16. カチャリカチャリカチャリ
―――カチャリ
家の鍵をあけて玄関を開けると、いつもどおり誰もいなかった。
ただいまといっても返事がないことがわかりきっているので、いつからか黙って家のドアを開けるだけだった。
今日は一人で机に向かっていた。
テスト範囲のおさらいが終わると、時計はいつのまにか夜の10時前になっていた。
そういえば、帰ってから晩御飯を食べていなかったことに気がつくと急におなかが減ってきた。
買いだめしてあったカップラーメンを取り出し、 お湯をそそいで3分で出来上がり。
効率的につくられた工業製品のような食べ物をすすっていると、玄関のドアが開く音が聞こえた。
夏だというのに髪をきっちりとセットして、胸元までしっかりボタンをとめたスーツ姿の母が帰ってきた。
「あら、いたの」
台所にいた私の姿を見て、母が驚いていた。
帰ってくるときは大抵夜遅くで、母もただいまといわなくなっていた。
「……おかえり」
「なあに、そんな体に悪そうなもの食べて、ちゃんとしたもの食べなさいよ」
「……ごちそうさま」
まだ少し麺がのこっていたけど、急に食欲がなくなり全部流しに捨てた。
「ちゃんとしたの?」「本当にそれで大丈夫?」「しっかりしなさい」
母の口癖だった。会うたびに言われるのがイヤで、自分のことは全部自分でできるようにした。誰の助けもいらないし、誰にも迷惑をかけてないんだから文句はいわれたくないと自分の殻を作っていった。
私にとっての世界は殻の中の自分だけなはずだった。
あの日、なんの遠慮もなく人に近づいてくる莉子と、見返りをもとめず他人のために動く修平に出会い、こういう生き方もできるんだと驚いた。あんな風にふるまえたらと楽しいかなと思うときもあった。
でも、やりたいと、やろうという思いは別個のものらしく、二人の関係をそばで見られたらそれでいいかと満足していた。
でも、中学、高校とその関係もすこしづつ変化していった。
莉子も修平も私のいない場所に、どんどん自分の場所を作っていった。
二人はどんどん前に進んでいって、自分だけが取り残されるように感じた。
なんだか、疲れてきた。他人に勝手に期待して、思い通りに行かなかったからって落胆して、自分がバカみたいだった。
今日も相変わらず暑く、教室ではプラスチックの下敷きをあおぐパコパコという間抜けな音が合唱をしていた。
窓の外からは、セミのコーラスも聞こえていた。
でも、夏のやかましさに負けないぐらいいつも元気な莉子の様子がおかしかった。
学校の帰り、隣を歩く莉子は一言も話さなかった。
雰囲気も固く、適当な雑談をできるという感じではなかったので、私も黙って歩いていた。
「……ねえ、千明」
「なに?」
莉子が視線を合わさずに、うつむき気味に話しかけてきた。
「千明は二階堂さんのこと知ってるんだよね」
「まあ、うん。でも、修平と遊びにいったとき、偶然莉子と二階堂さんが一緒にいるのを見かけただけだよ」
こっそりと会っていたのが後ろめたく、とっさにウソをついてしまった。
「うそだよ……」
莉子がいままで見たことのない顔をしていた。
何かを怖がるような、だけど、瞳の奥にどろりとした感情が見え隠れしていた。
「千明と二階堂さんが駅で……抱き合っているところを見たって子がいたんだ。ねぇ、千明は……、二階堂さんのこと、すき、なの?」
莉子はうつむき、自らのうちに生じた感情に苦しんでいるように見えた。言葉にできず吐き出せない感情は、やがて心を食い破ってしまう。
本当にこの子はどこまでもまっすぐで自分の心をさらけだしていく。そんなに無防備だから、苦しむんだよ。
もう潮時だろう。
「ねえ、莉子。これ以上、私に関わらないほうがいいよ。大丈夫、二階堂さんとはなんともないから」
莉子は顔を上げて、訳がわからないといった様子で困惑していた。そんな彼女を置いて、私は一人で歩き出した。
「待ってよ……」
「それじゃあね」
もうこれっきりにしよう。莉子たちに夢を見てしまったけれど、だめだったんだ。
―――カチャリ、カチャリ、カチャリ……
カギをかける音が何度も聞こえた。




