24.1/13 雪の国1日目
「本船は、現地時刻午後2時に予定通りウィックリー東部へ下船開始予定です。下船されるお客様は、必ず現地時刻午後7時までに船にお戻りください。尚、地球基準1月15日午後1時にウィックリー西部に着岸致します。オプショナルツアー等をご利用のお客様は遅れずにお戻りください。」
『あっつ! これでも寒いって本当?』
レンタルした防寒着一式を試着してみた私は、部屋の鏡の前でひとりファッションショーをしていた。
上下とも分厚い防寒スーツ、その上からさらに防風ジャケットとパンツ。マフラーは二重巻き、手袋も二重耳当ての上にはフードが覆う。
上と下、いったい何枚着たのかわからない。
肩を回すたびに、もこもこと鈍い衣擦れの音がして、鏡の中の私は見事に「雪だるま」になっていた。
これで動けるのかな⋯?
腕を上げてみると、まるで宇宙服。
それでも係員の人が言う。「これでも寒いですから、顔はなるべく出さないようにしてくださいね」と。
温かい室内ではもう汗をかきそうで、息を吐くたびにマフラーの内側がほんのり湿る。
重たい足取りでロビーに出ると、同じようにモコモコの防寒着を着た人たちが数人、ふーふーと肩で息をしながら「暑いね」「これ本当に必要?」なんて笑い合っていた。
みんな歩くたびにゴソゴソと音を立てていて、まるで着ぐるみの行進だ。
それでも、船内アナウンスが「間もなく下船準備が整います」と響くと、空気が少し引き締まった。
いよいよ外の世界に出る時が来たのだ。
重々しい音を立てて、デッキの扉が開かれた瞬間——。
透明な刃のような冷気が、勢いよく頬を切りつけた。
ほんの少しだけ出ていた顔の上半分が、瞬く間に冷たくなる。
『ひゃぁぁ……!』
思わず小声で叫ぶと、周りの人たちも「さ、寒いっ」「息が凍る!」と口々に言い合っている。
吐く息はすぐに白く結露し、まるで霧の中に包まれたようだった。
空は青く澄みきっているのに、海からの空気は針のように細く、でも確実に肌を刺してくる。
(これがウィックリー──雪の国の風……)
寒いのに、心の奥では少しだけ興奮していた。
自分がこのセルマー最北端の国に、いま立とうとしているのだと実感する。
外に出た瞬間、息を呑んだ。
目の前に広がるのは、どこまでも続く白。
地平線まで一面の雪。空と地面の境界がわからないほど、白と光が溶け合っている。
その白の中に、黒々とした背の高い林が立ち並んでいた。
枝の一本一本まで雪をまとい、静かに陽の光を反射している。
風はほとんどなく、音といえば自分たちの足が雪を踏みしめる音だけ。
キュッ……キュッ……。
乾いた雪を押し潰す音が、まるで息をしているみたいに一定のリズムで響く。
その音が不思議と心地よくて、私たちは誰も口を開かず、ただ白い息を吐きながらガイドの元へ進んだ。
ふと遠くで、鈍い金属のきしむような音がした。
目を凝らすと、林の向こうから何台もの箱車のようなものが、ゆっくりとこちらへ進んでくるのが見える。
けれど、それを引いているのは馬ではなかった。
分厚い体毛に覆われた、角の長い生き物。
ヘラジカのようで、でも足先が氷の上でも滑らないように平たく広がっている。
尻尾は太く短く、鼻先は雪をかき分けるためか少し扁平だ。
まるで、寒冷地用に進化したヘラジカ。
ガイドブックによればヘラジカモドキと呼ばれているらしい。
彼らが引く箱馬車──いや、箱ヘラジカモドキ車──の車輪は雪上を沈まずに滑るように進んでいく。
そのたびに、鈴のような金属音がチリンチリンと微かに響いた。
『……すごい』
思わず呟いた声は、マフラーに吸い込まれてすぐに消えた。
異世界の静寂の中、雪の白と木々の黒、そしてヘラジカモドキの灰色が、ゆっくりと混ざり合っていく。
それはまるで、夢の中にいるような光景だった。
案内に従って箱ヘラジカモドキ車へと乗り込む。
近くで見ると、それは思っていたよりもずっと簡素な造りだった。
重さを減らすためか、車体は木で組まれた四角い箱型。
表面の木目には霜が薄く張りつき、指先で触れるとパリ、と音を立てて砕ける。
中には最低限の設備しかなく、照明も暖房もない。
座席と呼べるものは、床から伸びた棒に取りつけられた細い板に、薄い布を敷いただけのようなものだった。
お世辞にも快適とは言えないけれど、その素朴さがかえって旅の緊張を和らげてくれる気がした。
腰を下ろすと、木がギシリと鳴った。
床下から伝わる冷たさが、分厚い靴底を通してじわりと足に染みてくる。
窓は一応透明な素材らしいが、外気で凍りついて白く濁っている。
指でなぞると、曇った氷の膜の向こうに、ぼんやりと雪景色の影が見えた。
ヘラジカモドキの角がかすかに揺れ、その動きに合わせて車全体がゆっくりと進み出す。
ギシ……ギシ……ザク……ザク……
わずかな揺れと、遠くで鳴る鈴の音。
誰も言葉を発さないまま、車は白い世界を進んでいく。
『〜〜〜!』
御者さんの声とともにヘラジカモドキが動き出したと思った瞬間、車体がぐっと沈み、次の瞬間には跳ねるように前へと飛び出した。
『わっ──!』
思わず声が漏れる。
ヘラジカモドキは信じられないほど強い脚力で、雪の上を跳ねるように進んでいく。
車はさすがに跳ねはしないが、ヘラジカモドキの動きに合わせるように座面がギシギシと鳴り、身体が浮くような感覚に襲われた。
シャーッ、ザリザリ──。
車の底で雪が削れる音が、勢いよく耳をかすめていく。
氷混じりの風が木の隙間から吹き込み、頬を切るように冷たい。
止まっていたときよりも何倍も寒いのに、不思議とそれが心地よかった。
息を吸うと、肺の奥まで冷気が入り、胸の内側までキンと冷える。
さっきまで暑さに顔を赤らめていたのが嘘のようだ。
『雪の国だ……!』
思わず呟いた言葉が白い息となって宙に溶けていく。
目に映るのは、果てまで続く雪原と、雪をかぶった背の高い林。
陽の光が雪に反射して、世界そのものが静かに輝いていた。
胸が高鳴る。
ああ、本当に来たんだ。
ガイドブックや映像の中でしか知らなかった「雪の国」に、いま私はいるんだ!
「寒いね……」「いつ着くんだろう……」
そんな小さな声がいくつか漏れ始めた頃、車の揺れがだんだんと穏やかになり、ガタガタという雪を噛む音がゆっくりと遠のいていった。
窓の向こう、白く濁っていた氷の層の隙間から、ようやく景色の色が戻ってくる。
見えてきたのは、ぽつりぽつりと灯りのともる家々。
どうやら小さな村らしい。
雪の中に埋もれるように建つ家は、どれも丸太をそのまま積み上げたような壁で、木と木の間には灰色の土のようなもので隙間が丁寧に埋められていた。
屋根は急な勾配を描いて天を突き、そこにも雪が厚く乗っている。
時おりその雪が「ずるり」と音を立てて滑り落ち、地面にふわりと新しい層を作っていた。
やがて車は完全に止まり、ドアが軋む音とともに開いた。
途端に、外から冷気が一気に流れ込んでくる。
その空気はまるで針のように細く冷たく、頬を刺した。
さっきまで寒さに凍えていた車内が、実はどれほど暖かかったのかを、今になって知る。
足を雪に踏み出すと、ザクッと柔らかい音が足元から上がった。
白い息を吐きながら、案内してくれるガイドの人のあとをついていく。
息をするたびに鼻の奥が痛い。
でも、空気が清らかで、どこか懐かしい匂いがした。
案内された家は、村の中央にある丸太造りの一軒家だった。
入り口の扉をくぐると、途端に鼻をくすぐるような木の香りと、ストーブの温もりが迎えてくれる。
温かい空気が肌にじんわりと染みていった。
家主のご夫婦は、雪のように白い毛をした優しそうな犬の獣人──じゃなかったエリザベスに注意されたんだった。──犬の近人種たちで、言葉はあまり通じないながらも、笑顔で手を振って出迎えてくれた。
つい確認してしまったけど、尻尾はないようだ。たれた耳が温和そうな雰囲気に輪をかけていた。
その家には、すでに旅行中の3人家族が滞在していて、どうやら私もその仲間に加わるらしい。
玄関で靴を脱ぐと、床下からの温かさがじんわりと足の裏に伝わってきた。
通されたのは、家の真ん中にある居間だった。
そこでは、金属のストーブがごうごうと音を立てて燃えている。
炎が赤く揺れ、ストーブの表面がまるで生き物のように明滅している。
ストーブの上では大きなお鍋が、くつくつと可愛い音を立てていた。
外の冷たさがまだ頬に残っていて、その温かさが余計に身に沁みた。
『〜〜、座って。お茶、〜〜〜〜〜〜。』
家主の奥さんが柔らかく言って、台所へと消えていく。
言葉の半分も分からなかったけれど、その声の調子だけで優しさは伝わってきた。
向かいに座ったのは、同じ家に滞在しているという旅行中の親子。
「こんにちは。アリーヤです。」
その娘さんがセルマー公用語で話しかけてくれた。
「こんにちは。私はサクラです。」
私が笑いかけると、アリーヤは少し恥ずかしそうに頷いた。
アリーヤは、私より少し年下に見えたけれど、話してみると20歳だという。
焦げ茶の髪を三つ編みにして、頬は赤く染まっている。
目が合うと、少し恥ずかしそうに笑った。
「寒かったでしょう? 初めての雪の国?」
「はい。私は雪を見たことがあります。ここはたくさんの雪です。たくさんは初めてです。例えば、別の世界のようです。」
「ふふ、そうね。私も来るたびにそう思うの。今回は長めの滞在で、1ヶ月いる予定なの。あと10日で帰るけど。」
「1ヶ月ですか? それはいいです。私は2回泊まるだけです。」
「そうなの? もったいないくらい素敵な場所よ。」
お茶が運ばれてきた。
木のカップから立ちのぼる湯気が、ほんのり甘く、スパイスの香りが鼻をくすぐる。
ひと口すすると、ミルクティーに蜂蜜と何かの根っこのような風味が混ざっていて、体の芯まで温まった。
「これはおいしいです。スパイス、おいしい。」
「『トルメ・ティー』っていうの。地元の人が冬になると必ず飲むお茶なのよ。蜂蜜と少しの生姜、それから『ノル草』っていう薬草を入れるの。風邪をひかないようにって。」
「ノル草…名前もかわいい。」
「効能はかわいくないけどね。ちょっと苦くて、でも温まるの。」
アリーヤが笑う。
その笑顔が雪の光を反射して、ストーブの赤に照らされるように輝いて見えた。
「あなたは、仕事で来たの?」
「はい。セルマーのことを知ること、仕事。」
「へぇ、素敵。じゃあ、たくさんの国を回ってるのね。」
「はい。雪の国、寒いです。でも、素敵です。」
二人でカップを両手で包みながら、外の吹雪を眺める。
窓の外は真っ白で、木の枝に積もった雪が時々ふわりと落ちていく。
「……寒いですが、いいです。雪の音は静かです。落ち着きます。」
「うん。静けさが、この国の『贅沢』なの。」
アリーヤのその言葉が、やけに胸に残った。
夜になると、外はもう真っ黒だった。
窓の外では家々の明かりと夜空だけが、積もる雪をかすかに揺らしている。
食堂のテーブルには、湯気の立つ鍋が置かれていた。
香ばしい肉の匂いと、ほんのりスパイスの刺激。
「ヘラジカモドキ、煮込み」と家主が言う。
野菜と一緒に長時間煮込まれたらしく、肉はフォークを入れるだけでほろりと崩れた。
横には「サパ」と呼ばれる、少し甘い香りのする丸いパン。
表面がカリッとしていて、中はふんわりと温かい。
「これ、すごく美味しいです。」
「うん、ヘラジカモドキは冬の貴重な食料だから。匂いは強いけど、食べると癖になるの。」
アリーヤは頬杖をつきながら、湯気越しに笑った。
その笑顔が、ストーブの火に照らされてやわらかく揺れる。
窓の外では、風が時折、壁を叩くように吹いていた。
けれど部屋の中は、お肉の煮える匂いと、火の揺らめく光と、笑い声で満ちている。
異国の夜なのに、不思議と安心できた。
食事のあと、ツアーの人が迎えに来た。
今回の滞在の目的、オーロラ見学の時間だ。
「今夜は晴れてて、オーロラ日和だよ」
そう言われ、再び雪だるま防寒着を着て、外へ出る。
そこには同じくツアーの参加者が集まっていた。
外気は頬を刺すほど冷たく、息をするたびに白い煙が立ちのぼった。
空を見上げると、星がいくつも瞬いている。
そんな空を、オーロラを見逃さないように眺め続ける。
ストーブが焚かれたテントに入って暖をとっては、見逃すまいとできるだけすぐに外に出る。
朝の、のんきに「これでも寒いって本当?」なんて言った自分を叱りたい程寒さに耐えた。
耐えに耐えた。
けれど夜中になり、どれだけ待っても、緑の光は現れなかった。
「……見えないですね。」
一緒に着てくれていたアリーヤにそういう。
「うん。でも、静かでいい夜だよ。」
アリーヤはそう返事をして、マフラーに顔をうずめたまま、目元だけで笑った。
吐いた息が白く広がり、その向こうに、遠くの森の影がゆらいでいる。
しんとした空気の中、遠くで犬の鳴き声がして、それもすぐに雪に吸い込まれる。
「本当は、オーロラを見せたかったんだけどな。」
「また明日見るために行きます。明日は見えます。」
アリーヤが少しだけ笑ってうなずいた。
家に送ってもらう途中、ふと足元に目をやると、月明かりに照らされた雪の道に、ヘラジカモドキの車輪跡が続いていた。
平らにならされ、ただ幾筋かの轍が雪の白の上にくっきりと残っている。
「アリーヤ。ここ──人の形。ここ」
私は身ぶり手ぶりで説明しながら、雪に倒れ込もうと誘った。
凸凹とした他の場所よりもきれいに形が残ると思ったのだ。
「いいわね、面白そう。顔はどうする? つけない?」
「うーん……はい。顔はしません」
アリーヤがくすりと笑い、私もつられて笑う。
息が白く交わって、夜空にゆらゆらと溶けていった。
2人で並んで立ち、雪の上で数を数える。
「「3、2、1──!」」
──ぼふり。
……とはいかなかった。
『〜〜〜!!』
『痛い!!』
胸のあたりにバンッと鈍い衝撃が走る。
車輪に踏み固められた雪はまるで氷の板のようで、ほんのわずかしか沈まない。
冷たさと痛さが同時に襲ってきて、私たちはうずくまりながら顔を見合わせた。
次の瞬間、同時に吹き出した。
『あははは! 痛い〜!』
『〜〜〜! あはははは!』
雪の国の夜に、二人の笑い声が響いた。
空気は冷たいのに、胸の奥は不思議と温かい。
全然言葉はわからないけれど──私たちは、ちゃんと通じ合っていた。




