10.12/30 コーラス練習
朝の光が船内にやわらかく差し込む頃、私は少し緊張しながらも、クルーズ船のサファイア・ライブへ向かった。
今日はコーラスの初めての練習日だ。
歌うのは好きだし、何か継続したイベントにも参加しようとこれに決めた。
お休みしてもいいらしいしね。
いつもは音楽に包まれているライブ会場は静かで、ダンスホールには等間隔に椅子が並び、踊りを踊ることはできなくなっている。
すでに数人の乗客たちが椅子に座り、楽しそうに会話を交わしていた。
そのざわめきの中に、私と同じように少し緊張の色を顔に浮かべている人の姿を見つけ、思わず胸を撫で下ろす。どうやら、この気持ちは自分だけではないらしい。
ピアノの前に座るふくよかな女性が、柔らかい仕草で手招きをする。
私は促されるまま近づき、参加簿のような用紙にペンを走らせた。
「アオヤマさんね。はじめまして。」
「こちらこそ、はじめまして。」
軽く挨拶を交わし、楽譜を受け取ると、用意された椅子に腰を下ろす。革張りの椅子が小さく軋んだ。
やがて、朗らかな声がライブ会場全体に響いた。
「皆さん、こんにちは!」
声の主は、先ほどの女性。おそらく、この人が先生なのだろう。
響き渡る声にはよく通る強さと、聴く人の心を安心させる温かさが同居していた。
「私はロザンナ・マルティーニです。今日は、簡単な曲から始めましょう。3月にはメインホールで発表会がありますが、心配はいりません。楽しむことが大事ですからね。では、発声練習から参りましょう。」
私は小さく頷き、胸の奥を深呼吸で満たした。
周囲の人々もそれぞれに立ち上がる。
座ったまま背筋を伸ばす人もいるが、どの顔にも期待と不安が入り混じっていた。
鍵盤の上に先生の指が置かれ、軽やかな音が響く。私たちはそれに合わせて声を出した。
最初はぎこちない。
声が喉の奥でひっかかり、うまく外へ出ていかない。
自分の声が他の人にどう聞こえているのか気になって、余計に小さくなってしまう。
だが、ロザンナ先生はひとりひとりの声を拾い上げるように耳を傾け、すぐに優しく声をかけた。
「アオヤマさん、肩の力を抜いて⋯そう。もっと口の中を大きく使って。はい、いいですね。」
名前を呼ばれて驚いた。30人以上はいるのに、確かに私の声を聞き分けているらしい。
その確かさに、すこし感動する。
言われた通り意識すると、不思議なことに声が少し楽に外へ流れていくのを感じた。
周りの人たちも同じだったらしい。
最初はおずおずと出されていた声が、先生の言葉に励まされて次第に大きく、伸びやかになっていく。
低く響く声、高く伸びる声、それぞれの音が重なり合い、空間に小さな音の重なりが生まれる。
私は、自分の声が他の声と混ざって一つの音になる瞬間に、静かに喜びを感じた。
「次は、みんなで少し長めのフレーズを歌ってみましょう。」
ロザンナ先生は、ゆったりとしたテンポでピアノに手を置き、軽やかな音を響かせた。ふくよかな頬が笑みにゆるみ、視線はひとりひとりの顔を慈しむように追っている。
「はい、息をしっかりお腹で吸い込んで⋯そう、リラックスして。楽しみましょうね。」
歌っているうちに、だんだんと声を出すのが楽しくなり、体全体で音を感じられるようになる。
周囲の参加者の声はよく通り、深みや伸びやかさに満ちている。
正直、レベルが高すぎて足を引っ張らないかと気が気でなかった。
音を外さないように必死で楽譜を追いかけていると、すかさずロザンナ先生の褒め言葉が飛ぶ。
「素晴らしいわ、みなさん。だんだんとハーモニーが溶け合ってきましたね。」
ロザンナ先生の声には、自信と励ましが込められていて、緊張で細まっていた声が、自然と大きくなる。
休憩時間になり、隣の男性がニコニコしながら話しかけてきた。
「最初は緊張しましたけど、先生の指示でずいぶん声が出せるようになりましたよね。」
「声の大きさだけですけどね。みなさんがうますぎて足を引っ張りそうです。」
そう答えると、彼は小さく首を振って笑った。
「いやいや、みんな同じですよ。僕だって譜面なんて全然読めませんし。ただ声を出すのが楽しくなってきただけで。」
「それなら、ちょっと安心しました。」
私も笑みを返す。
水筒の水をひと口飲んだあと、彼が少し声を潜めて言った。
「発表会、メインホールでするらしいですよ。プロの方の前座で。」
「えっ、そうなんですか?」
思わず声が上ずった。
観客席を埋めるあの大きなホールを想像し、背筋に緊張が走る。
「ね、ちょっとした大舞台ですよね。でも、それも面白そうじゃないですか? 一生に一度の経験かもしれないし。」
彼の表情は、緊張よりも楽しみの方が勝っているように見えた。
「確かに⋯。本番までに少しは上達できるといいんですけど。」
「大丈夫ですよ。ロザンナ先生がいるんだから!」
そう言って笑う彼の横顔に、なんとなく心が軽くなる。
まだまだ緊張の方が大きいが、楽しみな気持ちも少しだけ出てくるのを感じた。
そのとき、ピアノの前に戻ってきたロザンナ先生が、軽く手を叩いた。
「さぁ、後半も頑張りましょう!」
声に呼応するように、私たちはそれぞれ椅子から立ち上がり、再び歌う準備を整えた。
練習の最後には、皆で今日歌った曲を通して歌う時間が設けられた。
譜面を見つめながら深呼吸をし、ピアノの前奏に合わせて声を出す。
だが、有名なクラシックの旋律とはいえ、日本で生きてきた私には縁遠いもの。
口がついていかず、ところどころでつっかえてしまう。
それでも、周囲の人々は迷いなく歌いこなしている。
ソプラノもアルトも、テノールもバスも、それぞれのパートをきっちり歌いこなす人が多くいて、きちんとした合唱がライブ会場いっぱいに広がっていく。
あまりの完成度に、私は思わず自分の声を小さくしてしまいそうになる。
けれど、重なりの中に溶け込む感覚は、決して居心地が悪いものではなかった。
むしろ、自分の不器用さごと受け止めてくれるような温かさがあった。
「とてもいいですよ、アオヤマさん。最初からここまで歌えたのは素晴らしいです」
歌い終わったあと、ロザンナ先生が順番に名前を呼んで褒めてくれる。
大人数の中で自分の名前が響くのは照れくさいが、不思議と胸がふわりと軽くなり、自然と頬がゆるんだ。
気づけば、今日の練習は思っていた以上に心地よく、楽しい時間になっていた。
初めて出会った人たちと声を合わせ、ひとつの音楽を形にする。
学生以来の体験が、この船旅の中で待っているとは夢にも思わなかった。
練習が終わる頃には、最初にまとわりついていた緊張はすっかり消えていた。
残っていたのは、声を出したあとの心地よい疲れと、やりきったという小さな達成感だけだ。
椅子から立ち上がると、あちこちで「楽しかったですね」と言葉が交わされ、笑顔がこぼれている。
見知らぬ人たちの間に、確かな連帯感が芽生えたように思えた。
私は楽譜を閉じながら、ふと窓の外の海に視線をやった。
太陽の光が海面に散りばめられた宝石のように輝いている。
「あなたの声、聞こえてたわよ! 若いっていいわね〜! のびのびとした澄んだ声が出て。」
帰り支度をしていると、近くに座っていた年配の女性が、にこやかに話しかけてきた。
私は思わず背筋を伸ばして、軽く会釈する。
「ありがとうございます。実は初めてで、少し緊張してしまって⋯」
「まあ、初めて? そうは思えなかったわよ。声がちゃんと前に出ていて、聞いていて気持ちよかったわ。」
お世辞半分なのかもしれない。
けれど、その言葉は不思議とすっと胸に入ってきて、心の奥があたたまる。
「本当にうれしいです。皆さんがあまりにも自然に歌ってらっしゃるから、私なんてついていくだけで精一杯で。」
「ふふ、最初はみんなそうよ。私なんてね、別のクルーズで初めて参加したときは、声も出なくて、最初の練習は口パクで終わっちゃったくらい。慣れれば楽しくなるから安心して。」
彼女はそう言って、目尻に小さな笑い皺を寄せた。
船旅のあいだ、こんな風に新しい出会いがあるのだと思うと、ますます胸が弾む。
このクルーズの最後、メインホールで歌うとき。今日感じた温かさが、どんなふうに広がっていくのだろう。
想像しただけで、緊張と期待が入り混じり、心臓が跳ねる。
帰りの出口に向かうと、そこにはロザンナ先生が待っていた。
一人ひとりに声をかけ、笑顔で送り出している。
その姿からも、音楽への愛情と人への思いやりが伝わってくる。
私の番になると、先生は軽く手を差し伸べてくれた。
「アオヤマさん、今日の声、とても柔らかくて素敵でしたよ。練習を重ねれば、みんなを引っ張るよい歌声になります。」
「そんな⋯でも、ありがとうございます。」
「自信を持って大丈夫。歌は楽しむ心が一番大事ですから。次回も楽しみにしていますね。」
握られた手の温かさに、肩の力がふっと抜けた。
きちんと褒められるのは、こんなにも嬉しいものなんだ。
次の練習が待ち遠しくて、胸の奥がぽかぽかと熱を帯びていくのを感じた。
ライブ会場を後にして廊下を歩くと、窓の外には穏やかな海がどこまでも広がり、太陽の光が波間にきらきらと反射していた。揺れる光が天井や壁にまで映り込み、廊下全体が波の中に包まれているように見える。
その景色に足を止め、しばらくぼんやりと眺めていると、胸の奥にまだ練習の余韻が響いているのを感じた。
「声を出すって、こんなに気持ちいいんだな」
心の中でそうつぶやくと、自然と口元が緩む。
名前を聞きそびれた人たち──隣で笑いかけてくれた男性や、優しく声をかけてくれた年配の女性。
その存在を思い出すだけで、ちょっとした連帯感が胸の中に芽生えているのを実感する。
知らない者同士が声を重ねただけで、まるで仲間になれたような不思議な心地よさがあった。
まだ部屋には戻りたくない。そう思い、私は足をプロムナードデッキへと向けた。
外に出ると、潮の香りを含んだ風が頬を撫で、海のきらめきがさらに近くに迫ってくる。
遠くからかすかに聞こえる船内のざわめきと、時折寄せては返す小さな波の音。
その心地よい音に耳を澄ませながら、空いていたソファに腰を下ろした。
目を閉じると、今日の練習の光景が鮮やかによみがえる。
最初は不安で声が震えていたのに、気づけば自然に声を重ねることが楽しくなっていた。
音を通して人とつながる感覚が、今もほんのりと体の奥に残っている。
「アオヤマさん、次回も楽しみにしていますよ」
ロザンナ先生にそう言われたときの、あの温かな笑顔を思い出すと、胸の中がふわりとあたたかくなった。
大きく深呼吸をすると、肺の奥まで澄んだ空気が満ちていき、まるで海の風と一緒に歌の余韻が体に流れ込むように感じられる。
空も海も、どこまでも広がっていて、その中で自分の声が混ざり消えていくのを想像すると、不思議と心が軽くなる。
これからの日々も、きっと声を合わせる楽しさが続く。
次の練習では、もっとのびやかに歌えるようにそう思うと自然に背筋が伸び、胸の奥に小さな決意が灯った。
「自主練でもしておこう」そう心の中でつぶやいた瞬間、胸の高鳴りがまた一段と強くなった。




