天使(ルシファー)の形而上学
近くのコンビニに行くだけで汗だくになった。まったく今の夏はどうかしている。8月の東京は人間が暮らせるところではない。
アパートに戻りドアに鍵を差し込むと違和感を感じた。解錠したつもりが逆に施錠してしまっていた。
(おかしいな。鍵を欠け忘れたのかなあ)
ともかく部屋に入った。外は暑すぎるからだ。今日は隅田川の花火大会の日だった。そして、僕の住んでいる古いアパートからは奇跡的に部屋の窓から建物の谷間に上がる花火を見ることができた。毎年、これをネタに女の子を誘うのだが、未だ1人も部屋に来たことはない。
だから、今年も1人だった。これから昨晩、閉店間際のスーパーで半額で買ったスイカを食べ、その後、酒でも飲んで花火を見る予定だった。だが冷蔵庫の製氷機が故障して氷が作れなくなっていた。スーパーで買った「鬼ころし」の紙パックの酒をロックにして飲もうと思っていたので僕は困った。常温でも悪くはないが、この暑さだ。やっぱり冷たくして飲みたい。そこで近くのコンビニまで買い物に行ってきたのだ。
「おかえり」
部屋に入るとゴスロリのコスチュームを着た女が鬼ころしを飲みながら窓の外を見ていた。
「君は?」
「ああ、氷買ってきてくれたの。ありがとう。さっそくもらうわ」
彼女は僕から自然な仕草でレジ袋を取ると、中のロックアイスの袋を開けて、氷を手でつまみ自分のグラスに落とした。そして、ひとさし指をグラスに入れると、氷を回転させた。
「ああ、冷たいと美味しい」
僕は黙ったまま立ち尽くしていた。
「『鬼ころし』もこうやって飲めば結構イケるじゃん」
「あのう……。君は誰?」
「まりあ。真理にアジアの亜で、真理亜っていうの。ねぇ、名字も聞きたい?」
「う、うん」
「阿部よ」
「そうすると阿部真理亜さん?」
「ええ」
「なんでここにいるの?」
「花火を観るため決まっているでしょう」
真理亜は暮れかけて来た空を見上げた。
もうすぐ花火の開始時刻だった。
女を観察すると片方の目に黒い眼帯をしていた。
(アニメやゲームのキャラクターのコスプレイベントから流れて来たのかな。この辺でそんなイベントしていたかな……)
「あなたは飲まないの」
そう言いながら、真理亜は別のグラスに手づかみでロックアイスを入れて鬼ころしを注ぎ、自分の右手の指をグラスの中に入れた。花唇のようなピンクのネイルがグラスのなかで踊った。それを見ているうちに僕は自分自身の芯が妙に熱く固くなってゆくのを感じた。
「はい」
真理亜がグラスを僕に渡した。
「乾杯だね」
真理亜が自分のグラスを突き出した。
グラスの縁を小鳥が口吻をするかのように少しだけ触れ合わせた。
「チンチン」
彼女がいたずらっぽく笑って言った。
僕は思わず自分の下の方を見てしまった。まさか社会の窓が開いたままになっていて、さっきの彼女のピンク花唇のような指が僕のグラスに入ってきたのを見て、思わずエレクトしたのが見られたのかと思ったからだ。
彼女はクスッと笑った。
「乾杯の意味よ」
「どういうことだい」
「イタリアじゃあ、乾杯の時にCincin!って言うんだよ。知らなかった?」
「知らなかった」
「何を連想したの?」
「いや。なんでもない」
ドーンという音がした。
「花火だ」
真理亜は嬉しそうに言った。
それから、僕らは鬼ころしのロックを片手に無言で花火を鑑賞した。
「ねぇ、お腹すいた。何か食べるものない?」
「ええと」
僕は一人暮らしで、基本自炊はしない。しかもこの季節なので、昼間部屋に僕がいない時は室温はとんでもなく高くなり食料品はすぐにだめになるので部屋には何も置いていない。
冷蔵庫に半額で買ったカットしたスイカがあるのを思い出した。
「スイカならあるよ」
「それでいい」
僕はカットスイカをスーパーで買った容器のまま出した。
彼女はあっという間にそれを平らげた。
「お腹空いていたんだ」
「うん。1人じゃないから」
「えっ?」
「私1人じゃないからね」
「どういうこと?」
「文字通りの意味よ」
「まさか妊娠しているのか」
彼女はこっくりと頷いた。
スイカを食べ終わり、再び鬼ころしの入ったグラスに手を伸ばそうとする彼女から、鬼ころしを取り上げた。
「何をするの」
「だめだろう。妊娠中に酒なんか飲んじゃ」
「少しくらい平気だよ」
「だめだ」
僕は彼女の鬼ころしを一気に飲み干した。
「あー」
「この通りもうない」
すると彼女は前に来ると両手を僕の頬に添えた。
突然、唇を唇で塞がれた。
言葉を出そうとしたら、舌が侵入して来た。彼女の舌は温かく、生き物のように僕の口腔内で暴れた。
「ううああうう」
僕は体の芯から蕩けそうになった。蜜のような快楽だった。
彼女は体を離した。
「ふう、少しだけ回収できたわ」
「何を?」
「私の鬼ころし。だって、あなたが飲んじゃうんだもん」
彼女は妖艶に笑った。
僕は膝から崩れ落ちそうだった。
「ねぇ、この子の父親にならない」
「はい!?」
「あならならぴったりよ」
「でも……」
「私のこと覚えていない?」
僕は彼女の顔をまじまじと見た。黒い眼帯が見た目を変えているが、それを差し引いても覚えがない。
「私はあなたの天使よ」
「天使?」
「そう」
彼女の後ろにある窓からは花火がひっきりなしに打ち上がり、彼女の姿に被さり、光の羽根の様にも見えた。
「でも誰の子なんだ」
「あなたが父親になるんだから、あなたの子供に決まっているでしょ」
正直に言えば僕はまだチェリーボーイだった。だからどこかのクラブで深夜に羽目を外して一夜限りのアフェアをしたこともない。間違いなく僕の子ではない。
「素敵な夜ね」
彼女はうっとりとした顔をした。
僕の理性は、彼女のペースにはまらず、ここで彼女を追い出さないといけないと盛んにアラートを鳴らすが、僕の身体と気持ちは食虫植物に捕まった虫けらのように身動きが取れなくなっていた。
彼女がもう一度キスをした。
一気飲みした鬼ころしの酔いがまわり、花火の轟音と夜空を彩る火炎のアートは、非現実的ミスティクな魔法による認識と制御の崩壊と存在の変容をもたらした。
(この世界には理性を超えたものがある。何故、どうしてを問うても認識しえないものがある。そう。彼女のように)
そんな声が聞こえてきたようにも思えた。
「あら、聞こえたの」
彼女が僕を覗き込んで言った。
「なんのこと」
「あなたにも天使の声が聞こえたのね」
その時、地響きのような重低音の炸裂音がして、夜空に大輪の火炎球の花が開いた。
もう一度彼女が口吻をした。
僕は永遠の詩情と熱情を感じた。