23.1/12 刺繍教室
朝食を終えたばかりのお腹はほどよく温かく、けれど心の奥は少し重たかった。
『大丈夫かな⋯』
これから向かうイベントを思うと、不安が胸を占める。
デイレントに行った時に困らないように、と参加を決めたけれど、自信がないのは事実だった。
廊下の窓から海を覗くと、青い水面がきらめいて揺れていた。
光を返す波は小さく規則正しく、見ていると気持ちが少しずつ整えられていく。
『これも旅の思い出だもん』
自分に言い聞かせるように小さくつぶやき、背筋を伸ばして歩き出した。
会場のドアを開けると、もう賑やかな空気が広がっていた。
丸いテーブルがいくつも並べられ、白布の上に刺繍枠や色とりどりの糸、針山などが整然と置かれている。
窓際から差し込む光に糸がきらめき、まるで宝石のように見えた。
「おはよう」
声をかけると、すぐにマリナが笑顔で振り返った。
「おはよう。珍しくサクラが最後ね」
少しからかうような調子に、周りの皆がくすりと笑う。
エマとエリザベスも席に着いていて、なぜか自然な流れでアマンディーヌまでその輪に加わっていた。彼女は器用そうな指先で糸を撫でながら、どこか楽しげに微笑んでいる。
あれこれと雑談を交わしていると、会場の前方に立った先生が軽やかに挨拶を始める。
驚いたことに、先生は私と変わらないくらいの年齢の女性で、柔らかな声と落ち着いた所作が印象的だった。
「今日は、旅のひとときを彩る刺繍の時間です。どうぞ、気楽に楽しんでくださいね」
そう言ってにっこり笑うと、会場全体がふわっと明るくなった気がした。
こうして、私の初めての刺繍教室が始まった。
初めに先生が持ち上げて見せてくれたのは、手のひらほどの白い布に、小さな花模様が刺された見本だった。
初心者向けの縁だけをなぞったようなお花から、花びらの一枚一枚が糸の光沢で浮き上がり、まるで本当にそこに咲いているように見えものまで。
どれに挑戦するかは、各人が決めていいらしい。
「今日は、まず基本の説明を致しますので、全くわからない方は説明を聞いてから一緒に頑張りましょうね。」
先生の声は柔らかく、でもはっきりと響いた。
各自に布と刺繍枠、数色の糸が配られる。布を枠に張ると、ぱん、と軽く音がして、なんだかちょっと気が引き締まる。
私はピンクを手に取ってみた。けれど針に糸を通すだけで、すでに四苦八苦だ。
「えっと⋯あれ、端が割れちゃった」
焦っていると、隣のエマがすっと手を伸ばしてくれる。
「ほら、糸先を斜めに切ると通しやすいのよ」
「ありがとう⋯」
何の説明も聞かないまま、アマンディーヌはスイスイと縫い始めた。
エマとエリザベスも基本はわかっているようで、針を進める。
逆に横着して糸を何本も同時に引き抜こうとしたマリナは「ちょっと待って、糸が絡まった!」と笑いながら大騒ぎしていて、それをエリザベスが丁寧に直してあげている。
「はい、糸を3本ずつ取りましたね。まずは捨て糸と呼ばれる刺し始めを行います。刺し始めから少し離れたところに、表面から針を刺しましょう。」
先生の声は、落ち着いていて優しい。針先を示しながらゆっくりと手本を見せてくれるので、初心者の私でもなんとか理解できる。
言われた通り、私は慎重に針を布に通す。布の上に針先がちょこんと顔を出した瞬間、胸の中にちょっとした達成感が広がる。
そこからは並縫い、返し縫い。やってみれば単純なはずなのに、針目の間隔はバラバラ、布地も引っ張りすぎてシワがよってしまう。
チクチクチクチク。チクチクチクチク。
会場のあちこちから同じリズムの音が響き合い、それが妙に心地よい。目と手は布に集中しているけれど、口は自然と動いてしまう。
「ね、答え合わせがしたいんだけどさ」
ふと気になっていたことを思い出し、私は声を上げた。
「教会に行ったとき、寄付っていくらくらいするものなの?」
すると──ぱちん、とハサミで糸を切るような音とともに、周りの空気が一瞬で変わる。
エマもエリザベスも、マリナもアマンディーヌも、同時に顔を上げてこちらを見た。
「サクラ、あなた教会はどこでも無料で入れたでしょう!?」
マリナが半ば叫ぶように言い、他のみんなも「そうよ」とばかりに一斉に頷いた。
「あ、うん、参拝料じゃなくて。黒いマントの人がいて──寄付をって箱を差し出してきたの。だから一番高い硬貨を⋯」
私は慌てて説明する。が、その途中で、全員の表情が「やっぱりね」と言わんばかりに揃ってしまった。
「サクラ、それ、詐欺だから」
エリザベスがきっぱりと断定した。
「えっ!? うそでしょ!?」
思わず声が裏返る。
昨日の出来事が頭の中で巻き戻され、あの黒いマント姿の男の顔が鮮明によみがえってきた。
「本物の神父がそんなことしないわ。寄付はちゃんと教会の中の箱に自分で入れるものよ」
エマが眉をひそめて説明する。
「⋯あら、でも一番高い硬貨を入れたなんて、ずいぶん気前がいいじゃない」
アマンディーヌがくすっと笑った。
私は針を持ったまま固まり、頬がじわじわと熱くなっていくのを感じた。
まさか、自分が旅先でそんな典型的な観光客詐欺に引っかかっていたなんて⋯。
静かに視線を落とし、誤魔化すようにまたチクチクと針を進め始めた。
周りのみんなも「仕方ないわね」とでも言うように、一斉に針を手に取り、教室にふたたび小さな「チクチク、チクチク」という音が戻っていく。
けれども、やっぱり空気は少し重たいままだったのだろう。
しばらくして、エリザベスがふと顔を上げて私を見た。
「いい、サクラ? 私、地球は色々回ったけど、宗教的に『金持ちが分け与えるのは当たり前、貧乏人が金持ちに集るのも当たり前』って国もあるのよ。中には、貧困なら食べ物くらいの泥棒も許される──なんて価値観すら根付いてる国もあるの。」
その言葉に、思わず私の手がぴたりと止まった。
「なにそれ、怖い!」
反射的に口から出ると、隣でマリナも大げさに肩をすくめて「怖すぎる!」と被せてきた。
「あと、日本人は騙されやすいでしょう?」
エリザベスがさらりと口にする。
「え、否定はできないな⋯」
私は苦笑しながら視線を落とし、手元の花模様の刺繍を見つめた。
「日本は治安がいいから、海外に行くときは色んな人から注意されるもんね。⋯私も気をつけてたのにこうだったし。」
「へへへ」と乾いた笑いで相槌を打つ。
「そんな価値観だから、日本人の女性はいいターゲットになるのよ。」
エリザベスは淡々と続ける。
「あ、もちろんお金を恵んでもらうのに、必ずしも悪意があるわけじゃないの。宗教的に『許されている』と信じている場合も多いのよ。」
「⋯旅行の話なら、もっと軽い話が聞きたかったな。へへへ⋯」
思わず冗談めかして漏らした声は、少し情けなく響いた。
そんな私を見て、エマがふわりと微笑み、柔らかい声を差し挟んだ。
「大丈夫。観光客が多いところはね、今回のサクラみたいに『ちょっとぼったくられる』くらいなの。せいぜいタクシーで遠回りされたり、値段をふっかけられる程度。命を狙われるようなことは滅多にないわ。」
「そうそう。私なんか、この前の旅先でタクシーに乗ったら、目的地に着く前に運転手の親戚の家に寄り道されたわよ!」
エリザベスが笑いながら暴露すると、場の空気が一気に緩んでいく。
私はホッと胸をなで下ろしながら、改めて針を進めた。
薄い布の上に色糸の花が少しずつ形を成していくのを眺めていると、さっきまでの失敗談も、なんだか旅のひとつの思い出になっていく気がした。
針を動かしながら、ふと一息ついて自分の布を見下ろした。
そこには、小さな花の模様⋯のはずだった。
けれど花びらの形はいびつで、針目も不揃い。
糸が布を少し引きつらせてしまって、全体がぎこちなく歪んで見える。
ああ、なんだか幼稚園のときの工作みたい。
胸の奥にじんわりと恥ずかしさが広がる。
アマンディーヌとエリザベスの作品はアレンジまで入って美しく仕上がり、エマも品のある色合いできれいに出来上がっていた。
あんなに騒いで、変わらない位の腕前だと信じていたマリナさえ、私よりは上手に刺しているように思える。
比べるのはよくないってわかってるけど⋯それにしても差がありすぎる。
自分の針目を指先でそっとなぞり、かすかに溜息をついた。
失敗している部分ばかりが目に入って、布全体がどんどん不格好に見えてくる。
そうしているうちに先生が教室をゆっくりと歩きながら、一人ひとりの刺繍を覗き込んで回ってきた。
「いいですねぇ、その調子ですよ」なんて声をかけられるたび、周りから小さな安堵の笑みが漏れる。
そして、アマンディーヌの前で先生が立ち止まった。
「⋯まあ、これは⋯とても丁寧ですね。」
針目は均一で、色の選び方もセンスにあふれている。
先生の目がわずかに見開かれるのが分かった。
「刺繍は初めてですか?」
「いえ、趣味で少しだけ。でも絵を描くのは好きですから。」
アマンディーヌが何気なく答えると、先生は納得したように「なるほど」と頷いた。
次に、エリザベスの作品を見た先生の口からは、思わず小さな感嘆が漏れた。
「これは⋯既に完成品のようですね。どこかで習われていましたか?」
「母が趣味でして、子どもの頃からよく隣で真似してましたの。」
優雅に微笑むエリザベスの前には、まるで売り物のような緻密な小花模様が並んでいる。
周りのみんなが「すごーい!」とざわつく中、私の番が近づいてきた。
先生はにこやかに近づき、私の布を覗き込む。胸の奥で鼓動がドキドキ早くなる。
先生が私の前に腰をかがめ、静かに刺繍枠をのぞき込んだ。
「ふむ⋯」
短く唸る声に、思わず背筋がぴんと伸びる。
針目は少し歪んでいるし、色の境界線もヨレている。アマンディーヌやエリザベスと比べたら、どう見ても素人丸出しだ。
やばい、絶対下手って思われてる!
と、心臓が跳ねた瞬間、先生は口元に優しい笑みを浮かべた。
「最初にしてはとてもいいですよ。きちんと糸の幅が揃ってますし、色もきれいに選んでいます」
「ほ、ほんとですか⋯?」
「ええ。ここはちょっと糸を引きすぎていますけど、それも慣れれば自然にできるようになりますから。大事なのは、針を進めるリズムを自分の中で作ること。あなたにはそれがあります」
ほっと息を吐いた途端、肩の力が抜けた。
よかった、怒られるんじゃなくて褒めてもらえた⋯!
「ありがとうございます、先生」
思わず笑顔で返すと、先生は軽く頷き、また次の生徒の元へ歩いていった。
ちらりと隣を見ると、マリナが「ね、ちゃんと褒められてたじゃない」と目配せしてきた。
私は苦笑いしながら、小さくガッツポーズを作った。
先生が去ったあとの空気は、ほんの少し誇らしくて温かかった。




