14.1/3 プール
昼を過ぎて太陽が昇りきり、暖かな気候も相まって水着とはいえ、少し汗ばむ陽気だ。
冷たい風を求めてメインプールへ向かうと、そこはすでに賑やかな声と水音で満ちていた。
プールサイドのチェアには、日焼け止めの甘い香りを漂わせながら読書をしたり、冷えたカクテルを楽しんでいる人がたくさんいた。
デッキの一角には、売店のようなカウンターがあり、フルーツ盛りのアイスや、いかにもなハンバーガー、色鮮やかなカクテルを片手にした人が行き交っている。冷えたビールの泡が弾ける音まで聞こえてきそうで、ちょっとした「海の家」のようでもある。
私はちょうど日陰になるチェアを見つけて、タオルを敷き、ゆったりと身を沈めた。
張られた布の、背中を包む柔らかさにほっと息が漏れる。視界の先には、太陽を反射してきらめく水面。遠くから寄せては返す海の音が重なり、プールのざわめきが不思議とBGMのように馴染んでいる。
頭上を渡る風はほどよく涼しく、髪を揺らすたびに熱が逃げていく。思わず目を閉じれば、陽光の名残がまぶたの裏を淡く染め、心地よいまどろみへと誘っていった。
『はっ! 今一瞬寝てた!?』
気づけば、時計の針は20分ほど進んでいた。
体の芯にじんわり熱がこもり、汗ばんだ背中がタオルにぺたりと張り付いている。慌てて上体を起こし、眩しさに目を細めながら何度か瞬きをした。
眠気を振り払うように首を回すと、少し火照った頬に潮風が心地よい。
『よし、目を覚まそう。』
そう思ってプールに目をやると、なぜかメインプールは人影がなくて、ぽっかりと水面だけが広がっていた。
波が立たずに静まり返ったその光景は、かえって泳ぎにくそうで気が引ける。
代わりに、視線の先に見えたジャグジーへと足を向けた。小さな階段を上がり、水に足を沈めると──
『温かぁい⋯』
思わず声がもれた。
ほんのり上がる湯気と、ぬるめの温度が、昼下がりの暑さにはぴったりだ。
全身をゆっくり沈めると、ぷくぷくと底から泡が立ちのぼり、脚や腰を柔らかく押し上げる。
まるで小さな手でマッサージされているみたいで、思わず「ふぅ」と深い息が出た。
しばらくぼんやり泡を眺めていた時、不意に弾けたしぶきが唇に触れる。
手で拭った途端、塩気が口に広がった。
『えっ、これ海水!?』
肩をすくめて笑いながら、もう一度唇をなめてみる。
やっぱりほんのりしょっぱい。
なんだか特別な発見をした気分になり、温かな水に包まれながら、遠い海に溶けていくような心地がした。
ジャグジーの縁に腕をかけて、ぷくぷくと立ちのぼる泡を眺めていた。
視線をふとメインプールへ戻す。
『うわぁ、すごっ!』
水面を切り裂くように泳ぐ影が目に入った。
大きなプールの中央を、ひときわ力強いストロークで進む人。
誰もいない水面を独占するかのように、一直線に泳ぐその姿は妙に印象的だった。
数秒後、顔を上げた瞬間に気づく。
セルヒオだ。
真剣な眼差しで呼吸を整え、再び水中に潜っていく。
陽光を反射して濡れた髪がきらりと光り、彼の動きに合わせて水面が大きく揺れる。
普段の雰囲気とは違う、研ぎ澄まされた空気が漂っていた。
『たぶん本気だ。めっちゃ速い。』
思わず口の中で呟く。
その姿を眺めていると、じっとしていられなくなり、私はジャグジーからそっと抜け出した。タオルを軽く羽織って、プールサイドを歩く。
やがてセルヒオがターンをして顔を上げたところで、彼もこちらに気づいた。
私が笑みを浮かべて手を振ると、セルヒオも少し照れたように片手を上げる。
「すごいね、本気モード?」
近寄って声をかけると、水滴を滴らせながらプールの縁に掴まり、息を整えたセルヒオは苦笑いを浮かべて答えた。
「いや、軽く泳いでただけ。ジムには通ってるけど、やっぱりたまにはこうやって思いっきり体を動かしたいんだよな。」
セルヒオが肩で息をしながら笑う。
「へぇ、ジムってどんなことしてるの?」
私はプールの縁にしゃがみ込んで、水面を指でつつきながら聞いた。
「ランニングとか筋トレとか、まあ普通のやつ。でも室内ばっかだとさ、なんかエネルギーが余るんだよ。」
「なるほど。で、それをプールで爆発させてると。」
「そういうこと。」
セルヒオは軽く背伸びをして、再び水の中に身体を沈めた。肩から背中の筋肉が、水越しでも力強く動いているのがわかる。
「⋯ていうか、これで軽くなんだね。すごすぎない?」
私がそう言うと、セルヒオは一瞬きょとんとした後、少し照れたように片眉を上げた。
「いやぁ、俺より速いやつはたくさんいるだろ。女に比べたらそりゃ速いだろうけど。」
「そうかな? 上から見てたけど、めっちゃきれいなフォームで、すごいかっこよかったよ。」
「⋯うわぁ、めっちゃ褒めてくれるじゃん。」
笑ってそう言いつつも、セルヒオはちょっと顔を赤めて、また水を蹴って泳ぎ出した。
それに続けとプールに身を沈めた瞬間、思っていたよりも深いことに気づく。
つま先で立ってようやく顔が水面に出るほどで、正直言って怖い。
けれど、ここで引き返すのも悔しくて、よたよたと壁を蹴って泳ぎ始めた。
せめて向こう岸まで──。そう思って必死に腕をかく。
頑張っていると、すぐ横に人の足が見えた。
「溺れてるか? 助けるか?」
顔だけを上げて確認すると、セルヒオだった。
けれど、視線を上げたことで残酷な事実に気づく。まだ半分しか進んでいない。
諦めて足をつこうとしたが、やはりつま先立ちで精一杯だ。
見かねたセルヒオが「失礼」と言って、私を片手で小脇に抱え上げる。
それでようやく私は余裕を持って顔を出すことができた。
「⋯泳ぐのは無理じゃないか?」
困惑気味の彼に、私は満面の笑顔を返した。
「奇遇だね! 私もそう思ってた!」
次の瞬間、セルヒオは顔をそらして盛大に吹き出した。
プールサイドに送り届けてもらい、私は不満げに足だけを水に沈める。
高校以来まともに泳いでもいないのに、なぜ泳げると思ったのだろう。
今さらなことを考えていると、スポッと何かが頭にはまった。
見上げると、仕方なさそうに笑うセルヒオがいた。
「な。おとなしく浮き輪で浮かんでろ。引っ張ってやるから」
「うぅぅ⋯セルヒオ〜ありがとう〜⋯!」
お礼を言い、私は早速カラフルなリングに体を預ける。
ぷかぷかと水面に浮かび、まるで小舟に乗っているような心地よさだ。
「よし! 準備オッケー!」
「行くぞ。」
浮き輪にしっかりつかまると、セルヒオは水中で力強く手を動かし、私をゆったりと前へ進める。水の抵抗でスピードは速くないけれど、浮遊感と風の感覚が気持ちいい。
「これ、楽しい⋯!」
思わず笑い声が漏れると、セルヒオも楽しそうに笑った。
「だろ?ジムじゃ味わえないだろ、こういう浮遊感。」
「うん、最高!」
水面に反射する太陽の光がきらきらと揺れ、泡の弾ける音や他の人々の声が混ざって、まるで世界がゆっくり回っているような感覚になる。
ぼんやりと水面を眺めていると、セルヒオがにやりと笑った。
「さぁ、そろそろスピードアップだ!」
そう言うなり、セルヒオは大きく水をかき、浮き輪ごと私を引っ張っていく。
思ったよりスピードがあって、ぷかぷか漂うというより、ちょっとしたアトラクションに乗っている気分だ。
「おおお〜! 速い! 速いって!」
「まだ全然本気じゃないぞ。」
「え、これで!?」
セルヒオが笑いながらさらに腕に力を込めると、浮き輪は水しぶきをあげて進む。水の抵抗でガタガタと揺れて、私は「ひゃーっ!」と声をあげるしかなかった。
それでも不思議と怖くはない。セルヒオが前にいて、しっかり引っ張ってくれているからだろう。
水面に映る光が目の前を流れていく。
周囲には他に誰もいない。広いプールの真ん中を二人占めしているようで、なんだか贅沢な気持ちになる。
セルヒオは時折、わざと方向を変えてみたり、急にスピードを落としたりして、私を揺さぶるように遊んでくる。
「わっ、ちょ、ぐらぐらするーっ!」
「落ちないから安心しろ。」
「そういう問題じゃなくて!」
そんなやりとりをしていると、自然と笑いが止まらなくなった。
浮き輪で揺られながら笑い転げている私を見て、セルヒオも肩を震わせて笑う。
ふと気づくと、プールの真ん中に差し掛かっていた。
水の青さと、天井越しの光、響き渡る自分たちの声。
二人だけの楽しい時間と、プール全体の賑やかさが絶妙に混ざり合い、時間がゆっくりと過ぎていった。
軽くシャワーを浴び、プールサイドのチェアに沈み込むように腰を下ろすと、青く透き通った水面がキラキラと陽を反射して眩しかった。
泳ぎ疲れた体を、ようやく日陰の涼しさが包み込む。
「お腹すいたねぇ〜。」
私がぽつりと言うと、セルヒオは腕を伸ばしてプールの向こう側を指差した。
その指の先には小さな売店が見える。
「なんか取ってきてやろうか?」
「うーん⋯あ! 思い出した! 食べ物を運んでくれるサービスがあるんだよ。無料で。えーっと⋯ほら!」
セルヒオの言葉に一瞬心が揺れるけれど、私はハッとスマホを取り出した。
操作した画面をセルヒオに見せると、彼は片眉を上げる。
「こんなに近いのに?」
「単純に使ってみたかったんだよね。」
「なるほど、そういうことね。じゃあ俺は⋯ん〜ハンバーガーで!」
「えーっと⋯私はチーズバーガーかな!」
指先でポチポチと注文を確定すると、画面には「この画面をクルーにお見せください」と注文番号が大きく表示された。わくわくしながら、私はプールの向こうの店を見やる。
⋯待てど暮らせど、誰も来ない。
プールでは船の揺れに合わせて水を跳ね散らし、他の乗客たちはカクテル片手に談笑している。なのに、私たちの元には影ひとつ現れない。
「取りに行った方が早かったんじゃないか?」
セルヒオが肩を揺らして笑う。
申し訳なさで顔が熱くなり、私は「そうかも。ごめんね」と小さく頭を下げた。
少し経つと、ようやくクルーがキョロキョロしながらこちらへやって来た。
けれど、その人が歩いてきたのは売店の方向とはまるで逆。
まさか、と思いながらスマホを見せると、「お待たせしました」と爽やかな笑顔でトレーを差し出された。
ハンバーガーとチーズバーガー、そして山盛りのポテト。
受け取った瞬間、胸の奥がチクリと痛む。
やっぱりあのお店から持ってきてもらうんだった。
「たぶんあれ、中の店から持ってきたぞ。」
セルヒオが低い声で囁く。
「そうだよね? やっぱりそうだよね!? うわぁ~申し訳ない〜!」
両手で顔を覆うと、彼はおかしそうに笑った。
「ま、そういうこともあるさ。」
そう言ってセルヒオはハンバーガーを手に取り、バクリとかぶりつく。
パリッとしたレタスとジューシーな肉の香りが、あたりにふわっと広がった。
セルヒオが豪快にかぶりつくのを見て、私もチーズバーガーを手に取った。パンのふわふわとした温かさと、チーズの濃厚な香りが鼻をくすぐる。かじれば、肉の旨みと塩気が口いっぱいに広がって、思わず「ん〜!」と声が漏れた。
「美味しいね!」
「わかる。こういう場所のジャンクフードって妙にうまいんだよな。」
セルヒオは口の端のソースを舐め取った。
ふたりしてポテトをつまみながらプールを眺めていると、少し離れた場所にある売店から甘い香りが漂ってきた。
バニラとチョコ、それに少し焦げたような香ばしさが混じっている。
「ねぇ、あっちの売店からすごくいい匂いしない?」
「する。あれ、絶対アイスとかワッフルとかだろ」
「ちょっと見に行ってみようよ!」
今度はサービスに頼らず、私たちは自分たちの足で立ち上がった。プールサイドを歩けば、足元の石畳は陽に熱されてじんわりと温かい。
「いらっしゃいませ〜! 本日のおすすめは恐竜クッキー付きアイスクリームです!」
元気な店員さんのおすすめに、即決した。
「じゃあ俺はバニラ。恐竜クッキーもつけて」
「私はチョコレート!恐竜クッキもお願いします。 」
受け取ったアイスクリームは想像以上に大きく、コーンの上に恐竜の形をしたクッキーがちょこんと刺さっている。思わず写真を撮りたくなる可愛さだ。
「ほら、セルヒオ。こっち見て!」
「え、また写真? ⋯しょうがないな。」
わざとらしくポーズを取る彼の横顔に笑ってしまい、手元のソフトが少し溶けて指先に垂れた。
「わっ! 早く食べなきゃ!」
慌てて舐めると、ひんやりとした甘さが体にしみわたる。
ふたりでまたチェアに腰掛け、ソフトクリームを味わいながら、ゆっくりと午後の時間を過ごした。
プールの喧騒が少し遠のいて、ほんの少しだけ、夏休みのような穏やかな空気に包まれていた。




