六十話
扉を入ってすぐの玄関ホール。正面に飾られていた、美術館に展示されても遜色ないような女神の巨大な絵が無くなっている。壁際に活けられていた花は花瓶そのものが無くなっており、台だけが何も飾られずにそこに有った。
毎日ピカピカに磨き上げられていた床は薄汚れていて、隅には埃が溜まっている。いくら密偵として入り込んでいた侍女でもたった一人では掃除が行き届かず、絶えず灯されていた百合を逆さにしたようなシャンデリアは節約のために消されていた。
記憶とは随分違う寂しい我が家。それでも、リーゼロッテにとっては帰るべき場所だ。誰に言うともなく帰宅を告げる挨拶を口にした。
「ただいま帰りました」
「オカエリ、リーゼロッテ」
ヴァナルが低い獣の声で返事をする。リーゼロッテは破顔し、ヴァナルに抱き着いた。
「お帰りなさい、父様。長旅、お疲れ様でした」
ヴァナルを父様と呼ぶリーゼロッテに不思議そうな視線が向けられる。三人に簡単な説明をすると納得した。森狼フェンリルは生態を詳しく知られていないので、そんなこともあるのだろうとシエラが言う。
「一通り屋敷の中を見回ってから、上の階のバルコニー辺りで演奏した方が良いですよね」
「ああ、街中に届くようにした方が良いだろう」
「お宅拝見ね。ここで生まれ育ったの?」
おしゃべりしながらも警戒は解かない。一つ一つ部屋の扉を開け、中を確認していく作業はリーゼロッテを中心に行われた。
厨房、貯蔵庫、洗濯部屋、使用人たちの部屋等々。庭に直接出られるサロンにはグランドピアノが置いてあったのだが、影も形もなくなっていた。中古でもそこそこ高値が付くピアノは、きっと真っ先に売られてしまったのだろう。楽譜だけ本棚に残してあることがとても不思議だった。
窓の汚れも目立ち、庭は荒れ放題。有能な庭師がいて四季折々の草花が楽しめたのに、今は雑草が伸びている。
「あの黒薔薇植えたら、警護のための人件費も浮くかしら」
「タノムカラ、ヤメテクレ。ハンショクリョクガツヨソウダ。カテイサイエンノホウガ、イイノデハナイカ?」
「確かにヴィートもそう言っていたわ。食べる事の方が切実な問題ね」
少し遠い目をしながらつぶやくリーゼロッテ。既に思考が次の段階に移っていて、出来るだけ節約しながら屋敷を維持することを考えている。様々な事情から、屋敷を売り払って生計を立てるなんてことは出来ないのが痛いところだ。
一階を一通りまわって二階の部屋に移る。客も呼べる食堂や応接室。父の書斎にあった本は不思議と手つかずのままだった。
「ええと、ここが私の部屋―――あれ?」
「見事に何もないわねー」
天蓋付のベッド。テーブル、椅子、チェスト。天井からぶら下がっていた小さな照明器具すらない。
カーテン、寝具、絨毯……。落ち着いたグリーンが好きだったのに継母のせいで派手なピンクに浸食されていったその部屋は、壁の白と床の木材の色しかなかった。
舞台用のドレスが保管してあった衣裳部屋へと続く扉を開けても、中は空っぽになっている。リーゼロッテの肩越しにクレフが覗き込んで、哀れむような声を出した。
「立て直すにしてもかなり難しいのではないですか。ここまで徹底しているとそこはかとない恨みを感じ取れますね。」
リーゼロッテは深くため息をついた。父様や母様から贈られた思い出の品もあったのに、欠片も残っていない。クレフの言うとおり、手元にあるもので凌ぐことも出来ず、作曲と演奏で稼ぐことしか思いつかない。
落ち込んではいるが、継母に対する恨みは不思議と湧いてこなかった。自分の責任でもあるし、外に出なければいろいろな人との出会いもなかった。勿論、継母がいなければきちんとした人生が送れていたことも予想できる。犠牲者がいない事も。
けれど両方を天秤に掛けて選ぶなんてことは出来ない。今、歩いている方が自分の人生だ。後戻りも取りかえることも出来ないのなら、こちらを選んでよかったと言えるようにこれから頑張ればいい。
「模様替えの楽しみが出来ました。時間を掛けて一つずつ揃えます」
前向きな発言で立ち直ろうとするリーゼロッテに、シエラ達が水を差す。
「……多分、ヴィートがいろいろ持ち込むんじゃないかしら。大きなベッドとか、ねぇ?」
「シエラ、ちょっと親父入ってるぞ」
「あら、これは際どいガールズトークよ」
「男二人がいるのにお構いなしですか」
意味ありげな視線で言うシエラにきょとんとするリーゼロッテ。次第に意味が分かって耳まで真っ赤になる。成人はしていてもさらりと流せるほどまだ大人になり切れていない。ヴァナルは前足で器用に耳を塞いでいる。
最後に残ったのは継母の部屋。日当たりのいい一番広い部屋で、生前の母様が使っていた部屋だった。扉をゆっくり開くと継母が窓際に立っている。
「ただいま戻りました、継母様」
「あら、今になってようやくかあ様と呼ぶの。私はずっとあなたの母であろうと努力していたのに、今まで一度も呼ばなかったのに、勝手に家出して戻ってきて今更呼ぶの?」
振り向いた顔は以前と比べてかなり痩せていた。今まで来ていた服よりも質が何段も下のものになっている。
こんなにも小さな人だっただろうかとリーゼロッテは思った。自分の背が伸びたとは考えにくい。威圧感と言うか、この人からは逃げられないと言う恐怖がまるで無くなっていた。怒りや悲しみをぶつける相手の筈なのに、老いて一人ぼっちとなってしまった憐れみしか浮かばない。
掛ける言葉もなくただ黙って立っていると別の声が寝台の影から聞こえてきた。
「それはひどいんじゃないの、リーゼロッテ。連れ子が懐かないのって結構キツイものよ」
「アニス……どうしてここに」
砦でリーゼロッテを襲撃させた張本人。バイオリンの能力を封じて姿をくらまし、何が狙いなのかと疑問に思っていたらこんな所で出くわすなんて。ピンクの髪に黒いミニ丈のワンピースは相変わらずだけれど、容姿が少し大人びている。甲高い声が大分落ち着いていて、冒険者の魔法使いと言うよりも『魔女』そのものだった。
「ずーっと貸していた使い魔を返してもらいに来たの。二十年以上になるかしら」
「歌姫として成功させ、身分ある者とも結婚させた。お前に音楽を教えられる程度に知識はあったが成功したのは本人の力ではない」
継母の影からぬるりと異形の者が表れる。頭は山羊、背に蝙蝠の様な翼をもつ者。ただのモンスターが持つ気配とは違う、禍々しさ。深淵を覗いているような、存在をそこに許しているだけで漂う背徳感。
「―――悪魔、か。なんていう事を」
元神官のクレフが真っ先に反応し、顔を歪めて憎々しげに睨みつけた。街中に放たれていた契約者を持たない野良悪魔とは違う。何度も願いを叶え、見返りを得てきた悪魔は力を増していく。
リーゼロッテの前にいる悪魔は何度か契約をしてきた。魔王と呼ぶにはまだ弱いが、それでも人の世を脅かすには十分だ。
「娘も戻ってきたことだし、見返りを漸く回収できるな」
悪魔はまずリーゼロッテに手を伸ばし、そのまま方向転換して継母に向き直る。見返りは娘の魂だと思っていた継母は、驚きながらも不満をぶつけた。
「え……だってアデライードが戻ってきたじゃない。取るならあの子の魂を」
「何を言っているの、アデライードは貴女でしょう?あの子はリーゼロッテ。契約もなしに他の魂を回収することは出来ないわよ」
あざけりを含む声で笑みを浮かべながら、悪魔の代わりにアニスが答える。継母は目を見開き騒ぎ立てた。
「そんなッだってあの子に歌姫としてアデライードを名乗らせてきたのに。私の代わりとして成功したのなら契約はあの子に移った筈でしょう?」
「お前は契約によって成功したがリーゼロッテは自らの実力によるものだ。歌の方にもガルム特有の能力が表れるのかとひやひやしたぞ」
継母に押し付けられてきた物が、リーゼロッテを思ってのためでは無い事は気付いていた。自らの契約の代償を押し付ける為の物であったとしても、なんだか継母らしいと納得してしまう。
リーゼロッテのために継母を連れてきた父をがっかりさせたくなくて、本当はバイオリンを弾きたかったのに歌を歌った。考えてみれば、その間リーゼロッテの能力は封じられていたことになる。継母も悪魔に利用されただけとも言える。けれど―――




