一話
リーゼロッテが自室の窓から空を眺めれば、欠けた月がぽっかりと浮かんでいた。心身ともに疲れ果ててしまって美しいとも感じない。惜しげもなくカーテンを閉めて、自分の意識から存在を消した。
芸術の秋と言わんばかりに、毎晩のようにコンサートや夜会に招かれて歌を歌う。華やかな舞台、煌びやかなシャンデリア、着飾った観客たち。どれもこれも、もううんざりだとため息をつく。
忙しすぎて、自分の父親にも会えない状態が続いているのに、会いたくもない継母は義妹を連れて部屋に遠慮もなしに入ってきた。
十一の時に亡くなった母親譲りの赤紫の髪を厭う継母。自分と同じ金髪のかつらをつけている舞台衣装のままのリーゼロッテを見てにんまりと笑う。
「アデライード、あなたの結婚相手が決まったわ」
まるで歌う様に告げる継母。家でも外でも、彼女はリーゼロッテを自分が昔使っていた舞台名で呼ぶ。その事もあって、おそらくリーゼロッテを知る貴族や商人たちにはアデライードの方が通りがよくなってしまっている。
継母は歌姫と呼ばれていたころよりも年を取り容姿は少しばかり衰えたが、相変わらずふくよかな体を踊るように揺らしながら、反応を見ている。リーゼロッテはどうせ禄でもない相手なのだろうと予測を付けた。
「あの、まず婚約が先なのではないのですか?」
「そうね、でもお年を召した方だから早くしないと困るでしょう?」
そんな人が相手なのかとリーゼロッテは不快を示したつもりだが、継母は拒絶すると全く思っていない。傍で聞いている義理の妹も目を輝かせて「誰なの?母様」と聞いた。もうすでに二人で話して知っているのに、嘘くさい小芝居をする。
「聞いて驚きなさい。なんたってあのベクレムト伯なのだから」
「姉様凄い!国で一、二を争う程のお金持ちでしょう?」
―――だったらあなたが結婚すればいいのに。心にもないことを言う義妹にリーゼロッテは辟易した。伯爵は継母よりもかなり年上で、金で爵位を買った大富豪だ。奥様に先立たれ、老いてなおでっぷりと太った―――もとい、恰幅のいいおじいちゃん。
「でも、四十も年上……」
「だ・か・ら、良いのでしょう?早くくたばって遺産もらったらとっとと次を見つけられるじゃない」
とんでもない言葉に目を見開くリーゼロッテ。本音を隠そうともしない下品な継母は娘を売り物のように思っている金の亡者だ。歌姫として名を馳せて居た頃の金銭感覚が抜けていないのだろう。節約などは一切考えず、着飾る事と若さを保つことしか頭にない。
「待って、父様はなんて言っているの?」
……父様がそんなことを承諾するはずがない。既に二十歳を過ぎて、他の年ごろの娘と同じように社交界に携わることは出来ないが、仕事がら大勢の貴族や富豪を相手にする父様なら―――
リーゼロッテの父親を信じる意志の強い瞳を見て、継母はくすりと笑った。
「あらあら、あなたのお父様は三月ほど前に馬車の事故で亡くなってしまったでしょう?」
「……え?」
「あら、話していなかったかしら?葬儀もとうに終えたわよ。私の夫にふさわしい、小さいけれど立派な葬儀をね。ほら、あなた忙しいからきっと伝える暇もなかったのよ」
父親が死んだことを笑いながら告げられたので、初めは自分の聞き間違いかと思った。徐々に理解が追い付いて、事実を頭が受け入れる。
……父様が、亡くなった?舞台に出ている以上死に目に会えないのは仕方がないとしても、まさか葬式にすら出させてもらえないなんて思ってもみなかった。
「いいこと?あなたのお父様が死んだのだから、この先うちが傾いていく事は必至だわ。手段なんて選んでいられないの。我慢してちょうだいね。―――私の可愛いお人形さん」
最早、罵る気力もないリーゼロッテに継母は自分の利益しか考えていないような言葉を浴びせ続ける。
「どんどん年寄りのお金持ちと結婚して、私を楽にさせて頂戴」
「あなたを歌姫として育て上げたのは私なのだから、恩を返してもらわないと」
「そのうち声が出なくなるのだから、その前に嫁がないとね」
呆然としているリーゼロッテの耳に呪詛の用に纏わり付いてくる言葉。「嫁がないとね」の言葉が「稼がないとね」と聞こえる。誰も歌姫になりたいなんて言っていない。母様と同じバイオリンを弾きたかっただけ。
騒がしい二人が出て行った後も、動けないでいた。継母だけではない、思い返してみれば妹も、屋敷の者たちも、外で会う貴族や商人たちも、父が亡くなったことを悼むような言葉を私にかけることがなかった。
父親がほめるから、誇らしげに人に話すからずっとずっと我慢して歌を歌って来た。とても悲しくてとても虚しくて叫びたいほどの張り裂けそうな気持ちが喉まで出かかっているのに。
……涙の一滴も出ないなんて―――
就寝の支度をするために、侍女が部屋に入ってきた。一人では脱げないドレスを手伝ってもらい、湯あみをする。いつも黙々と作業を行う彼女に、今日だけは話しかけてみた。
「ねえ、父様が三か月も前に亡くなっていたって本当かしら?」
「……ええ、ご存じなかったのですか」
「そうよ、誰も教えてくれなかったもの。葬儀にも出ず、墓参りにもいかない私を皆は冷たい女だと思っているのでしょうね。それとも、馬鹿な女と笑っているのかしら」
様子を窺いながら話をするのだが、彼女は顔色一つ変えない。申し訳ありませんと謝ることもしない。淡々と作業を終えて部屋を出ようとする侍女に「待って」と声を掛けた。
「お願い、バイオリンを持ってきて頂戴。父様の為に曲を弾きたいの」
「かしこまりました。少々お待ちください」
意外にも要求は受け入れられて、しばらくしてドアをノックする音が響きケースごとバイオリンが差し出された。
「……有難う」
言葉に対しての返事はせず、明かりを消してそのまま部屋を出ていく彼女。決して意地悪ではなく一日を締めくくる最後の仕事なのだから仕方がないと、カーテンを開けて月明かりを部屋へ取り込んだ。
ケースを開ければ母の形見となってしまった懐かしいバイオリンがそこに有った。恐る恐る持ち上げて試に一音出してみれば明らかに狂った音が出てしまう。苦笑しながら調弦をしていく。声楽とバイオリンと言う違いは有れども毎日音楽に携わっているので、音叉が無くても耳は正しい音を導き出した。
母親を送ったのと同じ曲を、記憶を頼りにして弾いた。両親が生きていた頃は笑いの絶えない屋敷だったのに、今はひどく冷たい入れ物になってしまっている。
父様、遅くなってごめんなさい。どうか安らかにお眠りください。
弾き終えて、リーゼロッテは自分が涙を流していることに気付いた。




