赴任先
「……これが、フィディック学院」
私は巨大な城と見紛う建造物を見上げて、呟いた。石造の城壁や尖塔が立ち並び、中央には目を見張るほど巨大なゴシック様式の建物が聳え立っている。正面には左右に分かれる形で川も流れ、尖塔も含めればその敷地の広さはどれだけのものになるか。
こんな建物、地球ですら見たことが無い。
私は素直に驚きながら、石畳の道を進んだ。
周囲を見れば頭に獣の耳が生えた者や尾が生えた者、耳の長い者や子供の様な身長なのに豊かな髭をたくわえた者もいる。
衣服の様相も様々だが、何より鎧や甲冑姿の者や全身を隠すようなローブ姿の者もいる。
まるで冗談みたいな光景だが、もう亜人種や獣人、エルフも見慣れてしまった。大きな街ならば多種多様な人種がいるのは当たり前である。
珍しいのは巨人族や人魚族、妖精族などだが、そちらも世界のどこかには実在するという。
威圧感すら感じさせる荘厳な門を見上げ、私は溜め息を吐いて一歩踏み出した。
その時、突然門の中から声を掛けられる。
「……そこの方。ここから先は世界一と称される魔導学院、フィディック学院です。こんな時期に編入という情報はいただいておりませんが、何用でしょう?」
と、まるで穏やかな歌でも歌っているかのような流麗な声音で警告された。
顔を上げると、そこには目を見張るような青い髪の美青年が立っていた。貴族が好む軍服とビジネススーツの間の様なデザインの服を着ている。黒を基調とした堅い雰囲気でありながらそこかしこに銀の紋様が刺繍されており、傍目からでも高級な仕立てと分かった。
「……ここで働けと言われました。学長であるグレン様に取り次いでもらいたいのですが」
そう告げると青年は優しげに微笑み、首を左右に振った。
「申し訳ありませんが、今の話が納得できるほどの内容の身分証、もしくは同様の地位にある方からの紹介状はお持ちですかね。ご存知でしょうが、学長は血筋では無く圧倒的な魔力とそれによる様々な偉業を評されて侯爵にまで成り上がられた方です。簡単にお会い出来る方ではありませんが」
値踏みするような視線と共にそう言われて、私は眉根を寄せる。
「それは困りました。私は平民ですので地位を証明する身分証はありません。魔術師協会のギルドカードならありますが……」
そう応えると、青年は明らかに興味を失ったように表情を消した。
「……では、お帰りを。私もこれで失礼します」
あっさりとそれだけ言って踵を返す姿を見て、一言声を掛ける。
「手紙だけでも届けてもらえませんか?」
すると、青年は静かに振り返って腕を組み、首を傾げた。
「……手紙、ね」
胡散臭そうに呟かれたその言葉に、私は肩掛けの革鞄から一枚の白い紙を取り出した。封蝋も何もしておらず、ただ三つ折りにしただけの一枚紙だ。それを見て、青年は僅かに興味の色を取り戻す。
「その手紙は?」
「挨拶状みたいなものと聞いています。勿論、何も仕掛けなどはありません。問題がなければグレン学長にお届けしますが」
「届ける? それを決めるのはこちらの筈ですが……」
馬鹿にしたようにそう口にしながら、青年は私の手の内から手紙を取り上げた。
折り畳まれたままの手紙に手のひらを向け、僅かに目を細める。青年の端正な顔に影が落ち、長いまつ毛が揺れた。絵になる姿に若干腹が立つ。
「確かに……魔術の仕掛けなどはなさそうですね。後は中身ですが……」
そう口にしたのを聞いた瞬間、私は無属性魔術、虚空の手を発動させた。
無詠唱、更に最小の魔力による虚空の手は高位の魔術師と思われる青年にも察知すらさせず、手紙を奪い返した。
「お手数をお掛けしないよう、私が届けます」
それだけ告げて、新たな魔術を発動する。
流石に二度目は無いとでも言うように、青年は素早く防御魔術を展開しようと動いた。
「白い渡り鳥」
呟くと、手紙はふわりと浮き上がり、そのまま城の最上階目掛けて飛んでいく。その様を、青年は半ば呆然と見上げていた。
面倒だし、気付かれない内に逃げよう。
そう思った私は、何食わぬ顔でその場を離れたのだった。
【青い髪の男・スペイサイド】
変な女性だった。この辺りでは珍しいほどの艶やかな黒髪に黒眼の少女である。年齢は十代後半といったところか。しかし、その雰囲気は自分よりも年上のようでもある。
細身ながら目つきは鋭く、立ち姿はさながら軍人のようだった。
あまりに堂々としていた為、馬車にも乗っていないのに思わず貴族と誤解してしまった。だが、聞けば平民だという。
学院は誰もが受験することが出来る為、教員も同様に出自は無関係としている。
しかし、常識的に考えて最上級の魔術師の学舎なのだから、殆どは貴族の生まれだ。教員などは一流の魔術師ばかりであり、生まれも大半が侯爵家や伯爵家となっている。
故に、入学の時期でもないのに平民が学長に面会を求めるなど、聞いたこともない珍事であった。
この女性は詐欺師か、はたまた狂人か。内心そんなことを思いながら会話をし、適当にはぐらかして帰らせようとしたのだが、女性は苦し紛れのように妙な紙切れを出した。
真っ白な紙だ。私でも殆ど見たことがないほど上質な紙を見て、思わず興味を抱いた。
と、紙に意識を取られている内に女性が魔術を発動し、手元から紙を奪われてしまった。
いつ詠唱したのか。なんの魔術を発動させたのか。
なにより、この私が事後にしか気付けないことなど、これまで一度たりとも無かった。
頭の中は混乱し、心拍数が跳ね上がった。
緩んでいた警戒心が瞬時に張り詰める。素早く動けるように腰を落として重心を下げながら口を開き、防御のための詠唱に入る。
「お手数をおかけしないよう、私が届けます」
瞬間、女性はまた見たことの無い魔術を発動し、手紙を空へと飛ばしてしまった。
二度目だというのに、魔術行使の準備動作も発動の瞬間も分からなかった。
まさか無詠唱などということはないだろう。
ならば、極限まで呪節を削った詠唱と考えるべきだ。私とて、得意な水の魔術ならば幾つか呪節を削った短縮呪文を使うことが出来る。
だが、それにしても、だ。そうだったとしても、あまりにも発動が早過ぎる。準備が分からなさすぎる。
「あ、あなたは……いったい……」
呆然と空を見上げた後、視線を下げながらそう呟き、女性の姿を探した。
だが、視界に入るのは見慣れた石畳と石造の壁ばかりだ。
女性の姿は、忽然と消えていたのである。