08.12/28 夜のバーへ
後半に、今後行く予定の国の旅行誌を読む描写があります。
事前情報なしに入港したい方は、5カ国ほど読み進めてから戻ってきてご覧いただければと思います。
「眠れなくてバーに行った」という話ですので、今読まなくても本編進行に影響はございません。
船の揺れは、思ったよりも穏やかだった。
でもその穏やかさを持ってしても、かえって眠れない気持ちを強めるばかりだった。
ベッドで目を閉じても、明日訪れる異世界の港の風景や、そこで待っている出来事が頭の中を巡り、期待と不安が交互に顔を出す。
中途半端にいつもよりも早く寝ようとしたのがよくないのかもしれない。
そう思った私は、少し迷って、行ってみたかったバーへ向かうことにした。
扉を開けると、落ち着いた大人の空間だった。
天井は濃いブラウンの木目で、淡いオレンジ色の照明が優しく灯り、室内全体を温かく包んでいる。
壁面には古い世界地図や帆船の絵が飾られ、隠れ家のような雰囲気をほんのりと漂わせていた。
カウンターは磨き上げられた深い木製で、曲線を描く形が手に心地よく馴染む。
カウンターの後ろにはガラス棚が壁一面に並び、世界各地の珍しいリキュールやカクテル用のボトルが整然と並んでいる。色とりどりの液体が、光に反射して宝石のように輝いていた。
壁際には小さな丸テーブルがいくつか置かれ、落ち着いた色のソファーが添えられている。
ソファーに座れば、外の海や夜空を眺められる設計で、メインプールのスクリーンもほぼ正面に見える特等席だった。
人はそう多くなかった。
普段からこうなのか、それとも入港前日だから客室で静かに過ごす人が多いのかはわからない。
けれど、おかげですんなりと窓際のテーブルに座ることができた。
静かに流れるジャズミュージックが耳に馴染み、時間がほんの少しゆっくりと流れているような錯覚さえ覚える。
テーブルに置かれたメニュー表を開いた。
アルコールを飲みたい気持ちは山々だ。
だけど、明日はこの旅で初めての寄港地、ケルデイドレス。
もし朝寝坊してしまったら、あの歴史ある要塞に足を踏み入れるチャンスを逃してしまう。
そう考えると、今は賢く選ぶべきだと自分に言い聞かせる。
ノンアルコールも思いのほか種類が豊富で、ページをめくるたびに迷いが深まっていく。
結局、ノンアルコールのチャイナブルーを頼むことにした。カウンターで注文すると、なんとノンアルコールパッケージに含まれていて、無料で飲めた!
もっと早く気づけばよかったけど、旅はまだまだ始まったばかりだ。
これからいっぱい活用しよう。
目の前ではバーテンダーが無駄のない動きでシェーカーを取り出す。
氷がグラスに落ちる涼やかな音が響き迷いなく液体が入れらた。
バーテンダー特有の例の「シャカシャカ」を見ることができ、表情には出さないけれど、ほんの少し胸が高鳴る。
こんな風に作られるのを目の前で見られるなんて、やっぱり特別だ。
やがて差し出されたグラスは、緑から青へと流れるような美しいグラデーションを湛えていた。
グラスの縁にはライムがひと切れ添えられ、ただの飲み物が一瞬で洗練された一品になる。
小さくお礼を言って席へ戻ると、ライムをどう扱うべきか一瞬迷う。
飾りなのか、それとも果汁を絞って入れるものなのか。
答えは出ないまま、そっとグラスに浮かべてみた。
ひと口飲めば、口いっぱいに広がるのは、爽やかな清涼感と穏やかな甘さ。
柑橘の香りが鼻を抜け、喉を通るたびに体の奥まで涼しさが染み渡る。
『美味しい⋯。』
お酒を飲んでいるのにほっと落ち着くという不思議な感覚に包まれながら、私はおもむろに『セルマー旅記』を取り出した。
どうせテンションが上がって眠れないなら、とことん上げてしまおうという考えだ。
ここに持ってきた本は旅行用にまとめたガイドブックの切り抜きたちではなく、セルマーを巡ったある民俗学者の旅行記だ。
どのページにも筆者の感情が滲んでいて、読むたびに旅の匂いが立ち上る。
深掘りはされていないし、今読むと情報も古いのだろう。
それでも不思議と惹き込まれてしまうのは、ひとつひとつの言葉が、旅の空気をそのまま閉じ込めているからだと思った。
最初に目に飛び込んできたのは、明日訪れる予定の国の名。
──守りの国、ケルデイドレス。
船で近づくと、まず目に飛び込んでくるのは灰色の巨塔だ。
海辺にそびえ立つその要塞は、まるで大地そのものが隆起して形を成したかのように、自然の一部と錯覚させるほどに堅牢である。
石壁は塩風に晒されてなお崩れず、歴史の重みをそのまま刻みこんでいる。
伝え聞くところによれば、内部は迷路のように入り組んでおり、敵兵を惑わせるための仕掛けが至る所に仕込まれているという。
ひとつ曲がり角を間違えれば袋小路、あるいは同じ場所をぐるぐると巡る羽目になるらしい。
守りの知恵と執念が結晶したその構造は、まさに「生きた牢獄」と呼ぶにふさわしい。
残念ながら、私が訪れた当時は戦時下の影響で内部への立ち入りは禁止されていた。
外壁を遠くから眺めることしかできなかったのだが、それでもなお十分に圧倒される光景であった。
静まり返った海に映る要塞の影は、無言で人々を威圧し、守り抜いてきた国の矜持を物語っていた。
もし内部に足を踏み入れることが叶ったなら、果たして私は迷わず頂上へ辿り着けただろうか⋯。
いまもなお、心残りとして胸の奥に引っかかっている。
さらにページを手繰る。
──恐竜の国、ブロリランド共和国。
そこに足を踏み入れた瞬間、私は時の概念を失ったような錯覚に陥った。
人が作り上げた文明の輪郭はたしかにここにもある。石造りの町並み、鉄を打つ音、子どもたちの笑い声。
しかしその頭上を、大きな翼を広げた恐竜が悠然と横切ると、あらゆる近代の気配は掻き消され、私は太古の大地に立っているかのように思わされるのだ。
空を行く恐竜の姿はなんと自由であることか。
風を受け、大空を切り裂き、影を地上に落としながら飛ぶその姿に、人は言葉を失う。
地元の人々に尋ねると、彼らにとっては日常の光景であり、驚くべきことでも特別なことでもないという。
むしろ恐竜の鳴き声や飛行の影に季節の移ろいを感じ取るとさえ語っていた。
この国に生きる狩人たちは、恐竜の存在に臆することなく、むしろ深く敬意を抱いている。
狩りは彼らにとって生活の糧であると同時に、精神の鍛錬であり、祖先から受け継いだ文化でもある。彼らは決して気まぐれに獲物を仕留めることはない。獲物に矢を放つ前には必ず祈りを捧げ、その命を奪うことへの覚悟を胸に刻む。
そして彼らは狩った獲物を決して粗末にしない。
肉は食卓を満たし、皮は衣や道具に生まれ変わり、骨に至っては家の扉の取っ手となる。
その扉に触れたとき、訪問者は即座にその家の主の腕前を知るのだ。
太く磨かれた骨の取っ手は、一族の誇りであり、狩りのうまさを示す証なのである。
私が見たある村の光景を記しておこう。
ひとりの老いた狩人の家には、長年の狩猟で得た骨が丹念に磨き上げられ、白く輝く取っ手となって並んでいた。
その輝きはまるで時を越え、彼が歩んだ人生そのものを物語っているようであった。
この国では、人と恐竜とが奇妙な調和のもとに生きている。
人は恐竜を征服しようとはせず、恐竜は人を滅ぼそうとはしない。
太古と現代の境目があいまいになったこの土地で、私は文明というものの意味をあらためて問い直さずにはいられなかった。
何度も読んだことがあるのに、やっぱり夢中になって次のページをめくる。
──迷宮の国、アクスブリエル。
この国に足を踏み入れると、まず訪れる者の視界を覆うのは、果てしなく連なる濃緑の海である。
木々は天を突くほどに高く、枝葉は重なり合い、昼なお薄暗い。
まさしく「迷宮」と呼ぶにふさわしい威厳を湛え、その静謐は訪問者を容易には受け入れまいと告げているかのようだ。
その森は単なる森林ではなく、自然そのものが迷宮と化している。
似たような樹々が連なり、方角を狂わせ、時には根や岩が巨大な壁となって行く手を阻む。
踏み入れた者が帰るべき道を見失うのは必然であろう。
迷宮は人を惑わすために存在しているのだ、とすら思えてくる。
しかし、このラビリンスに挑む者たちがいる。彼らは「冒険者」と呼ばれ、己の命を賭して森の奥深くへと踏み込んでいく。
モンスターを狩り、秘薬の材料となる草花を摘み、あるいは失われた遺跡を探し求める。
彼らの姿は、古の勇士を思わせるものがある。
私自身はその森の外縁を歩いただけであったが、肌にまとわりつく湿気と、木の根の隙間から吹き上げる冷たい風に、ただならぬ気配を感じた。
地図にも記されぬ道を読み解き、深奥を目指す勇敢なる戦士たちの足取りを思うと、畏敬の念を抱かずにはいられない。
アクスブリエル──そこは、人と自然が試し合う、永遠の迷宮である。
そこまで読んだ私は、グラスを傾けた。
カラン、と氷の崩れる音がしてグラスがもう空なことに気づく。
心地よくここで終わるか、もう1杯飲むか⋯。
少し迷って、この心地よさをもう少し引き延ばすことにした。
次に頼んだのはノンアルコールのサングリアだ。
中にはフルーツがたっぷり入っていて、食べやすいようにピックまで添えてある。
りんごを口に含むとじゅわりとぶどうの甘味があふれ出す。
りんごのほのかな酸味と合わさって美味しい。
さてさて。と私は本の続きを開いた。
──食の国、ミルドック王国。
この地を訪れた旅人がまず驚かされるのは、食べることそのものが文化の中心にあるという事実である。
朝の市場に足を踏み入れると、色とりどりの食材が溢れ出すように並べられていた。見たこともない形の果実や、海に棲む奇怪な生き物、さらには他国では到底口にしないような虫までもが、整然と並んでいる。それらは決して奇をてらった珍品ではなく、ミルドックの人々にとってはごく当たり前の食材にすぎない。
ミルドック王国の食文化は、異国からの知恵を貪欲に取り込み、独自の工夫と調和をもって昇華させてきた。
東方の香辛料が南部の煮込み料理に溶け込み、北方の燻製技術は、山岳地帯の肉料理をより豊かにしている。
国を歩けば、いたるところで異文化が共存しながらも、驚くほど自然に融合していることに気づかされる。
不思議なことに、この国で食べ歩きをして「まずいもの」に出会うことはまずなかった。
大衆食堂で供される一椀のスープでさえ、深みのある滋味を持ち、旅人の心を慰める。
まるでこの国全体が、一皿ごとに「ようこそ」と語りかけてくるかのようである。
ミルドックを歩く旅は、まさしく舌と心を満たす饗宴の連続であった。
──魔女の国、ゴチア。
この地の名を耳にした時、多くの旅人はおとぎ話に登場する怪しげな魔女の姿を想像するだろう。
しかし実際に足を運んでみれば、その印象は心地よく裏切られる。
ここは恐ろしい呪術の国ではなく、エネルギーの国、そして笑顔の国だった。
ゴチアの街を歩くと、まず目に飛び込んでくるのは、大通りの両脇の店にずらりと並ぶ大鍋である。
どれも膝丈ほどの高さがあり、中には乳白色や深緑、あるいは淡い琥珀色をした液体がたぷたぷと満たされている。鍋の前に立つ女性たちは、細身の専用の棒を両手で握り、ゆっくりと、あるいは時に力強くかき混ぜていく。
すると不思議なことに、液体の表面がふつふつと泡立ち、やがて白く染まった結晶──魔石が底から浮かび上がってくるのだ。
それを陽にかざしてみれば、光を受けた魔石は虹色にきらめき、まるで宝石のような輝きを放つ。
この作業は、力仕事を必要としないため、女性たちが多く従事している。
旅人の目には確かに「魔女の薬作り」に見える光景であるが、当の彼女たちは決して怪しげではなく、むしろ陽気でおしゃべり好きだ。
大鍋をかき混ぜる手を休めることなく、歌を口ずさみ、時には旅人に声をかけてくる。
魔石はゴチアにおける最重要な輸出品であり、街はそれによって潤っている。
通りには商人が絶えず行き交い、市場には各地の品が溢れ、夕暮れになると酒場からは賑やかな笑い声が響き渡る。
「魔女の国」と呼ばれながらも、そこに満ちているのは恐怖ではなく、人々の活気と生きる力であった。
大鍋を囲む笑顔の輪を目にした時、私はこの国を羨ましく思わずにはいられなかった。
次のページを開こうとした瞬間、ふわりと大きなあくびが漏れた。
いつもの眠る時間はもう過ぎている。
旅の高揚感で気付かなかったけれど、体は正直だ。
名残惜しく本の背表紙を撫でると、しおりをそっと挟み、ぱたりと閉じた。
カウンターの上では、すっかり氷が溶けて淡くなったサングリアが、最後の一口を待っている。
ほんのり甘く、少し水っぽくなったそれを飲み干し、グラスを持って立ち上がる。
「美味しかったです。ありがとうございました。」
そう声をかけてグラスを返すと、バーテンダーがにこりと微笑みを返してくれた。
その仕草が妙に心に残り、旅先の夜らしい特別な一幕に思えた。
廊下に出ると、足元にはじんわりと心地よい疲れが広がっていた。
船体がわずかに揺れ、絨毯越しに波の気配を感じる。
部屋へ戻る扉を開けると、そこには静かな闇と、自分だけの休息が待っていた。
ベッドに身を沈める前に、今日のページの余韻がふっと胸に広がる。
ケルデイドレスの要塞も、ブロリランドの恐竜も、ゴチアの魔女たちも、どれも想像の世界では終わらない。
明日以降に出会う現実の世界と重なり合うのだ。
楽しみで仕方ない気持ちを抑え、目を閉じた。
ご覧いただきありがとうございます。
ガイドブックを見る気分で書きました。が、今後こういった先取り話がある方が良いのか、ない方が良いのか、迷っております。。。
プチネタバレする時は今後も注意書きをいれます。




