15.1/4 日本文化普及
朝のビュッフェ会場に入ると、パンやシリアルの甘い香りが広がっていた。
焼きたてのクロワッサンやベーグルが並び、乗客たちは思い思いの時間を楽しんでいる。
いつものように何を食べようかキョロキョロしていると、今日のビュッフェ会場は違った。
ふと隅の方に目をやると、「アシアンコーナー」と書かれた一角があり、小さく湯気を立てたジャーが目に飛び込んできた。
近づくと、なんと炊きたての白いご飯。
『⋯あった!』
思わず小声で声が漏れる。
クルーズに乗ってから約2週間、パンやパスタは美味しいけれど、やっぱりお米が恋しかったのだ。
ホッピンジョンはお米だったけど、違う。シンプルな白米が私を呼んでいた。
恥を忍んでお米が出るか乗船前にメールで問い合わせた時には「定期的にビュッフェ会場で出ますよ」と回答されたから、重たいパックご飯は最小限しか持ってこなかった。
なのに、待てど暮らせど全然出なかったから、もう今回のクルーズではでないのかと思い始めていた。
やった。ようやくお米にありつける。
急いで部屋に戻り、持参していた私の定番大人なふりかけと、フリーズドライのインスタント味噌汁を鞄に入れる。
ついでにお茶漬けの小袋も入れた。
よかった準備してきて!
こうしてちょっとした準備だけで、日本食にありつける。
会場に戻った私は、ビュッフェから目玉焼きとパリッと焼けたウインナーをお皿にのせて席へ戻る。
ドリンクコーナーでお味噌汁にお湯を注げば、懐かしい香りが沸き立った。
空いている席に腰を落ち着ければ、テーブルの上には、炊きたてのご飯、ふりかけ、湯気の立つ味噌汁、そしてウインナーと卵。
『これ、完璧な日本の朝ごはんじゃない?』
満足してつぶやきながら、一口目のご飯を頬張る。さっぱりとしていて、もちっと感が薄い。
きちんとジャポニカ米のようだけど、日本の物とは少し違うようだ。
それでもじんわり広がるお米の甘さに、思わず笑みがこぼれる。
異世界の海上で味わう、懐かしい朝ごはん。
日本にいた時は朝はパン派だったのに現金だけど、やっぱりご飯は美味しいわ。
お味噌汁もひと口飲んで、ほっと一息つく。
そして、炊きたての白いご飯にふりかけをぱらりと散らし、海苔が躍ったところでスプーンを構えた。
そのとき、隣のテーブルにいたご夫婦が、こちらを興味深そうに覗き込んできた。
「ねぇ、それは、ミソ・スープでしょう? どこにあったのか聞いてもいいかしら?」
奥さんが身を乗り出すように声をかけてきた。
「あ、ご飯はビュッフェにありましたが、お味噌汁とふりかけは持ち込みなんです。」
そう言いながら、私は空になった小袋を2つ、軽く掲げて見せる。
「あらまぁ、それじゃ探しても見つからないわね。」
奥さんは目を丸くしたあと、少し照れくさそうに笑った。
私はふとひらめいて、にっこりと微笑んだ。
「よろしければ、食べてみますか?」
「まあ! でも、あなたの大事な食事をいただくなんて申し訳ないわ。」
奥さんは慌てて手を振る。
「いえいえ、日本の文化を知ってもらいたくて、日本食をたくさん持ってきたんです。」
そう言って、私はバッグの中をガサゴソと探り、未開封のインスタント味噌汁と、鮮やかな小袋に入ったふりかけをジャジャン!と取り出した。
「まぁ! いいのかしら?」
口では遠慮するように言いながらも、奥さんの目がきらりと輝く。
旦那さんも横から身を乗り出し、興味深そうに小袋を見つめていた。
「それで日本に興味を持ってもらえたら、嬉しいですから。」
そう笑って差し出すと、奥さんは両手でお味噌汁の小袋を受け取りながら感嘆の声をあげた。
「わぁ、なんて親切なの! すでに興味津々よ! ねぇ、レオ!」
「もちろん興味はあるな。どんな味なんだろうね」
「じゃあ、ぜひ召し上がってみてください」
私はお味噌汁の袋を指で示し、食べ方を簡単に説明する。
2人は目を輝かせながら立ち上がり、ビュッフェカウンターへ向かった。
しばらくして戻ってきたトレイには、白い湯気をのぼらせたご飯の山と、カップいっぱいのお味噌汁。
すでに取っていたクロワッサンやメロン、オレンジなどが隣に並んでいるのはちょっと不思議な組み合わせだ。
けれど2人はまったく気にする様子もなく、楽しげに席へ戻ってきた。
「これであっているかい?」
旦那さんが慎重にトレイを置きながら尋ねる。
「はい、それで大丈夫です。ご飯の上にふりかけをかければ、日本の定番朝食ですよ。」
私は袋を手渡しながら説明した。
奥さんはふりかけの小袋をじっと眺め、封を開ける前から「なんだか可愛いパッケージね」と笑っている。
「いろんな種類があるんですよ。これなんかは魚の風味、こっちは日本のわさびがベースです」
私は説明しながら2人に選んでもらった。奥さんは迷わず鮮やかな赤色の辛子明太子の小袋を、旦那さんは黄色の卵入りを手に取る。
「では、こうしてご飯にぱらぱらっとかけて⋯」
私は自分のお皿を手本に、空の袋でふりかけを散らす真似をして見せた。
「ほうほう」と2人は声を揃えて頷いた。
奥さんが真似してご飯にふりかけをかけ、スプーンでひと口。口に入れた瞬間、目を丸くした。
「しょっぱいけど香ばしい! あら? ちょっと辛いかもしれないわ。でも美味しい!」
隣で旦那さんもスプーンを動かし、噛みしめるように味わっている。
「なるほど、これはライスの味ががらりと変わるね。」
「日本人はこんな朝食を毎日食べているの?」
「パン派の人もいっぱいいますけどね。旅館なんかに泊まるとご飯にお味噌汁、卵を巻いた『卵焼き』や焼いた魚もよく出ます。あとは海苔とかも。」
奥さんの言葉に頷けば、旦那さんが首をかしげ、ふっと笑みを浮かべる。
「ライスを朝から食べるなんて不思議だね。甘くないじゃないか。」
私は思わず笑ってしまった。
「そうですね。でも日本では『しょっぱい朝ごはん』は普通なんです。」
しっとりしてしまった海苔と一緒に私もご飯を食べる。
サクサク感はなくなってしまったが、柔らかくなったふりかけがご飯に広がり、これはこれで好きだ。はぁ、ご飯美味しい。
次のチャレンジは、お味噌汁だった。
奥さんがスプーンでひと口すくい、口に含む。次の瞬間、ぱっと目を見開いた。
「わあ⋯! 美味しい! しょっぱいけど、体がぽかぽか温まる感じね」
その素直な反応に、私は思わずテーブルの下で小さくガッツポーズをとった。
日本食を褒めてもらえると、どうしてこんなに嬉しいんだろう。
胸の奥がじんと温かくなる。
隣ではご主人もカップを手に取り、恐る恐るひと口。
少し考えるように眉を寄せ、それから表情を和らげてうなずいた。
「うん、うんうん。国で飲んだことはあったんだけれど得意じゃなくてね⋯。それよりも匂いが強いから少し不安だったんだ。でもこれはおいしいね! しかも、この具材がちゃんと入っていて、中から出てくるのがすごいよ。」
その真っ直ぐな感想に、私の口元も自然とほころぶ。
「日本人にとっては当たり前の味ですけど、こうして喜んでもらえると、とても嬉しいです」
奥さんはカップを両手で包み込み、にこにこと微笑んだ。
「こちらこそ、すてきな朝ごはんを教えてもらえて、日本が好きになったわ。」
私は少し照れながらも、正直な気持ちを打ち明けた。
「ご飯とお味噌汁は日本人にとっては毎日の味なんです。だから⋯2週間ぶりに食べられて、本当に嬉しいんですよ」
その言葉に、夫妻は顔を見合わせ、同時にくすくすと笑った。
「その顔を見れば、どれだけ嬉しいか分かるわ!」
「あはは、本当ですか?」
そんな軽いやり取りを交わしながら、朝食はゆっくりと進んでいく。
ふりかけご飯もお味噌汁もすっかり食べ終えた頃、ご夫婦はふりかけの小さな袋を大事そうに手に取った。
「素敵な朝ごはんを教えてくれてありがとう!」
その言葉と共に浮かんだ心からの笑顔は、何よりのご褒美だった。
やばい、遅れそうだ。
ゆっくりと朝ごはんを楽しんでいたせいで、気づけば待ち合わせ時間ギリギリになっていた。慌てて船室へ戻ると、まだマリナもエマも来ていなくて、思わず胸を撫で下ろす。
部屋に入ると同時に、急いで準備を始めた。
重たいローテーブルをソファの近くに寄せてスペースを作り、干してあった着物を皺にならないように軽く畳んでテーブルに並べる。
『腰紐に、帯に⋯せっかくだから簪も⋯。足袋はサイズが合わないだろうから仕方ないとして⋯』
小声で確認しながら手を動かし、一通りの準備が整ったところで、ちょうど扉がノックされた。
「サクラ、いる?」
「お待たせ!」
ドアを開けると、連れ立ってきたマリナとエマが顔を覗かせた。約束の時間ぴったりだ。
「私、学んだでしょう? サクラは時間を守るのよ」
得意げにマリナが笑うと、私は苦笑いを返した。
「いや、日本じゃそれは当たり前なの!」
「そうね。旅の間は時間を守らないと、簡単に置いていかれちゃうからね」
エマが笑いながら怖いツッコミを入れてくる。
私とマリナは顔を見合わせ「時間は守ろうね」と頷き合った。
そのとき、テーブルの上の着物に目を留めたエマが、ぱっと瞳を輝かせた。
「素敵! これを今から着られるのね! サクラ、本当にいいの? 船の上でこんな素晴らしい体験ができるなんて思ってなかったわ!」
興奮を隠しきれない声でそう言いながら、そっと布地に手を触れる。
旅好きの彼女らしい、心からのときめきが伝わってきた。
「わぁ⋯柄が綺麗。これ、サクラが着ていたものよね? 改めて近くで見ると、こんなに繊細なのね。ほんとに綺麗だわ」
マリナも頬をほんのり赤らめ、布を愛おしげに撫でた。
「せっかくだから、髪も着物に合うようにまとめようか。」
私がそう提案すると、マリナとエマは一瞬顔を見合わせて、子供のように頷いた。
「うれしい! そんなところまで体験できるなんて!」
「私、普段アップスタイルなんてしないから、楽しみだわ」
私はドレッサーの椅子を引き、まずはマリナを座らせた。
「といってもごめん、私簡単なのしかできないの。」
「全然構わないわよ!」
先にハードルを下げて彼女の髪を梳かしながら、私はいくつかの三つ編みを作り、サラサラと落ちてくる髪をピンを刺しまくってまとめ、簪を挿して仕上げる。
「わぁ⋯!」
鏡越しに自分の姿を見たマリナは、思わず声を上げ、頬に手を当てた。
「全然違う人みたい。サクラ、すごいわね。なんだか気品が出た気がする!」
「気品って! 安心して、マリナは元からあるから。」
茶化すように言うと、彼女は少し照れくさそうに肩をすくめた。
続いて、エマの長い髪に手を伸ばす。
「ちょっと髪多い? あまり高い位置でスタイリングしちゃうと大変かもね」
「そうなの、私、髪の量多いのよ。」
そう言いながらも、エマは嬉しそうに鏡をのぞき込んでいる。
私は出来るだけ手際よく髪を分けてまとめ、うなじが見えるギリギリの位置でシンプルな和風シニヨンに仕上げた。最後に赤い玉飾りの簪を挿すと、一気に和の雰囲気が漂った。
「わぁ⋯素敵! 本当に日本の映画みたい!」
エマが立ち上がってくるりと回ると、ワンピースの裾が広がって、すでに舞台の上に立っているような華やかさがあった。
「これで着物を着たら、きっともっと映えるわね。」
そう言いながら二人の背後に立つと、準備した着物が光沢を帯びて目に映り、私自身も胸の奥が高鳴った。
「よし。じゃあ、いよいよ着物だね。」
私が声をかけると、マリナとエマは子供のように「はい!」と返事をした。
まずはマリナから。
下着を整え、長襦袢を羽織らせ、腰紐を締める。
ちょっと裾が足りてないが、まぁ見えないだろう。
よし、と着物を取るために立ち上がると初めてマリナは首を傾げた。
「キモノの下にキモノを着るの?」
「今着てるのは昔の人の肌着だね。浴衣っていう着物ではこれは着ないのよ。元々浴衣は寝間着だから。」
私は着物を広げながら答えた。
「寝るときにこんな格好じゃ、私は起きたら服なんて着てないと思うわ。」
「大丈夫、日本人でもそれは一緒だから。」
「え、日本人なのに!?」
そんな話をしながら、用意した淡い桜色の着物を丁寧に肩にかけると、マリナは「わぁ⋯」と小さく息を飲んだ。
鏡の前で布地を押さえながら、少女のように目を輝かせている。
「ちょっと動かないでね。帯は少しきつめに締めないと形が崩れやすいから」
「えっ、けっこう苦しいのね⋯!」
マリナが思わず声を上げると、エマが「これも文化体験よ!」と笑い、部屋に明るい笑い声が広がった。
思っていたよりもマリナの身長が高くて着物のすそが足りなそうで、おはしょりを出すために腰紐をあれこれ工夫する。
どうにか帯を結び、整え終わると、彼女は鏡の前でくるりと一周して、袖の揺れを確かめた。
「サクラ、本当にありがとう。私、日本のお姫様になった気分よ。」
「うん、似合ってるよ。マリナは色白だから、この色がすごく映えるね。」
次はエマの番だ。
彼女には、持ってきていた2着のうち、大人っぽい濃紺の着物を選んでいた。長身のエマに合わせると、布地がよりすっきりと映え、柄の水流が一層際立つ。
同じようにおはしょりに苦労しながら腰紐を締めていく。
帯を結んで形を整えると、彼女は鏡の前で自分を見つめ、しばらく言葉を失っていた。
「すごい⋯全然違う私がここにいる。色々旅にはでたけれど、民族衣装なんかはあまり着てないのよね。ディックが興味ないものだから。はぁ⋯素敵。」
その声には本当に心を打たれたような響きがあって、私も嬉しくなってくる。
二人並んで鏡に映る姿は、まるで雑誌のグラビアか映画のワンシーンのよう。
「本当にきれい⋯。」
思わず私の口から漏れた言葉に、二人は顔を見合わせて笑った。
「でも、サクラはよくこの格好でディナーを食べてたわね。私、コルセット閉められてるみたいで全然入りそうにないわ。」
「ほんと!息もできないくらいよ。でもなんだか背筋が伸びていいわね。」
マリナとエマがいつまでも鏡をみているので、適度な所で私は声をかけた。
「さぁ、そろそろ船内に出て写真を撮ろうか?」
「やっぱりエントランスホールじゃない? あの階段はいいと思わない?」
エマがそういうと、マリナが拳を握った。
「うんうん、きっと華やかで映えるわ!」
「せっかくだから、そのあとで甲板に出て記念写真を撮ろうよ。今日は天気がいいから、空を背景にしたら、きっと素敵だよ。」
「それいい!やろう!」
「ねぇサクラ、着物、取っちゃってごめんなさいね。」
エマが申し訳なさそうにそういうと、マリナも神妙な顔になった。
「や、2着しか持ってきてなかったからね。というか、たぶんまだクルーズ中には着るけど、この前のフォーマルナイトで今はまだお腹いっぱい。」
苦笑いして手を振ると、エマが「あら」と眉をあげた。
「お腹いっぱいって可愛い表現ね。」
自然に笑顔が戻ってホッとする。
「今日の私は朝から日本文化普及クラブ会長だから!」
胸を張って堂々と言い切った私に、今度はエマが「どういうこと?」と笑った。
未だクリスマス仕様の華やかな船内。
エントランスホールには大きなツリーがそびえ、ガラスのオーナメントやリボンがきらきらと輝いている。その前で、着物姿のエマとマリナが立つと、洋風の装飾と和の装いが不思議に調和して、一枚の絵のように映えた。
「はい、笑って〜!」
私がカメラを構えると、二人は自然に並び、少し肩を寄せ合って微笑む。
シャッターを切るたび、ツリーの灯りや周囲の赤と金の飾りが背景を彩り、写真はどれも特別な一枚になっていった。
紺の着物はあまり映えなかったかもしれない。単衣だし。
そんな反省をしながらカメラマンに徹していると、通りかかった乗客たちが足を止め、振り返って声をかけてくる。
「まぁ、素敵ね!」「まるで雑誌のモデルみたい!」
エマもマリナも、にこりと微笑んで軽く手を振り、まるで慣れているかのようにさらりと受け流す。
その余裕さえも、二人の着物姿をいっそう引き立てていた。
デッキに出ると、涼しくなり始めた風がそよそよと吹いていた。
風が強いと寒そうな気候だ。
それでも紫がかった空はどこまでも澄んでいて、着物姿がよく映えた。
思う存分に写真を撮ったところで、マリナが恐る恐る口を開いた。
「ねぇ、悪いんだけど、お部屋に少しだけ戻っちゃだめかしら? 汚れないように本当に気をつけるから!」
「もちろんいいよ。どうかしたの?」
「ふふふ。ウィリアムにも実物を見せておきたいと思って!」
少し頬を染めるマリナに思わずキュンとする。
「それなら、私もお願いしたいわ! ディックに見せて、次からは民族衣装着る間は待ってもらうように説得しなきゃ!」
2人は足取り軽くデッキを後にする。
私はそんな二人の後ろ姿を見送り、ひと足先に自分の部屋へ戻ることにした。
クリスマスの余韻がまだまだ漂う船内を歩きながら、先ほどの写真を思い返し、心の中で「いい一枚が撮れたな。」と微笑んだ。
日本の文化を共有できたことが嬉しくて、私も自然に笑みを浮かべた。




