王の目覚め②
「…おいいたぞ!?あそこだ!」
唾を飲み込む音が聞こえる程に静まり返った草原、一番初めに我に返った兵士の一人が声を上げ穴の底を指さした。
その声を聞き、他の兵士達も夢から覚めたように本来の目的を思い出した。
そして男が指さす先を見た。
「う…うぅ…」
まるで巨大などんぶりの様な大穴、その中心部には兵士達が追っている一つの小さな人影があった。
身体と服を汗で湿らせ、息苦しそうに呼吸を乱し肩を大きく揺らしている。
ローブが捲れ露になった両足——この過酷な道を休みなく駆け続けた事実を否定したくなるほど華奢な両足は、力を一切入れていないのに震えて悲鳴を上げていた。
どんぶりの底のように平らな地面が円く広がる穴の中心部、そこで今にも消え入りそうな声を漏らして苦しそうに倒れこんでいるのは———1人の年若い女だった。
土で茶色く濁った白銀の髪。
生傷が所々赤くなった玉のように美しい白肌。
苦痛で歪み輝く宝石のような紫色の瞳。
穴に転げ落ちたからだろう、草葉や小さな枝がまとわり付いたローブは土まみれとなり、その際の衝撃のせいか顔を隠していたフードは脱げていた。そしてフードから現れたその若々しく美しい容姿は、このような不気味な草原にはおよそ不釣り合いなものだった。
「捕まえろ!!」
男の声が草原に響き渡った。
そしてそれを合図とするように、草原に立っていた兵士達が穴へと下りた。穴の底で苦しむ女を捕まえるために。
「くっ…にげ…」
もう立つことなど出来ない状態だった。
指には力が入らず曲げることすら出来ない。
筋肉は鉄のように硬く重く、体は強力な磁石でくっ付いているかのように地面から離れない。
男達が穴を滑り下りる音が重なり大きくなる。
そして直ぐにそれは鎧が揺れる音に変わった。
後ろから近付いて来る足音と鎧の音、それは女に非情な現実を告げる知らせだった。
それでも女は足掻いた。
無理だと分かっていても諦めなかった。
最後の力を振り絞り、もう指が動かない足と腕を使い、膝と肘を使いもがいて何とか四つん這いに体を起こした。
「手こずらせやがって!」
しかし次の瞬間——女は後ろから強い力によって引っ張られた。
一瞬浮いた身体の向きは180度回転し、彼女の背中は勢いよく地面に叩き付けられた。
「いっ…たい…!離して…!」
「うるせぇ大人しくしろ!おい誰か縄持ってないか!?パズモ=フィシャールを捕まえたぞ!」
男が馬乗りで女を地面に押さえ付ける。
仰向けで押さえ付けられた女は衝撃と圧迫で上手く呼吸が出来ず苦痛に顔を歪める。
当然だ。ただでさえガタイの良い男が鎧を着てお腹に乗り、鍛えられたその腕で自分を拘束しているのだ。
肺は圧迫され、汗と土で汚れた足の矢傷からは血が流れ落ちた。
「おい暴れんな!」
苦痛から逃れようと女が必死に抵抗する。
とはいえ体力の尽きた手負いの華奢な女の抵抗、最後の力を振り絞ったと言っても高が知れている。
男からすれば幼い子供が暴れた程度に過ぎない。
だが……
『パァン!!』
乾いた音が大穴の中に響いた。
女は自分の身に起こった事の理解が追い付かず目を丸くした。
しかし徐々に広がる痛みが…焼かれる餅のように熱く赤くなり始めた彼女の左頬が、何が起きたのかを彼女に突き付けた。
「おい!やりすぎだぞ!」
「うるせぇ!!こっちはこの女に散々振り回されたんだ!大人しくしねぇこいつが悪いんだよ!」
そばに立っている仲間が男の行動を咎めたが、頭に血が上っていた男の耳には届かなかった。
それがお互い気に障ったのだろう、男達は口論を始めた。
「………」
自分の上で行われている口論、女はそれを黙って聞いていた。
体力の限界は勿論だが、今彼女を抜け殻のようにしているのは別の問題……それは純粋な恐怖。
捕まる前は“逃げる”という使命感が彼女を突き動かしていた。だが捕まってしまい頬を叩かれた時に理解してしまったのだ…もう終わりなのだと。
すると今まで抑え込んでいたモノが溢れ出し、彼女の希望を奪い思考を完全に停止させた。
それが恐怖だった。
「(ごめんなさい…ウラド、サルファ、ミラ、ケイ…)」
恐怖に震える女の心の声と脳裏に浮かぶ4人の騎士——彼女を慕い忠義を尽くし自らの命と引き換えに逃がしてくれた勇敢な4人の騎士達、だが彼らの犠牲も空しく女は捕まってしまった。
「(ごめんなさい…ごめんなさい…)」
忠臣達との約束を守れず恐怖に震える自分の不甲斐なさが悔しかった。
「(ごめんなさい…お父様…)」
王としての己の無力さを痛い程突き付けられた。
それが言い表せないほど悔しかった。
でも……
「(助けて…)」
それでも……
「(助けて……)」
女は一人の女として恐怖し助けを求めた。
「(助けて………お兄様)」
それが叶わぬ願いだと分かりきっていても、目から涙を溢れさせ心の底から助けを求めた……今は亡き兄へ。
溢れた涙と滲み出た血が震える白い肌を伝い、乾いた地面に滴り落ちた。
『喧しいぞ』
それは突然の出来事だった。
不機嫌な男の声が聞こえたのだ。
声は穴の中にいた全員に聞こえた。
しかし、それはその場にいた誰の声でも無かった。
更にその声は耳から聞こえたのではなく、頭の中に直接響いたのだ。
全員の動きが止まった。
男達が口論を止めた穴の中は不気味な静寂に包まれた。
「おい…今の…」
男達の1人が恐る恐る口を開いた。
『黙れ』
威圧的な声が男の言葉を遮った。
またあの不機嫌な男の声だ。
一体何がどうなっているのか、誰も理解できなかった。
すると急に辺りが暗くなった。
月が雲に隠れたのか?
いや…それにしては余りにも暗すぎるのではないか?
「なに…ぁれ…?」
何かに怯える女の弱々しい声が聞こえた。
声の主を見ると、女は瞳を揺らしながら何かを見ていた。
仰向けの女の視線の先…それは当然空、男達の頭上、男達は唾を飲み込み意を決して顔を上げた。
「なっ…」
空を見上げた男達は絶句した。
松明の光で頭上を照らす彼らの目に映ったもの、それは宙に浮く明らかに異質な闇の塊だった。
まるで生き物のように蠢いている闇の塊は、闇夜を照らす光を食らい尽くすように、夜空から注ぐ月光を遮っていた。




