五十四話
作り上げた曲を続けて通しで弾き終えれば、拍手の音が鳴り響く。いつの間にか部屋にヴィートがいて、侍女たちが頭を下げ退室して行った。
「やっぱり綺麗な音色だな。酒場で聞いていた雑音の中でもいいけれど周りが静かな方が、何て言うか……染みるね。思わず聞き入ってしまうよ」
ヴィートに誘われて窓辺に立てば、高い位置から見る月明かりの落ちる王都は青い闇に包まれていた。とても静かで、明かりの灯る繁華街の喧騒もここまでは届かない。中空には家を飛び出した時よりも少し丸みを帯びた月が浮かんでいた。
「明日にはアビッソに向かえそうだ。覚悟はいい?」
継母と向き合う覚悟。話し合うつもりではいるが、あちらがどのように出るのかは全く予想もつかない。ヴィートに聞かれたリーゼロッテは少しだけ、考える。
「正直怖いです。アニスと同じように自分には理解できないかも知れないから。分かり合えたらいいとは思いますけれど」
「無理だろうね。スピタク兄上の情報網によると改心したようには全く見えない様だから」
屋敷に潜入している者によると相当荒れているらしい。最近ではあまり外に出ず籠っているとも聞く。追い出すような形になってしまうのだろうか。一応、心底、全くもって認めたくはないがここまで育ててくれた人を切り捨てなければ屋敷や爵位などを取り戻すことは出来ないかもしれない。
「捕縛、という形になりますよね。罪状は予測が付きますけれど、義妹はどうなるのでしょうか」
「嫁に出されたみたいだよ。安心して継母とのみ対峙できるはずだ。後々、捜査の手は及ぶかもしれないけれど」
リーゼロッテは呆気にとられた。継母は家を乗っ取り義妹の婿に継がせるのだと思っていたが、これでは何を為そうとしているのかが全く分からない。
「継ぐ者もいないのにたった一人ぼっちでどうするつもりだったのかしら」
「きっといろいろ立ち行かなくなって、もう既に何にも考えられないんだろうね。君が行くことで終わらせてあげることが出来るかもしれないよ」
ヴィートの予想通りだったら、リーゼロッテに罪悪感は何も残らない。継母がいてもいなくてもその後にやることは何も変わらないから、気持ちが楽な分そちらの方が良い。
会話が途切れて静寂が訪れる。沈黙による焦りやいらだちは全く感じられず、とても穏やかな時間が心地いいとリーゼロッテには感じられた。月明かりで隣に立つヴィートの顔がよく見える。いつもの人懐こい笑みが消えてとても真面目な表情だ。
「リーゼロッテ、大事な話があるんだ」
双眸はしっかりとリーゼロッテを捕らえて放さない。あまりにも真剣な顔なので、リーゼロッテも背筋を正し心して聞く体勢をとった。
「きちんとした手順を踏もうにも君の両親は他界しているし、親戚もいない様だからこんな不作法になるのは許してほしい」
リーゼロッテは静かに頷く。話の流れからして次に言う言葉は予想出来ているのだが、いや、出来ているからこそ鼓動が波打っている。ヴィートは深呼吸して次の言葉を告げた。
「伯爵を受け継ぐ君をずっと傍で支えていきたいと思っている。仕事の面でも、精神的にも。どうか俺と結婚してほしい」
位を継がない私とは一緒になれないのかとはリーゼロッテは思わない。リーゼロッテが決してアビッソから逃げない事を知っているから、信頼されているからこその言葉だ。
このままなし崩しで結婚が決まる心配もしていたから、しっかりした言葉がもらえたのは嬉しい。ヴィートからの言葉が無くてもリーゼロッテの方から求婚するつもりだったから、結果は変わらないのかもしれないけれど。それでも困っている自分が頼んだから結婚するのではなくて、相手にも気持ちがあると分かってとても嬉しかった。
身分や自分を取り巻く状況など、様々な要素を考慮して安全な場所に隔離しておいた恋愛感情が静かに心に解けていく。
けれどリーゼロッテの口は心とは裏腹に、これから背負うであろう苦労を並べ立てた。
「きっと貧乏な生活になりますよ」
「料理の食材を値切るのは得意だし、切れ端でも無駄にしない調理法は身に染み付いてる。屋敷に庭があるなら菜園を作ってもいいな」
「バイオリンしか弾けないから、迷惑ばかりかけるかも」
「営業時間外でも聞けるなんて贅沢、店の常連さんに嫉妬されるかな」
「つまらない女だから、愛想が尽きるかも」
「それは君が決める事ではないね。のんびり末永く一緒にいたいから、あんまりにも破天荒な女性はこっちからお断りだ」
リーゼロッテは自分が結構常識はずれな事をやってきたように思えるが、ヴィートにとっては常識の範囲内だったらしい。
両親が叶えられなかった微笑ましい老夫婦像がリーゼロッテの脳裏に浮かぶ。最初の内はそれどころではないかもしれないが、晩年はバイオリンを弾きながら穏やかに過ごすことを夢見ていたからのんびり末永くという言葉にときめいた。想像は緊張していたリーゼロッテの顔を緩め、口角を上げた。
「はい、よろしくお願―――」
「コトワル。ムスメハ、ヤラン!」
リーゼロッテの返事に別の低い声が割って入った。侍女二人は出て行ったが、ヴァナルはまだ床に伏せていた状態だ。すっくと立ち上がり足音を立てずに二人の間に立ち、リーゼロッテに背を向けてヴィートを威嚇するように見上げる。ヴィートは緊張を解いて長いため息を吐きながら座り込み、苦笑しながらヴァナルの首元の毛並みを両手でかき回し始めた。
「ヴァナルー、どこで覚えたんだ、そんな事。いいとこなのに邪魔するなー」
「ニンゲンダッタ。リーゼロッテ、の、チチオヤだった。馬シャの事故で死んだところまでは覚えているがどうしてこのような姿になったまでかは、わからない。近くにいた狼に魂が憑依したか、転生したなんてこともありうるな」
低い獣の唸るような声で話していたのが、徐々に人間の声に変わっていく。リーゼロッテにとっては懐かしくて泣きたくなるような話し方。ヴィートがゆっくりと手を放し、顔を強張らせていく。
「と……う…様?」
「ガルムなんていつごろから呼ばれたか知らないが、こんな形で会えるとは思わなかった。リーゼロッテ」
最初は呆然としていたリーゼロッテだが、震える手でヴァナルに触れると首にしがみ付いて泣き始める。優しく語りかける声は、まさしく記憶の中の父親のものだった。
「リーゼロッテ、済まなかった。あれを妻にしたのが間違いだ。今まで辛い思いをさせたな」
「私、……ひっく、父様が死んだのも……三か月たってから知らされて、あの人笑いながら言ってっ」
「よくぞあの屋敷から逃げ出してくれた。森でバイオリンの音を聞かなければ記憶が戻ることすら無かっただろう」
逃げ出したことを初めて褒められて、リーゼロッテは殊更に涙を落とした。責められても仕方のない事なのに、ヴィートでさえ最初には街の人の事を考えなかったのかと言ったのに。
ひとしきり泣いてからリーゼロッテが父親から離れると、ヴィートがためらいがちに声を掛けた。
「あの……お義父さん。どうか娘さんをください」
どこからどう見てもヴァナルの姿にお決まりの言葉を真面目に言うヴィート。心の中の葛藤と戦いながら言っているのが見え隠れする。それでも真摯に手順を踏もうとするヴィートにリーゼロッテはちょっぴりきゅんとした。
「ああ、さっきのは父親として一度は言ってみたかっただけだから気にするな。おそらくヴィートと一緒になることが一番幸せな道だ」
「父様……」
リーゼロッテが呆れた声を出した。そう言えばこういう父親だった。リーゼロッテが熱を出した時も大事な会議に出なければならないのに傍に居ようとした事があった。慌てて目を反らす父親。しょんぼりと耳を伏せ尻尾を垂らすヴァナルの姿も相まって威厳もへったくれもない。
「仕方ないだろう、リーゼロッテを奪う奴には絶対に言うと決めていたのだから。とモかク、リーゼロッテ、を、ヨロシク、タノム」
声が獣のものに戻っていく。
「父様?」
「タブン、ニンゲンニハ、モドレナイ。デモ、ミマモッテ、イルカラ。……チョット、ツカレタ」
ヴァナルはそう言うと部屋の隅に移動して伏せた。二人でその様子を眺めた後、顔を見合わせる。横槍が入ったが求婚の返事の最中だったと気づいて、リーゼロッテは慌てて目を反らした。返事をきちんとしなければと思っているとヴィートが先に言葉を発する。
「最後に一つだけリーゼロッテに謝らないといけない事が有るんだ。いつ言おうかずっと迷っていたんだけど……」
ヴィートは至極真面目な顔をしていった。求婚の時よりも緊張しているように見える。
「俺、この国の王子なんだ」
「そんなのとっくに知ってます」
予想通りの告白にリーゼロッテはくすくすと笑う。きっと彼の中でずっと言おうかどうしようか迷っていたのだろう。
「え、ええぇ?いつから?態度が変わってしまうかもってずっと悩んでたのに」
「変えませんよ。たとえあなたが何者でも私の見てきたことが全てですから」
そう言ってリーゼロッテはバイオリンを再び弾いた。とある歌劇の曲で愛の返礼の歌なのだが、ヴィートはもしかしたら知らないかもしれない。それならそれでもいいと思いながら弾き続ける。
弾き終わって反応を見てみるが、どうやら知らないようだと判断する。静かに聞き入っていたヴィートにリーゼロッテは言った。
「ヴァナルに遮られてきちんとお返事が出来ませんでしたけれど、お受けいたします。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ。……明日から忙しくなると思うから今夜はゆっくりと休むといいよ。お休み」
「はい、お休みなさい」
今頃照れはじめたのかヴィートはそわそわしながら部屋を出て行った。その姿を見送りながらリーゼロッテは胸に手を当てる。じんわりとした温かいものが宿り、これからの人生が良いものに変わっていくような予感がした。
リーゼロッテの部屋を出た途端に護衛二人と侍女二人に捕まるヴィート。四人とも満面の笑みを浮かべながらも部屋の中に聞こえないよう小声ではしゃぐ。
「良かった……本当に良かった。おめでとうございます。殿下」
「お前ら、もしかして覗いてたのか」
「最後にリーゼロッテ嬢が弾いていた曲をご存じないのですか。思いが通じ合った喜びを歌い上げた、かなり情熱的なものなんですが」
「私、歌詞の載っている本持ってます。よろしければお貸ししますよ」
侍女のうちの一人が控えの間から喜び勇んで一冊の本を持って来た。自室でこっそり一人でそれを読んだヴィートは、頬を紅潮させて両手で顔を覆った。
「直に歌われたらやばい……バイオリンで良かった」
恋愛ジャンルではないのでこれくらいで。




