16.1/5 迷宮の国①
モンスターと戦う描写があります。
虫も出てきます。ちょっとリアルです。
苦手な方はご注意ください。
「本船は、現地時刻午後1時に予定通りアクスブリエルへ下船開始予定です。下船されるお客様は、必ず現地時刻午後7時までに船にお戻りください。」
馬車に揺られながら、私たちは森の中を進んでいた。
トリケラトプスモドキの恐竜車に比べると、今の馬車は驚くほど静かだ。
地響きのような揺れもなく、代わりに踏み固められた道の小さな凸凹を拾うように、カタカタと一定のリズムで進んでいく。
それでも、進む先を覆うように高く茂った木々に囲まれると、静けさとは別の緊張感が押し寄せてくる。
視界のほとんどが緑に閉ざされていて、まるで森そのものに飲み込まれていくような圧迫感がある。
今日はツアー参加者も多く、自然と目的地が同じになりやすい。
マリナ、ウィリアム、アマンディーヌと馬車を共にすることになった。
マリナは窓の外を見て興奮気味に身を乗り出し、ウィリアムにずっと話しかけている。
アマンディーヌは少しそわそわとして、腰に下げた大きめのポーチを指で確かめながら、静かに息を整えていた。
セルヒオとバイロンは別の目的地行きの馬車に乗っているので、後で街で合流する約束をしている。
今日の目的地は「迷宮」。
鬱蒼とした、迷宮のように入り組んだ森。
現地の人にとって欠かせない採集場所であり、冒険者にとっては試練の場でもあるらしい。
もちろん、素人の観光客が勝手に入れる場所ではない。
こうして予定されたツアーに参加し、冒険者の引率があって初めて、比較的安全なルートを辿ることができるのだ。
私たちは「初級迷宮」と呼ばれる入口から入る。
そこは森の浅い場所しか歩けない代わりに、比較的安全性の高い人気のエリアだという。
一方、セルヒオとバイロンは「中級迷宮」へ挑戦すると言っていた。
そこから先は強いモンスターの気配が残る危険地帯とされている。
私も迷ったけれど、熊とか猪とかが出てくる森と考え直して、怖くてやめておいた。
でも、経験豊富な冒険者と巡り、迷宮の真髄に触れる経験が得られる。
彼らには、そちらの方が挑みがいがあるのだろう。
森の中に入るにつれ、空気の湿度がじわりと肌にまとわりついてくる。
そこかしこに生き物の気配を感じるのは気のせいだろうか。
そして馬車の揺れに合わせて、私はわくわくと緊張を高ぶらせていった。
迷宮の入り口と思われる場所に数人の男の人が立っているのが見え、その前にゆっくりと馬車が停まった。
御者が「ここで降りてください」と声をかける。
私たちが足を下ろした先は、鬱蒼と茂る森の手前にぽっかりと広がった開けた場所だった。
草は短く刈り揃えられており、周囲には同じようにツアーに参加する人々が集まっている。
どこからか焚き火の匂いが漂ってきて、先行組が準備を整えているのだと分かった。
正面、迷宮の入り口と思われる、森の中へ続く道は黒々とした木々の影に覆われていて、入口に立っているだけで吸い込まれそうな迫力がある。
木々の枝葉は高く天を覆い、差し込む光はわずかな木漏れ日だけ。
足を一歩踏み入れたら、昼間でも夕暮れのような暗さに包まれるだろう。
「初級迷宮参加者はこっちだ!」
低い声が響いた。
見ると、全身を革鎧で固めた大柄な男が手を振っている。
彼の腰には大剣が提げられていて、その背中からはただ者ではない気迫が漂っていた。
近づくと、彼の後ろに数人の冒険者が並んでおり、それぞれ弓や槍を携えている。
「俺はガルド。今日の案内役だ。心配するな、ここは初級エリアだから命の危険はほとんどない。だが──」
彼はゆっくりと観光客全体に視線を流した。
「不用意に列を外れたり、勝手に草むらを漁ったりすれば、思わぬ相手に噛みつかれるかもしれん。そのつもりでついてきな。」
ツアー参加者たちから、緊張と期待の混じったざわめきが広がる。
マリナは「何が出てくるのかな? その日によって全然違うって雑誌には書いてあったけど」と小声でつぶやき、ウィリアムはマリナの手を握る力を強める。
アマンディーヌは少し緊張した表情のまま、森の入口を見据えていた。
私は、心臓が高鳴って仕方がなかった。
観光気分で来たつもりなのに、この空気はまるで本物の冒険の始まりだ。
「じゃあ、出発だ。」
ガルドの一声で、一行はゆっくりと森の奥──迷宮へと足を踏み入れていった。
森の中に一歩踏み入れると、ひんやりとした空気が肌にまとわりついた。昼間だというのに光はわずかで、湿った大地の匂いが鼻をつく。
「おい、こっちを見てみろ。」
ガルドが足を止め、腰をかがめて指さした。そこには、鮮やかな青と紫が入り混じった花が咲いている。花弁は薄く透き通り、光を受けるとガラスのように輝いて見えた。
「これは《リジェロ草》だ。夜になると自分で光る。火を使えない状況じゃ重宝する薬草だな。」
「きれい⋯!」とマリナが思わず声をあげる。
ガルドは口元だけで笑い、「ただし、素手で触ると三日は手が痺れる。見るだけにしとけ」と付け足した。
感嘆のため息が漏れる一方で、緊張感も強まる。
やっぱり、ただの観光とは違う。
──その時。
背後の茂みから、ガサリと嫌な音がした。
振り返ると、手のひら大の毛むくじゃらの塊が木の根元に張りついていた。
「ひっ⋯!」
喉が引きつり、足がぞわぞわと逆立つ。黒くて太い脚がもぞもぞと動き、赤い眼がぎらついた。
き、気持ち悪い!
「安心しろ、こいつはデスタランチュラ、見た目だけだ。毒は強いが、何もなしに襲ってくるようなもんじゃない。ただし群れで出ることもあるからな。」
ガルドの解説に、余計に背筋が冷える。
恐る恐る横を通り過ぎようとしたその時、前方の草むらが突然揺れた。
そこから飛び出してきたのは、ウサギ⋯に見えるが、頭に鋭い角が生えている。
「かわ⋯」と言いかけた瞬間、角兎は信じられない速さでこちらに突進してきた!
「下がれ!」
ガルドが即座に前に出て、大剣を横薙ぎに振る。鈍い音がして、角兎は弾かれ、地面に転がった。痙攣してから静かに動かなくなる。
「見た目に騙されるな。自分よりも大きな獲物に平気で襲いかかる、森の狩人だ。」
ガルドが冷たく言い放ち、剣を布で拭った。
私たちは言葉を失い、ただ息を呑んでその場に立ち尽くす。
促されるままにさらに奥へ進むと、今度は低いカサカサという音が足元から響いてきた。
暗がりから這い出してきたのは、人の腕ほどもある巨大なムカデ。
背中を硬い殻で覆った鎧百足だった。節ごとにぎちぎちと曲がり、無数の脚が一斉に動く様は、目を背けたくなるほど気持ち悪い。
「うわぁぁ⋯!」誰かが静かに悲鳴を上げる。
ガルドの仲間の冒険者たちがすぐさま前に出て、槍で進路を塞ぐ。
鎧百足は威嚇するように体をくねらせたが、数人がかりの連携であっという間に仕留められた。
残されたのは、ぬらぬらと光る節足の骸。
「⋯初級でもこれくらいは出る。覚えとけ。」
ガルドが短く告げる。
胸の鼓動は早鐘のよう。
ゲームの世界を見に来たつもりが、今は本物の迷宮の只中に放り込まれている⋯。
その実感に、背筋が震えた。
森の奥へと進むにつれて、空気が一層重たく感じられた。
先頭を行くガルドが、ふいに手を上げて合図する。全員の足が止まった。
「⋯出るぞ。しかも厄介なやつだ。」
低くつぶやく声に、全員の背筋が伸びる。
茂みが揺れ、そこから姿を現したのは、狐に似たしなやかな体躯。
だが、尻尾が二つに分かれ、先端が炎のように揺らめいている。
「二股狐⋯!」と冒険者の1人が小声でつぶやいた。
確か初級ラビリンスにはまず現れないはずの魔物だ。
その証拠に、さっきまで余裕を見せていた冒険者たちの顔が一変し、武器を構える動きが速い。
「観光客はまとまれ! 背中合わせで円を作れ!」
ガルドの怒声に、私たちは慌ててぎゅうぎゅうに寄せ集められた。
互いの肩や背中がぶつかる。
心臓の音まで聞こえそうな距離だ。
二股狐は低く唸り声をあげ、鋭い牙をのぞかせて円を描くように周囲を回る。
目は赤く光り、今にも飛びかかってきそうだ。
「来るぞ⋯!」
冒険者たちの1人が弓を引き絞り、もう1人は槍の穂先を狐に向けた。
空気が張り詰め、息をするのすら躊躇われた。
私たちは動くこともできず、ただ身を寄せ合ってその場に立ちすくむしかない。
狐の二つの尾が、不気味に揺れる。
次の瞬間、地を蹴る音が響き、剥き出しになった牙が光を反射した。
二股狐が飛びかかると同時に、冒険者の剣が火花を散らして受け止めた。
ぎゃりっと金属がきしむ音に、私たち観光客は思わず肩をすくめる。
「目を逸らすな! でも勝手に動くな!」
ガルドの怒声が飛ぶ。
でも正直、見ていられない。
耳を塞ぎたくなるほどの咆哮と、金属の打ち合う音。
足元に伝わる振動が、まるで自分が狙われているようで、体が勝手に震える。
「大丈夫、大丈夫⋯」と誰かが小声でつぶやいていた。
誰に向けた言葉なのか分からないけど、その声に縋りつくように私は耐えきれずぎゅっと目を閉じる。
鼻を突く獣臭、地面を抉る音。
時折聞こえる悲鳴のような叫び声、だがそれは冒険者のものではなく、狐の方らしい。
きっと冒険者たちが押し返しているのだ。そう信じるしかなかった。
「今だ! 囲め!」
掛け声とともに、周囲の音が一気に激しくなる。
獣の高い声が一際大きく響いたかと思うと、次第に遠ざかり、やがてぱたりと途絶えた。
「⋯終わった?」
恐る恐る目を開けると、二股狐は地面に横たわり、動かなくなっていた。
冒険者たちはまだ気を抜かずに武器を構えていたが、その肩はわずかに安堵に落ちている。
「ふぅ⋯危なかったな。」
ガルドが汗を拭いながら振り返り、私たちに向けて声を張る。
「もう大丈夫だ。よく耐えたな、観光客諸君!」
緊張で張り詰めていた空気が一気にほどけ、あちこちから安堵のため息や力ない笑い声が漏れた。
膝の力が抜けてへたり込みそうになるのを必死にこらえながら、私は胸に手を当てて深呼吸を繰り返した。
「ここで一旦、休憩とする。」
ガルドが短く告げると、冒険者たちは素早く周囲を見回し、簡易的な警戒陣形を組んだ。
先ほどの戦闘で息を切らせたままの者も多いが、それでも視線は森の奥に向いたままだ。
私たち観光客は、指示に従って腰を下ろす。
柔らかい苔に触れても、安らぎなんてまるでなかった。
耳の奥にはまだ、二股狐の咆哮が反響している気がする。
「はぁ⋯怖かった⋯⋯」
誰かがぽつりと呟くと、同じように緊張から解き放たれた声が次々と漏れ出した。
しかし笑い声はなく、どこか震えている。
異様な喉の渇きを覚えて、鞄から水筒を出して飲もうとする。
けれど手が震えて、落としてしまい半分程こぼしてしまう。
それを見たウィリアムが「落ち着けよ」と笑ったが、その笑みさえもぎこちない。
近くでは冒険者達が擦り傷や切り傷に包帯を当て簡単な治療をしている。
その光景を見ながら、ふと気づく。
あの狐に噛みつかれていたのは自分たちでもおかしくなかったのだ。
こうして一息つけていることが奇跡のように思えた。
「さっきの二股狐な。」
ガルドが周囲を警戒しながら口を開いた。
「初級のラビリンスじゃ、めったに出てこねぇ。ああ見えて俊敏で、牙に毒もある。あんなのに囲まれたら、一対一だと、ベテラン冒険者ですら危ういモンスターだ。」
別の冒険者が頷き、短剣を拭いながら続ける。
「気配を消して近づくから厄介なんだ。さっきも気づくのが少し遅れてたら危なかった。」
私たち観光客は顔を見合わせ、背筋に再び冷たいものが走る。
さっきの恐怖はただの思い過ごしじゃなかったのだと、改めて実感した。
そんな空気を吹き払うように、ガルドがニヤリと笑った。
「まぁでもよ、こいつの毛皮は高く売れる。魔除けにも装飾にも使われるからな。いい臨時収入になったぜ。」
緊迫した空気が少しだけほぐれる。
戦いの余韻と、冒険者のたくましさとが入り混じり、胸の奥で妙な安堵感が広がっていった。
隣に座っていたマリナが肩をすくめて笑った。
「はぁ〜、びっくりした! もう心臓飛び出るかと思ったわよ。二股に分かれたあの尻尾、夢に出てきそう」
ウィリアムは落ち着かなそうな雰囲気の中、目だけに興奮をたたえて口を開いた。
「でも、正直⋯ちょっと興奮したな。冒険譚の中に自分が放り込まれたみたいでさ。予定では安全圏から見学してるはずだったのに。」
「安全圏ですって? 全然だったわよ⋯。」
アマンディーヌが珍しく食ってかかる。
「私なんか押しつぶされそうで、息もできなかったんだから。でも⋯まあ、終わってみれば悪くなかったわ。ちょっとスリルのある舞台の一幕みたいだったもの。」
その言葉に、私もつい笑ってしまった。
怖くて震えていたはずなのに、どこか「本当にモンスターだ!」と実感できた瞬間でもあった。
冒険者たちの笑い声と、みんなとの会話で、ようやく緊張が少しずつほどけていった。
休憩が終わる頃、ガルドが皆を見回しながら声を張った。
「──今日はここまでだ。想定外に強い魔物が出た。これ以上進むのは危険と判断する。」
観光客たちから、小さく安堵の吐息がもれた。
残念そうな顔もあったが、あの二股狐の恐怖を思い出せば、誰も文句は言わなかった。
ガルドがさらに続ける。
「迷宮は逃げない。また挑戦できる機会はある。今は無事に戻ることを優先する。」
その言葉に、私たちはうなずき合った。
マリナは「正直ほっとしたわ」とつぶやき、アマンディーヌは「でも、帰り道も気を抜いちゃだめよね」ときりっとした顔を見せた。
ウィリアムは腕を組み、「撤退も立派な選択だよな」と、妙に納得したように頷いている。
「無事に帰れるならなんでもいい気持ちでいっぱいだよ⋯。」
疲れ切った声を出した私に、みんな苦笑いしながら頷いた。
冒険者たちは再び周囲を警戒しながら、帰路につくための隊列を組み始めた。
鬱蒼とした森の中、来た道を引き返していく。
足元の落ち葉がざくざくと音を立て、さっきよりも少しだけ重たく響いていた。
迷宮を抜けると、ぱっと視界が開けた。
木々の影から解放された瞬間、胸の奥がすっと軽くなる。空気まで明るく澄んで感じられた。
まだ他のグループ達は帰ってきておらず、私達のグループだけ先に森から出てきたようだ。
ガイドさんが何やら話し合って、先に馬車を出してくれることになった。
馬車に乗り、森を抜けて街の城壁が見えた時には、乗客のみんなが安堵したのが空気でわかった。
「帰ってこれたな。」
誰かがぼそりと漏らすと、それが妙に馬車の中に響いて、誰からともなく小さな拍手が起こる。
門をくぐれば、そこはもういつもの日常だ。行き交う人々の声、屋台から漂う食べ物の匂い、どこか遠くで鳴る楽器の音。
さっきまで魔物と対峙していたのが夢だったかのように、街は穏やかに賑わっていた。
「ふう⋯生きて帰れるって、こんなにありがたいことなんだね。」
私は胸に手を当ててしみじみと言う。
「いい経験になったよな。」
ウィリアムは笑いながらも、マリナをしっかりと抱き寄せ、ほんの少し声が震えていた。
アマンディーヌは肩をすくめて、「でも、しばらく森はいいわ」と苦笑する。
私も同じ気持ちだった。冒険の興奮も確かに残っているけれど、今はただ、この街の喧騒に身をゆだねていたかった。
車輪が土を踏みしめる音が、心地よく日常へと戻っていくリズムを刻んでいるように感じられる。




