二話
リーゼロッテが初めて曲を作ったのは十一歳、大好きな母親が死んだ時だった。母親を自分の曲で送ろうと泣きながら作り、葬式の時に形見のバイオリンで弾いたそれはとても美しく、聞いた者に涙を流させ深い悲しみを浄化させるものであった。
亡くなった母親は女性ながら宮廷音楽家で、貴族である父親に見初められて結婚した。幼い頃より音楽の教育を母親から受けたがリーゼロッテには全く苦痛ではなかった。強制ではなくあくまで親子の憩いの中で知らないうちに身についていた知識は、何物にも代えがたい財産となっている。
作曲を始めたリーゼロッテは弾いた曲の中に魔法のような効果が出るものがあることを知った。萎れていた花が生き生きとし始めたり、ケンカをしていた犬が彼女の曲を聞いて大人しくしたり。そのことを父親に話すと、母親の残した何冊かの本と楽譜を渡された。母親が研究していたものの本人には現れる事のなかった魔法の様な才能をリーゼロッテは開花させたのである。
母親が亡くなってから一年、連れ子の居る継母が来てから生活ががらりと変わった。母と同じ音楽畑の女性ならば娘も接しやすかろうと思った父の再婚は娘を苦しめることになったのだ。声楽出身の継母は音楽の基礎が出来ているリーゼロッテに無理やり声楽を学ばせた。子供特有のまだ雑味の無いのびのびとした透明な声には、継母の知名度がある程度高かったことも有り、これからの成長を見込んで多くのパトロンが付いてしまう。
「パンフレット制作の記者の質問にはチェックよりも花柄が好みだと答えなさい。ブルーよりピンクのドレスの方があなたの声に合っているし舞台映えするものよ。その髪の毛の色はドレスに合わないからかつらをかぶって。喉に悪いから、オレンジではなくてリンゴを食べるようになさいな。かわいい私のお人形さん」
周囲の目には実の子でなくとも大切にする慈愛に満ちた賢母と映った。リーゼロッテには才能のない義妹の方が傍に居て愛情を受けているように見えたのだが、義妹本人からも嫉妬を受けてしまう。
「どこに行ったって義姉さんの妹としてしか見られないのよ。あなたも何か音楽を?って必ず聞かれるの。母さんも義姉さんにお金をかけてばかりだし、もううんざりだわ。……でも、高貴な方々とお知り合いになれるのだけは役得ね。精々利用させてもらうわよ」
仲良くなりたいと伸ばした手は、振り払われてしまった。毎日レッスンと舞台で忙しい身には年頃の友達など作る術もない。次第に心の内を吐き出すことが無くなり、閉じ込めるようになっていく。言われるがままに歌う人形のように。
大きくなってからは、声に艶やかさが加わるようになっていった。ソロのコンサートからオペラもこなすようになってリーゼロッテの立つ舞台や衣装もより煌びやかなものになっていく。経験の中で身に付けた笑顔を張り付けて食事や生活は全て継母によって管理され、唯一心を癒していたバイオリンさえも遠ざけられてしまった。
「あなたの母は私よ。こんなに良くしてあげているのに、いつまでそんなものにしがみ付いているの?」
好きなものをどんどん取り上げてしまう継母を、母と慕う気には全くなれなかった。
そして昨夜、父様の死を告げられて自分の存在意義を見出せなくなっていた。バイオリンを弾いて悲しみを浄化させることが出来たものの今後の事を考えると気分は沈みっぱなしだ。
歌劇の中の姫君のように救い出してくれる騎士もいない。この後は年寄りと結婚して、好きでもない歌を歌って、嫌な事ばかりをしていかなければならないのか。リーゼロッテの名前で呼んでくれる人はいなくなり、屋敷の者ですら誰も信用はできなくなってしまった。
―――いっそ、死んでしまおうか。
ここで首を吊る、或いは飛び降りる?馬車に細工をして父様と同じように死のうか。いや、金の亡者は娘の死すらも利用して憐れみを誘い、儲けるための手段にするのだろう。
用意された朝食を食べながら、考え事をする。継母の人形でいる事から逃がれるにはどうすれば良いのか。今まで出会った貴族や商人たちは継母の代からの支援者なので、おそらく継母の味方をすると思う。
この町の中で自立した生活を送ろうとも連れ戻されてしまうのがオチだ。誰か位の高い人と結婚する……伝手も何もないので無理。
うんうん唸っているリーゼロッテを侍女が胡乱な目で見てきた。決して心配している顔ではない。結構長い付き合いの筈なのに彼女の名前も知らない。母が生きて居た頃には屋敷の人間とも仲良くしていたリーゼロッテだったが、継母の影響を受けたせいか、それとも忙しいからか、細かいところを気に留めることもなくなっていた。
ならば、物理的に地の果てまでも逃げればいいと閃いたのは、食事を終え侍女が片づけをして部屋を出て行った時だった。ほとぼりが冷めた頃にこっそりと戻って父の墓参りをしてもいい。国を出ることは無理かもしれないけれど辺境まで行くことは不可能では無い筈だ、とリーゼロッテは希望を見出した。
幸いにしてバイオリンは手元にある。道中稼ぐ手段になるかもしれない。楽譜は歌の物に紛れ込ませて本棚に仕舞い込んである。引き出しにしまってあるアクセサリーも換金する為に持っていこう。もとは父様のお金で買ったものだもの。残しておけば継母は自分の物で無いため遠慮なく売り飛ばすだろうから。
後はこの屋敷を抜け出す手段なんだけど……
歌のレッスンの先生が来るまで少し時間があるので何かいい方法は無いかと引っ張り出した楽譜を見る。
「これだ」
小人が出てくる童話の様な無邪気で軽やかな曲。以前確か十四歳で弾いた時は、四歳ほどの子供になってしまって父様を驚かせてしまった事があった。おそらく今弾けば十一歳の姿になる。体はどのくらい縮むだろうか。わざわざ子供服を取り寄せればばれてしまう可能性が高いので、手持ちの服で子供でも着れるように調整できるものをタンスの中から探し出す。丈を短く切ってひもで腰回りを結べば大丈夫だろう
……いつ逃げ出そうか。コンサートで外へ出た時?誰かしら見てるだろう。誰も見ていない時……なら、今しかないじゃない。
急いで荷物を纏めて出かける準備を整え服を着替えて、バイオリンを弾いた。肉体があちこち悲鳴を上げながら縮んでいく。
そしてリーゼロッテは、母が死んだ時と同じ十一歳の姿になった。
スカートのすそをハサミで切って膝下程度にする。バイオリンと詰め込んだ荷物を持って、扉の向こうを窺いながら部屋を出る。
一直線に玄関へと向かう途中で運悪く継母と遭遇してしまった。されど継母はリーゼロッテに気が付かない。
「なんでこの屋敷に汚らしい子供がいるのよ!とっとと出て行きなさい」
髪の色も瞳の色も変えておらず、ほぼこの姿の時に継母は家に来たのに汚らしい子供扱い。やはり継母は自分の事なんて見てなかったのだと、リーゼロッテは継母たちを見捨てる罪悪感も消え失せた。その内没落し、父の残したこの屋敷も人手に渡るだろう。思い出のたくさん詰まったこの屋敷を一度も振り返ることをせず、リーゼロッテは門を飛び出した。
換金する為のお店でアクセサリの一つを差し出せば、子供の姿にもかかわらず買い取ってくれた。却って怪しいと店主をじっと見ると、店主は笑いながら言った。
「今、お預かりしたものは一点物なのですよ、リーゼロッテ様。随分小さくなられておいでのようですが曲を弾いて幼くなった件について、あなたのお父様から以前に聞いた事がございますので」
ばれないと思ったのに名前を言い当てられて、しかも細かい事情まで知られ、顔から血の気が引いて行くのが分かる。町を出るまでもなく連れ戻されてしまうのは嫌だと、リーゼロッテはすがるように店主に言った。
「お願い、誰にも言わないで」
「ええ、あの継母から逃げ出すのでしょう?あなたのお母様には昔とても良くして頂きました。今こそ恩をお返しするときですから」
大丈夫ですよ、と優しい声を掛けられたリーゼロッテの目にはうっすらと涙が溜まってしまっている。
「行くあては決まっていますか?」
勢いだけで屋敷を出てきたリーゼロッテはぶんぶんと首を振った。店主は紙にさらさらと文章を書きしたためている。
「ならばフォレスタと言う街を目指すと良いでしょう。飛空船の発着場の三番窓口で切符を売っている女性にこの手紙を渡してください。私の娘なので取り計らってもらえると思います」
助けてもらえるなんて微塵も思っていなかったから、信じて良いものか迷うリーゼロッテ。継母の罠なのではないかと疑ってしまう。持ち上げて、突き落す。あの人のやりそうなことだとリーゼロッテは思った。
店主は運賃といくばくかのお金をリーゼロッテに渡す。
「おそらく手前の町で飛空船を下りることになるでしょうからそこから先はあなた次第です。お供することが出来なくてすみません」
「いえ、母を覚えて下さる方がいらっしゃっただけで嬉しいです。屋敷の者たちもまるでいなかったかのような扱いをしているので」
ここで時間を掛けるのは良策ではない、とりあえず気を付けながら発着場に行ってみようとリーゼロッテは礼を言った。
「お気を付けて」
三番窓口の女性に手紙を渡したら、難なく乗船できてしまう。それどころか日数がかかるからと窓口付近の売店で携帯食や水まで準備してもらい、店主に心の中で疑ってしまった事を謝るリーゼロッテだった。