20.1/9 魔女の国
「本船は、現地時刻午後2時に予定通りゴチアへ下船開始予定です。下船されるお客様は、必ず現地時刻午後6時までに船にお戻りください。」
船を降りて街へ向かって歩いていると、鼻をつくような青臭い匂いが潮風と混ざり合い、じわじわと立ち込めてきた。
最初は刈ったばかりの草のような爽やかさかと思ったが、次第に濃くなっていくその香りは、少し薬臭くもあり、確かに「魔女の国」という呼び名に通じる不思議さを感じさせた。
しばらく登り坂を抜けていくと、視界が開け、メイン通りと思しき場所に出た。
石造りの建物が両脇に並び、ところどころに黒い看板や大鍋をかき混ぜる人の姿はちらほら見える。
だけど、なんだろう。
思わず足を止めて周囲を見渡す。
ガイドブックや『セルマー旅記』で読んだ想像の中のゴチアは、通りいっぱいの香草の匂い、並んだ大鍋をかき混ぜる「魔女」たち、通りを歩くだけで異国の魔法の世界に迷い込んだような街並みだった。
でも、実際に目の前に広がるのは、何となく活気がない通りに見えた。
所々お店は閉まり、大鍋をかき回すお店はあるにはあるがそう多くない。
食べ物屋やお土産屋はそれなりの数あるようだが、魔女の国と呼ばれるには「魔女」が少ないように思えた。
少し寒く感じて、私はダウンのチャックをあげる。
ゆっくりと通りを歩くと、あちこちから客引きの声がかかる。
どこも大声で「寄っていって!」と呼びかける活気があり、耳に入る響きは他の国の町とそう変わらない。
けれど、漂う青臭い匂いが独特で、この土地だけの雰囲気をはっきりと感じさせていた。
同じようにクルーズ船から降りたと思われる観光客たちの中には、串焼きを買い食いしていたり、香草の束を手に取って品定めしていたりする人もいる。お土産を覗き込んで「なんだろうこれ」と首をかしげる人の姿も目に入り、私の胸も少しずつ弾んでいった。
その時、香りの濃い一角が目に留まった。
通りの端に、フード付きのマントで上半身を覆った、大鍋をかき混ぜている女性がいる。
大鍋の中から立ち上る蒸気は薄い靄となってあたりに漂い、ただのスープではない不思議な気配をまとっていた。
私は足を止め、思い切って声をかけてみた。
『私、みる、いいですか?』
言葉が通じるか少し不安だったけれど、女性は振り向き、にこりと笑った。
「セルマー公用語なら話せるよ。見ていくといい。」
驚きが顔に出たのだろう。
彼女は小さく吹き出し、余裕のある目でこちらを見た。年の頃は四十代くらいだろうか。
しなやかな指先で木の棒を回し続けながら、大鍋の後ろの椅子に腰を下ろしている。
隣の台には、虹色の光を受けてきらめく石のアクセサリーがずらりと並んでいた。
「ありがとうございます。私、見る、もらいます。」
私は通りから邪魔にならないように横に寄り、大鍋の中をじっと覗き込む。
鍋の中の液体はサラサラとしていて、棒で混ぜても何の抵抗もないようだ。
でもなぜか火はついていないのに、ときおり「ぼこり」と音を立てて泡が浮かび上がってくるのだ。
「この薬液は、店によって違うんだよ。魔力を加えていったら魔石が出来るのはどこも一緒なんだけどね。薬液の種類によって、色やエネルギーの強さが違うのさ。レシピはもちろん秘密だよ。」
そんな説明を笑ってしながら、女性は鍋を混ぜ続ける。
濁っているせいか、それとも鍋が深いせいか、底はまったく見えない。暗くて吸い込まれるような不気味さすらあった。
──ボコリ。
一際大きな泡が破裂したかと思うと、次の瞬間、カラカラと硬いものが転がる音がした。水面に、真っ白な石のかけらがいくつも浮かび上がってくる。
『わぁぁ!』
思わず声が漏れた。
女性は慣れた手つきで網を使い、白い石をひとつひとつすくい上げると、隣の机にそっと置いた。濡れた石は太陽の光を反射してきらめき、まるで小さな宝石のように輝いている。
「⋯きれい。」
言葉が自然に口からこぼれる。
女性は満足げに微笑んだ。
「でしょ? これがゴチアの魔女が作る魔石だよ。」
女性は拾い上げた白い石を指先で転がしながら、ぽつりと語り始めた。
「これはね、『魔石』って呼ばれるの。昔はゴチアの誇りで、街をあげて作っていたものなんだよ。」
彼女の声には、どこか懐かしむような響きがあった。
「でも今じゃ、他の国でずっと効率よく、強い魔石が作られるようになってね。ゴチアの白い魔石は、こうして見かけが綺麗なだけの飾り物になっちまった。」
そう言って、隣の台に並べられた虹色のアクセサリーへと視線を移す。
光を受けてきらめくそれらは、たしかに美しくて目を奪われる。けれど「装飾品」と言われると、なぜだか急に儚い存在のようにも見えた。
「まあ、それでもアクセサリーにして身につけておけば、エネルギー切れの時の“万が一のお守り”くらいにはなるんだよ。」
女性はそう言って肩をすくめる。
「けどね、昔みたいに高く売れるわけでもない。だんだん作る人も減って⋯今じゃ私みたいに、半分趣味の延長で大鍋を混ぜてる人間しか残っちゃいないのさ。」
言葉の最後には、少し寂しさをにじませた笑みが添えられていた。
「まぁ、そんなことがあったってだけの話だよ。そうだ、あんたもやってみるかい? 魔力は勝手に必要な量この棒に引き出されるから混ぜるだけだよ。」
なんとも魅力的な提案だった。
「私、アースの人です。大丈夫ですか?」
恐る恐るたずねると、女性はくすりと笑った。
「魔力のない人間なんていないよ。気づいていないだけさ。」
そういうものなのか?
魔法の世界らしい返答に、胸の奥で好奇心が膨らんでいく。
女性に棒を手渡され、私は大鍋の前に立った。
ぐるり、ぐるりと液体を混ぜる。
見た目はただの濁った水なのに、混ぜていると棒がわずかに重くなったり、逆にすうっと軽くなったり、不思議な感覚が腕を伝ってくる。
「そんなに力を入れなくていい。頑張りすぎると続かないよ。」
後ろから声がかかる。
「長く、気持ちを込めて混ぜ続けることが大事なんだ。」
なるほど、と少し力を抜いてみる。すると液体が自分の動きに合わせてゆったり回り出し、表面に小さな泡が浮かんでは消えていく。
──ボコリ。
ひときわ大きな泡が立つたびに胸が高鳴る。だが、ただの泡で終わってしまうことが何度も続いた。
「もうちょっとだよ、あきらめないで。」
女性の声に励まされ、額に汗を浮かべながら棒を握り続ける。10分ほど経ったころ、腕がじんじんと重くなり「もう無理かも」と思った、その瞬間。
──ボコリッ。
今までとは違う深い音とともに、水面に白い光がふわりと浮かび上がった。
「⋯出た!」
私の声に呼応するように、液体からころりと石が姿を現す。透き通るような淡い白で、網ですくわれてキラリと光った。
「初めてにしては上出来だよ。」
女性が優しく微笑み、石を布で拭きながら差し出してくれた。
女性は私の手のひらに乗った魔石をじっと見つめると、ふっと目を細めた。
「きれいな石だね。せっかくだからアクセサリーにしていくかい?」
「⋯え、そのこと、可能ですか?」
思わず声が上ずる。
「もちろん。この街では昔からそうしてたのさ。旅人が記念に持ち帰れるようにね。」
そう言うと、隣の台から銀の細い鎖や皮ひも、真鍮の枠などを取り出して並べてみせてくれた。
虹色の光を反射する金具に、手作り感のある細工。
どれも素朴だけど不思議と温かみを感じる。
「首から下げるペンダントもいいし、手首に巻くブレスレットもいい。石の形に合わせて加工するから、時間は少しかかるけどね。」
私は迷いながら石を眺めた。
淡い白の輝きは、初めて自分の手で生み出した魔法の証のように思える。
「⋯じゃあ、ネックレスを作る。欲しいです。」
「いい選択だよ。」
女性はうなずくと、手際よく作業を始めた。
魔石を小さな枠にはめ込み、細い針金で固定していく。
ときどき道端を歩いていた乗客と思われる人たちが覗き込み、「きれい!」と声を上げていく。
しばらくして差し出されたのは、小さなネックレスだった。
白の魔石が胸元で光を受け、ほんのりと輝いている。
「これで完成だ。旅のお守りにもなるよ。困ったとき、石をぎゅっと握ると少しは助けてくれるかもしれない。」
「⋯ありがとうございます!」
胸にかけてみると、不思議な安心感がじわりと広がる。
「あ、あと今日のお風呂はしっかり入ったほうがいいよ」
彼女が、外したネックレスを布に包んで差し出しながら言った。
「え?」と私が聞き返すと、彼女はにやりと笑う。
「薬液の匂い、けっこう強いんだ。髪や服にもしみつく。ほら、私だって──」
そう言って自分のマントの裾を摘んでひらりと広げてみせた。
黒色の布には、ところどころ淡い染みが残っていて、独特の甘苦い香りが漂う。
「だからマントを着るの。寒くなくてもね。フードまで被ってるのは、そのせい。」
彼女は自分の髪を一房つまんで鼻先に近づける。
「油断すると、この匂いが残っちゃう。特に髪はね。だから工房の人は皆、湯に長めに浸かるんだよ」
なるほど、と私は思わず自分の袖を嗅いでみた。
ほんのりと、焦げた草と薬草を混ぜたような、鼻の奥に残る匂いがする。
「……あ、これは匂い、気になります。」
「でしょ? まあ、慣れれば『魔石の匂い』って感じで懐かしくなるんだけどね。」
彼女は肩をすくめて笑った。
船に帰ってしっかりシャワーを浴びた私は、ベッドに腰かけ、部屋の明かりを落とす。
そっと巾着袋から魔石のペンダントを取り出し、胸元にかけてみる。
暗闇の中、カーテンのすき間から差し込む月明かりのほのかな灯りを拾って、魔石が淡く光った。
虹色がかった微かな輝きは、昼間の太陽の下で見るよりも神秘的で、まるで自分だけの小さな星が胸の上で瞬いているように見える。
『……きれい。』
思わず息を吐く。
光は弱くても、確かに存在を主張している。
手で軽く触れると、ひんやりとした感触が指先に残り、ほんのり安心感が広がる。
夜の静寂と、ほんのり光る魔石。
今日一日、魔石作りに夢中になった余韻が、心を満たしていく。
この小さな光が、明日からの旅路を見守ってくれるような気がして、私はベッドにもたれながら、しばらくその輝きに見入っていた。




