のように漂っているのだ。
「なるほど⋯帰りもヘラジカモドキ車にした人の気持ちが、ちょっとわかるかも。」
心の中でそう苦笑したころ、犬ぞりは一度目の休憩地点にたどり着いた。
遠く、ヘラジカモドキ車の列がゆっくりと小さくなっていくのが見える。彼らはそのまま休まずに進むらしい。
一方で、モンスター犬たちはまったく疲れていないようだ。
むしろ興奮がさらに高まっているのか、雪の上を跳ね回ったり、仲間に鼻先を突きつけて遊んだり、白い息を勢いよく吐きながら雪を掘っていた。
中には勢いよく顔を雪に突っ込み、そのままむしゃむしゃと雪を食べているライラプスもいる。冷やしているのか、ただの癖なのか。その無邪気さに思わず笑ってしまった。
「いや〜、緊張したよ。」
操縦を終えた旦那さんが肩を回しながら言う。
「次は私の番なので、私も今から緊張します。」
私も軽く息を吐きながら笑う。
そんな穏やかな会話を交わしているうちに、私の運転の番が回ってきた。
ブレーキの板を何度か踏んでみると、雪がギシギシと音を立てて沈み込み、金属の感触が足裏に伝わる。
しっかりと効くようで、少し安心した。
「今から林の中の道を行きます。前のそりが見えなくなっても、犬たちは道を覚えています。慌てずに走らせ続けてください。」
ガイドさんの言葉に、胸の奥で緊張が高まる。
深呼吸をひとつして、手すりを握る力を強めた。
先頭のそりが滑り出す。
そのあとを追うように、私も声をかけた。
『〜〜ーっ!』
ライラプスたちは一斉に体を沈め、次の瞬間、雪煙を蹴り上げて走り出した。
そりが滑る音と、犬たちの息づかい、風の唸りが混ざり合い、世界の音がそれだけになっていく。
風が容赦なく頬を切る。
林に入ると、太陽の光は枝葉の間から細く差し込み、雪面の上に金色の筋をいくつも描いた。
だが、光が途切れるたびに、空気は急激に冷え、一歩ごとに季節が変わっていくかのようだった。
モンスター犬たちは林に入った途端、自由を取り戻したように、動きが生き生きと変わっていく。
左右に首を振り、寄り道しようとしたり、時折不安そうにこちらを振り返ったり、隣の犬にちょっかいをかけようとしたり。
そのたびにそりが揺れ、スピードが不規則に上下する。
「ルグ!」「サフリ!」
名前を呼ぶと、モンスター犬たちはピクリと耳を立てて走りに集中し始めた。
係員さんが「名前を覚えてください」と言っていた意味を、今になってようやく痛感する。
少し緩んでは、また勢いを取り戻しながら、それでも彼らはまっすぐに道を駆け抜けていく。
雪の上を滑る音が、静かな森に吸い込まれていく。
カーブを曲がるたび、前のそりの姿が見えなくなるが、不思議と不安はなかった。
きっと、犬たちがこの道を覚えている。
そう確信して私はただ手すりを握りしめてモンスター犬たちの名前を呼び続けた。
その後何度か交代を続け、私が運転している時に、行きよりも短い時間で船影が見え始めた。
大きなその船に、ホッとした気持ちが胸に広がる。
前のそりがかけ声とともに止まり始める。
『〜〜!』
枯れ始めた声でかけ声をかけブレーキを踏む。
でも、モンスター犬たちは止まろうとしない。広々とした草原を楽しむように自由に走り始めてしまった。
ガッガッガッガッとブレーキが雪を弾く感覚はあるのに、モンスター犬たちの力が勝って一向に止まらない。
「いや~! 『〜〜!』『〜〜』ってば! わぁ〜〜っ!」
声はかすれ、これ以上の大声はでそうにない。
でもライラプスたちは楽しそうに尻尾を振り、耳をぴょこぴょこ揺らしながら、まるで「もっと行こうよ!」とでも言いたげに走り続ける。
その横顔に陽光が反射して、雪原を駆ける光の獣のようだった。
前のご夫婦は、恐怖よりも楽しさが勝っているらしく、笑い声を上げている。
「すごいスピードだね!映画みたい!」
「ほんと、サクラさん頑張って!」
先のそりから降りていた係員のリーダーみたいな方が鋭い声を出した。
『〜〜!!』
一瞬で空気が張り詰めた。
まるで呪文でもかけられたかのように、モンスター犬たちは一斉に足を止める。
静寂の中、雪がふわりと舞い上がり、白い粉のように降りかかる。
はぁっ、と肺の奥から吐き出した息が白く散り、ようやくブレーキを踏む足の力が抜けた。
モンスター犬たちは、怒られた子供のようにうなだれ、しょんぼりと耳を垂らして他の犬ぞりのある場所へ戻っていく。
「はぁ⋯びっくりした⋯」
「楽しかったから、まだ走りたかったんでしょうね。」
係員が笑いながら近付いてきて、犬たちの頭を一頭ずつ撫でていく。
ライラプスの一匹が私の手に鼻をすり寄せてきた。
冷たい鼻先が手袋越しに触れ、思わず笑みがこぼれる。
「うん⋯きっとそうだね。楽しかったのは、私も同じだよ。」
見上げると、もうすぐ近くに大きな船影が見える。
太陽に照らされて、甲板がゆっくりときらめいていた。
こうして私の雪の国での3日間は幕を閉じた。




