22.1/11 光の国
「本船は、現地時刻11時に予定通りナルサーシウトへ下船開始予定です。下船されるお客様は、必ず現地時刻午後4時までに船にお戻りください。」
私は白い息を吐きながら定時馬車を待っていた。
並んでいる人影はまばらで、列らしい列もできていない。だから余計に不安になる。
だって、定刻を少し過ぎているはずなのに、肝心の馬車の姿はまだ見えないのだ。
『⋯ほんとに来るんだよね?』
思わず小声でつぶやき、周りを見渡す。
他の待っている人たちは慣れた様子で雑談したり、無表情で腕を組んで待っていたりする。どうやら遅れるのは日常茶飯事らしい。
私は一人だけそわそわと落ち着かず、キョロキョロと道の先を見張っていた。
そしてようやく、街角から黒々とした毛並みの馬に引かれた馬車が姿を現した。
鈍い車輪の音が石畳を響かせながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
御者台に座るのは無精ひげの男。
私は駆け寄るようにして行き先を告げ、合っているか尋ねた。
男は一瞥をくれると、「そうだそうだ」と言いたげに、しかし若干面倒くさそうな雰囲気で短く頷く。
その気のない仕草に少し拍子抜けしながらも、胸の奥で大きく安堵の息をついた。
馬車に乗り込むと、油の匂いと木の軋む音が包み込む。
外を眺めれば、色とりどりの家々が道沿いに立ち並んでいた。白壁に黄色い屋根、赤煉瓦に緑の窓枠。家ごとに違う色合いがまるで絵本の挿絵のようで、走っているだけでも目が楽しい。
街路を歩く人々の中には、守りの国以来となる獣人の姿も見えた。
ケモ耳を持つ女の子が果物を籠に入れ、犬のような尾を揺らしながら歩いていく。道の反対側では毛並みの整った獣人が、普通に人々と値段交渉をしている。
人の方が圧倒的に多いけれど、この街では獣人がいても珍しくはないらしい。
その自然な混ざり具合に、なんだか異世界に来ているんだという実感がまた少し増していく。
でも、そんなことを余裕で考えていられたのは、最初の停留所に停まるまでだった。
御者さんは馬を止めるだけで、行き先も停留所の名前も一切言ってくれない。
『え、ちょっと待って、これ、どうやって数えるの?』
心臓がドクンと跳ねる。私は慌てて指を折りながら心の中で数を始めた。
──6つ目の停留所。今、1つ目。絶対に逃すわけにはいかない。
馬車の揺れに合わせて体が細かく揺れ、そのたびに「これで合ってる? まだ降りちゃダメ?」と不安が増していく。
早く降りすぎたら見知らぬ街角で途方に暮れるし、遅く降りたらもう戻れないかもしれない。
私は景色と停車の回数を交互ににらみつけ、妙に肩に力を入れながら必死で数え続けた。
やっと6つ目の停車で「ここだ!」と確信して飛び降りたときには、胸の奥にたまっていた緊張が一気にほどけて、思わず深呼吸する。
ホッとした勢いで時計を見れば、予定通りまだテルコート教会に行くには早い時間だった。
『じゃあ、まずはごはんだ!』
気持ちを切り替えて町並みを歩く。パステルカラーの壁や赤い屋根、花の咲いた窓辺が続く景色はそれだけでおとぎ話のようだ。
途中、小さな噴水のある広場を抜け、ガイドブックに載っていた評判のカフェを発見する。
昼時で店内は混み合っていたけれど、運よく奥の小さな二人掛けの席に通してもらえる。
木の椅子に腰を下ろした瞬間、馬車で張り詰めていた神経がようやく完全に解けていった。
さて、と私はメニュー表をめくった。
正直、来る前から食べるものは決めていたんだけど、やっぱり現地のメニュー表って気になるよね。
紙は少し使い込まれた感じで、端が柔らかくなっている。お店の人が何度も差し出し、観光客が指でなぞった跡が残っているのだろう。
観光客がよく来るのか、セルマー公用語で簡単な説明が添えてある。
「焼いた小麦」「豆煮た汁」──そのまんまの直訳に、くすっと笑ってしまった。
料理の名前と響きだけでは分からない土地の味を、どうにか伝えようとしている不器用さが、むしろ可愛い。
少し楽しんだあと、私は決めていた「タラットゥーヤ」を指さした。
どうにか注文を済ませ、それほど待たずに料理は運ばれてきた。
「お待たせしました」と言われて目の前に置かれた瞬間、思わず声が出そうになる。
まるでイントのカレーを思わせるような鮮やかな盛り付け。
丸皿の手前には、小ぶりで平べったい丸パンが何枚も重ねられて、ふわりと山のようにこんもりと盛られている。
チャパティのようなそのパンは表面には香ばしい焼き目がところどころ浮かび、立ち上る匂いはどこか懐かしく、それでいて異国の風を感じさせる。
パンの奥を沿うように、半円を描いて並んだ赤、黄、緑、白、黒の5色のおかず。
『これが⋯タラットゥーヤ』
私は小さく呟いて、改めて説明を思い出す。
神の穀物と呼ばれる小麦で作ったパン。
赤は肉体、黄は精神、緑は伝統、白は魂、黒は調和を表す。
信者たちが昔から口にしてきた、テルコート教の伝統的なご飯なのだ。
ただ食べるだけじゃなく、意味がある。
パンとおかずを交互に眺めているうちに、まるでこれからちょっとした儀式に参加するような気分になって、胸の奥がそわそわと高鳴った。
「いただきます」と小さく呟いて、まずはパンをちぎり、赤の煮込みを少し乗せて口に運んだ。
熱々で、香辛料の刺激と肉の旨味が広がる。パンの香ばしさがその強さを受け止めて、バランスが取れている。
黄の豆はほっくりして優しい味で、さっきの刺激をすっと和らげてくれる。
緑の葉物は噛むたびに爽やかな香りが鼻に抜け、白の乳製品を合わせるとさらに口の中がすっきりする。
そして最後に黒のペースト。
深みがあってほんの少し苦みがある。
5つを順に食べていくと、味が循環するようで、なんだか心が整っていくような感覚さえあった。
「なるほど、これが信者の人たちが昔から食べてるごはんか…」と私は思った。
ただの観光客の食事じゃなく、宗教の中で大事にされてきた伝統の一皿。
不思議な達成感が私を包んだ。
あんまりのんびりして時間が過ぎるのは怖いので、私は早々にテルコート教会に向かった。
教会の高い丸屋根はすでに街並みの向こうに見えていて、青空を背にきらめいている。
あれだけはっきり見えるなら、道を迷う心配もないだろうと安心する。
石畳をテコテコ歩いていくと、教会を囲うように作られたカラフルな塀が視界に入った。
塀には塗り直された跡がたくさんあり、長い年月を物語っている。
その一角に、大きな鉄の門が両開きにされ、参拝者を迎え入れるように口を開いていた。
門越しに見えた教会は、さすがテルコート教の総本山。
大理石のように白く輝く外壁と、複雑に彫り込まれた聖人の像が、ただそこに立っているだけで圧倒的な威厳を放っている。
思わず息を呑んだ。
荘厳で美しい──それ以上の言葉が見つからない。
「無料で参拝できる」とガイドブックには書かれていたけれど、なんだか本当にいいのかな、と心のどこかで落ち着かない。まるでよそのお家に突然お邪魔するみたいで、胸の鼓動が早くなる。
意を決して門を通り過ぎようとしたその時だった。
黒いマントをまとった男性が、すっと私の前に立ちはだかった。
年の頃は三十代半ばほどだろうか。日焼けした顔に真剣な光を宿し、首から吊り下げた木箱を両手で持っている。
その姿は、厳格な門番のようで、思わず背筋が伸びる。
『〜〜〜〜。〜〜〜。』
低く抑えた声で何かを言われたが、現地の言葉なため残念ながらひとつも聞き取れない。
慌ててセルマー公用語で聞き返した。
「すみません。わかりません。」
すると、男性は短く、セルマー公用語を交えてはっきりと区切るように言葉を変えてくる。
『寄付。〜〜。〜〜寄付。』
どうやら、参拝料というより寄付を求めているらしい。
「ここは無料。違いますか?」
恐る恐る尋ねると、男性は微かに眉を動かして、しかし表情を崩さぬまま繰り返した。
『〜〜〜。寄付。〜〜〜寄付。』
参拝は無料ではあるけれど、信者も観光客も、気持ちとして寄付をしていくのが習わしってことかな。
『なるほど⋯』
私は小さく呟き、財布を取り出した。
この世界のお金にまだ慣れない私は、いくらが妥当なのか全然分からない。けれど、あまりに少なくても失礼な気がする。
少し迷った末、持っていた硬貨の中で一番高い硬貨を指先でつまみ、木箱の中へ落とした。
「カラン」と心地よい音が響くと、男性は静かに頷き、祈りの形を示した。
両手のひらを合わせ、指を少し絡めて胸の前で重ねる──テルコート教の祈りの印だ。
そして深々と頭を下げた。
私は戸惑いながらも慌てて同じように頭を下げ返す。
それだけで胸の奥に、少しだけ「歓迎された」ような温かさが芽生えた。
黒マントの男性と軽く会釈を交わし、私は門をくぐって教会の中庭へと足を踏み入れた。
外の喧騒が一瞬で遠のき、別の世界に入ったかのように静けさが広がる。砂利の敷き詰められた広場の両脇には背の高い樹木が並び、枝の間からこぼれる光が斑に石畳を照らしていた。
正面に立つ教会の扉は重厚な木製で、聖人や神獣を模した浮き彫りがびっしりと刻まれている。取っ手に手をかけると、想像以上に重くて、一瞬押すのをためらったほどだ。だが、ぎぎ、と低い音を立てて扉は開き、ひんやりとした空気が流れ出す。
中に入ると、そこは外の明るさが嘘のように薄暗かった。
けれど暗いのではなく、ステンドグラスを透かして差し込む光が柔らかに空間を満たしている。
赤や黄、緑に染まった光の筋が石造りの床や壁に散り、静かな虹のように揺れていた。
天井は驚くほど高く、声を出せばすぐに反響してしまいそうだ。
ドーム状の天井は白く、中央正面にはファイにしか見えないシンボルマークが輝いている。
その下には香炉から立ち上る白い煙が漂い、かすかに薬草のような甘苦い香りが鼻をくすぐった。
参拝者らしき人々は静かに祈りを捧げていたり、観光客なのか小さな声でおしゃべりをしていたり。
ただぼんやりとしている人もいて、なんというか自由な雰囲気だ。
私は緊張して、どこに立っていいのか一瞬迷ってしまった。
けれど、入口近くに設けられた長椅子が空いていたので、そっと腰を下ろす。
石のひんやりとした冷気が背中に伝わり、心臓が少し早く打ち始める。
『これが⋯テルコート教の総本山⋯』
小さく呟いた声は、あまりに大きく響きそうで、慌てて口を押さえた。
『〜〜〜〜。〜〜〜、〜〜〜。』
しばらくすると静寂を破るように、朗々とした低い声が教会全体に広がった。
低音ながらよく通る声は、ただの言葉というより旋律のようで、聴いているだけで胸の奥に染み込んでくる。
その声に続くように、女性の透き通った声がセルマー公用語で響いた。
「まもなく、女神がいらっしゃいます。みなさん、手を合わせ、その時を待ちましょう。」
緊張で喉が鳴る。私は不格好ながらも両手を合わせ、指を交差させる形をとった。隣の席に座る信者らしい人々は、皆同じ動作を流れるように行っている。
司祭らしき男性が中央の通路へと歩み出て、私たちに背を向けると、静かに両手を高く掲げた。
袖口が揺れ、広げられた掌が光を掬うように天へ向けられる。
その仕草ひとつで、会堂全体の空気が張りつめる。
やがて、司祭はゆっくりと礼の形を取った。
手を掲げたその先、視線の先にあるのは祭壇上部に掲げられた大きなシンボルマーク。
ファイのようなその意匠の上の天井に、今まさに光が集まりつつあった。
差し込む太陽光が、壁に並ぶステンドグラスに反射し、角度を変えて一筋、また一筋とシンボルの上へと収束していく。赤、青、黒、オレンジ⋯色とりどりの光が混じり合い、ゆっくりとひとつの像を形づくっていく様を見つめ、教会の中の全員はただ静かに待った。
待ったのはほんの数分か、それとも十分以上だったのか。
体感では永遠のような沈黙の中で、光の中にやがて人影が浮かび上がった。
顔を少し伏せ、祈りを捧げる女神の姿。
輝く衣はステンドグラスの赤や金の光を受け、虹色に揺らめく。髪は光の糸を紡いだように流れ、その指先からは微細な輝きが零れ落ちている。
「⋯っ」
誰もが息を呑んだのがわかる。
その姿は幻とも現実ともつかないくらい、圧倒的な存在感を放っていた。
私は思わず目を細め、両手を強く組み直した。
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。
⋯これが、テルコートの女神。
神々しいという言葉では追いつかない。
これを作り上げた人々の英知の結晶が目の前に見えていた。
光がすっと離れていくと、女神の姿はほどけていき、最後にはまたただのステンドグラスの光に戻っていった。
教会内の空気がふわりと緩む。
だが、誰一人としてすぐには動かない。
名残を惜しむように、信者たちはまだ手を組んだまま、深く息をひそめていた。
その静寂を破ったのは、小さな足音だった。
横の扉から、5人ほどの子供たちが一列に並んで出てくる。
年の頃は7歳から10歳ほど。みな同じ黒い衣装を身にまとい、胸には小さな銀のシンボルをかけている。
彼らは光に導かれるように聖壇の前に進み出ると、透き通るような声で賛美歌を歌いはじめた。
大人の合唱では出せない素朴さと澄んだ響きが、石造りの高い天井に反射して、幾重にも重なり合う。
『⋯きれい』
思わず小声で呟いたが、その声も旋律に飲み込まれてしまう。
歌は、神話の一節を語るように抑揚があり、ひとりひとりの声が光の粒となって空間を満たしていく。
私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、その光景を見つめていた。
やがて歌声も終わると、司祭の男性のお説教が始まったようだ。
私は女性の翻訳に耳を傾ける。
「今日は観光の方が多いようですね。ということで、今日はテルコート教の最も大事な教えをお話しましょう。」
朗々とした低い声と澄んだ高い声は、それだけで子守唄を聴いているような聴き心地の良さがある。
「テルコート教で最も大切なのは調和です。全てを受け入れることで、角をなくし世界を丸くします。そしてみんなで道筋を作り───⋯⋯」
「このシンボルは──⋯⋯⋯」
「そして神はこの世界を──⋯⋯」
ダメだとわかっているし、自分なりに必死なのに。
抗えない。
⋯とんでもなく眠い。
ウトウトと船を漕ぐ合間に話は進んでいき、拍手の音で、お説教が終わったことに私は気がついた。
今さら拍手して目立つような真似はしない。
あたかも聞いてましたよ。風な雰囲気を出しながら口元をチェックする。
女神様、本当にすみません。聞く気はあったんです!
平和を願ってる神様なのは理解しましたから!
すみません!!




