六十二話
「以前話した嫌な感じと言うのは、きっとあの悪魔のことだったのね。力になれなくてごめんなさい」
アニスと悪魔への攻撃が終わると、リーゼロッテに一言謝って雪の精霊は姿を消した。冬でもない限り長時間留まっていることは出来ない。季節外れに呼び出した上に敵の戦力を削れただけもで有り難いのに、かなり気に入られているらしい。
残った悪魔は、リーゼロッテを睨んでいる。どうやらこちらには嫌われたようだ。
「よくも我が主を……自分が生き延びる為に人まで殺したか。継母に随分と嫌悪していたようだが己も同じことをしているという自覚はあるか」
「ついでにあなたも殺そうとしたのだけれど、悪魔の体って水分も流れていないのかしら」
辛辣な言葉を浴びせ、おそらく悪魔はリーゼロッテの気力を削ごうとしたのだろう。けれど返ってきた言葉に逆に悪魔が口を噤んだ。皮膚の表面がうっすらと白くなっているところを見ると全く効かないわけでは無いらしい。体内の水分が無いのか、リーゼロッテの力不足のどちらかだ。決して雪の精霊のせいだとは思わない。
殺すなんて物騒な言葉、今まであまり使った事が無かったリーゼロッテ。自分でも少し驚いている。けれど何となく、アニスの影響を受けているのではないかと思った。
継母もアニスも、自分で選んだ道を貫き通した。歪みはあるし明らかに悪い道だしお互い理解はできなかったけれど。本人たちにそんなつもりは更々なかったかもしれないけれど。物事を受け入れて変えていく柔軟性は必要だが一本筋が通っていた方が良い。自分はどうだろうか。
―――バイオリンを弾きたい。そのためには弾ける状況を、平和な街を取り戻さなくては。
「虫も殺せない聖女だと思った?罪悪感に泣いて喚くのがお好み?でも私、家出しちゃう悪い子なのよ。これ以上大切なものを奪われるのが嫌なだけ。アニスとあなたは死なない限り止めるつもりは無いみたいだから」
選んだ道は間違ってはいない。間違っていたとしても引き返すつもりは無い。命のやり取りなんて避けられるならそうした方が良いに決まっている。実際、リーゼロッテが砦で選んだ方法は戦いを避けるものだった。
二人を説得して事態を避けられるならそうしていた。けれど悪魔がいて契約が為されているのならリーゼロッテに選べる方法はない。二人とも後でちゃんと埋葬して、バイオリンでレクイエムを弾いてあげよう。
「アニスには手の内を曝していたんだけどね。耳栓も何もしていなかったという事は自分は私を殺す気満々だったのに殺される気は無かったという事ね」
耳が聞こえない者を回復させたことが有るから全くの無駄かもしれないけれど、と言ってリーゼロッテは肩を竦める。それが、悪魔の気に障ったらしく、激昂して怒鳴り始めた。継母と違ってアニスは大切なご主人様だったようだ。
「人間ごときが、たかがバイオリン一つで何が出来る」
「私の場合は人生を変えることが出来たわ」
「ならばその人生ごと、滅ぼしてくれるッ」
悪魔が何を仕掛けてくるのかと警戒していたが、全く何もなかった。今まで通りスヴェンやシエラ達の攻撃を避け続けるだけ。時折矢を放つが、それもクレフが打ち落せる程度だ。悪魔が叫んだ瞬間にぐっと威圧感のような物を感じたが、リーゼロッテは気にせず『大樹』を弾くことにした。
バイオリンを構え、ゆっくりと弦に弓を置く。不思議と心は凪いでいて落ち着いて弾くことが出来た。美しい旋律はまるで聖歌のように。どこまでも広がる音色は枝葉を天に向かって広げる大樹のように。音の深みはこのバイオリンの素材の歴史。正も邪も、善も悪も、光も闇も全て飲み込んで。
この街を、大好きな両親との思い出が詰まった街を滅びの始まりの地になんかしたくない。願いを調べに乗せて弾けば、悪魔は徐々に動きを鈍らせていく。
それでも動き回ってスヴェン達の攻撃から逃げている。所々傷を負っているが致命傷とはならず、けがを負っても悪魔は直ぐに回復してしまう。クレフは歯がゆく思っているのか杖を握りしめている。
元神官であるクレフが攻撃に転じれば、少しはダメージを与えられるかもしれない。だがそれは悪魔にリーゼロッテを攻撃する隙を与えてしまう事になる。リックとアルフレッドの後ろで何度も感じて来た口惜しさ。足枷になってしまっている感覚がまた蘇ってくる。
「あと少し……あと少し門が開けば……」
悪魔がぼそぼそと呟いている。怪訝に思ったスヴェンは攻撃の手を止めて悪魔に聞いた。
「何を企んでいる?」
「街に出ていた小さな物とは比べ物にならないほどの発生源がこの屋敷の上に開けば、何が出てくると思う?」
攻撃が止んだのを良い事に、アニスにそっくりの口が裂けているような笑みを浮かべて悪魔がケタケタと嗤った。
「ここしばらくの人間どもは魔王クラスなんて相手にした事が無いだろう?どうなるか、見ものだなぁ」
おとぎ話によく出てくるので魔王と言う単語はリーゼロッテも聞いた事が有る。確か悪魔の王や魔族の王と言う意味だ。対する勇者なんてものも現れたと言う話は、この所聞いた事が無い。
悪魔のやろうとしていることを理解した途端に、先ほど感じた圧は気のせいではなかったことを知る。屋敷を震源とした地震が窓ガラスを小刻みに揺らし、頭上からは重苦しい空気を感じる。ムスタや悪魔に感じる闇の気配がどんどん増していき、やがて細かく黒い闇の粒が部屋の中にまで入ってくる。
息がし辛い。体が重い。動きにくいのかスヴェンの剣もシエラの矢も悪魔に届かなくなっていた。
バイオリンを何度も繰り返して丁寧に弾いている。なのに空気が澄んでいく感じがしない。止めてしまえばもっと悪化するのでリーゼロッテは弾き続ける事しかできない。曲を変えることも作曲し直すことも『大樹』を止めてしまう事になる。
―――本当に、ここまで?
「クレフ、攻撃に回って。避ければ平気だから」
「出来るわけないですよ。ここで貴女の能力が封じられてしまえばそれこそ……」
クレフが言葉を途中で止めた。窓の外をちらりと見る。
屋敷の外から幽かに『故郷』が聞こえてきた。散らばっていた吟遊詩人たちがリーゼロッテのバイオリンの音色に合わせて楽器を演奏し始めている。クレフがそっとリーゼロッテに尋ねた。
「どういう事ですか?まるで一つの曲のように聞こえますが」
「和音進行を同じにして合奏が出来る様にしたの」
『大樹』を一回弾く間に『故郷』は二回分。やがて楽器の音だけで無くて歌声まで聞こえてきた。歌詞は無く、皆好き勝手に「らーらー」や「あー」で歌っている。音程を外している人やリズムの合わない人もいるが、総数が多くなるとそれも目立たなくなっていく。冒険者たちだけでは無く、生き延びた街の人たちが集まって歌っている。
弾いても弾いても事態が良くならない事に焦っていたリーゼロッテは口元に自然と笑みを浮かべた。遥か将来に思い描いていた光景が今起きている。音楽が聞こえてくる街はいろいろな意味で平和の象徴だ。
声が、音が、大きなうねりとなっていく。一人一人は小さくても後から後から増えていき、合唱の声は振動を打ち消すほどとなった。悪魔は外に飛び出そうとしたがヴァナルが前に立ちふさがる。
「そこをどけっ、あの耳障りな雑音を蹴散らしてやるっ」
「ガルムノノウリョクハ、ヒトリデコトヲクツガエスホド、ケッシテツヨイモノデハナイ」
気が急いて周囲への注意力が散漫になった悪魔に、背後からスヴェンが一太刀浴びせた。深い傷を負わせることが出来たがそれでも悪魔は動いている。姿を消したり表したりすることは最早出来ず、シエラの魔法攻撃をも食らった。
「ダカラフウインノ数ヲ増ヤシテ、ソれを補うようにしてきたのだ」
獣の声から人間の者に変わる様を、悪魔は信じられないと言う顔をして聞いている。継母の影から聞いていた馴染みのある声。よりによって悪魔付きを妻にするなんて、間抜けな奴だと嘲笑っていた相手。言葉の能力の使い手。
「お前はっ、死んだはずではっ」
「ここは、この街はお前がいて良い場所では無い。滅びよ、悪魔」
父の言葉を受けて悪魔の体中から黒い靄がしゅるると出て行く。靄によって悪魔の輪郭がおぼろげになり、モンスターの出現場所が消えていった様にすうっと霧散していった。
「父様ずるい。一番おいしいところ持って行かれた感じ。体が違うのに何故使えるの」
「娘を助けるために奇跡が起きたのだろう。ごく弱いものだから音楽が無ければほとんど意味のないものだ。万人に封印の力を授けられるリーゼロッテの方がヨホどスゴイ」
しれっと話している間にも獣の声に戻っていく。




