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そして、二人は、キスをする。

 

 不思議な質問だと廉人は思った。

 でも、質問に質問を返しちゃだめだよなぁと思ってる廉人は、「どうしてそんな当たり前のこと聞くの?」と美月にはたずねることをせず、素直に答えた。


「うん、好きだよ」


 美月は目を見開いた。

 その顔が「びっくりしている顔」に見えた廉人は、ちょっと不安に思った。


「なんだよ、その顔。オレの気持ち疑ってたのかよ」

「え……疑うもなにも……なにも、聞いてな……」


 動揺して呟く美月に、廉人は確認するように言った。


「つきあってるだろう」

「……」

「つきあうのって、好きだからだろう」


 直球だった。

 強めのストライクが、美月の胸をぶち抜いた。

 廉人は中学に入ると小柄でスタミナ不足と言われてピッチャーに選ばれず内野手だったが、もともと少年の軟式野球ではピッチャーだったと昔聞いたことがある……そんな、ここではどうでもいいような情報が美月の頭の中を駆け巡っていく。

 

「……す、好きじゃなくてもつきあう人たちだって……」


 なんだか言い訳みたいにして、美月が言うと、廉人は眉を寄せた。


「オレ? そういうタイプと思う?」


 そう言われると、美月は口ごもった。そんな美月に、廉人はぎゅうぎゅう手を握ってきた。どうやら美月の本音を言えとでも言うように。


「廉人は……だ、誰とでも仲よくしていけるし、つきあうことだってできそうに思うけど……」

「そりゃ友達にはなるだろ」

「友達とカノジョは違う?」

「違うだろ。っていうか、美月は同じなのかよ?」


 問われて、美月は首を横に振った。

 違う。

 他の人にこんな風に手を握られたらいやだ。昨日みたいなキスだって、もし廉人以外からだったら、もっと傷ついた。

 美月が首を横に振ったまま黙っていると、廉人がぐいっと手をひっぱるようにしてきて、美月をのぞきこんだ。


「……あのさ、もしかして、昨日……怒ったのって、オレの気持ちわからなかったから?」


 まっすぐに見つめられて、美月はごまかせず、頷いた。


「突然だから、戸惑って怒ってたんじゃないの?」

「……そ、それも少しあるけど……」

「教室だから、嫌で怒ってたわけでもないの?」

「きょ、教室はそういうことするとこじゃないと思ってるけど……」


 美月が答えると、廉人は一度、眉を寄せた。それから、声を小さくして言った。


「……オレとそういうことしたのがイヤで、哀しかったわけじゃない?」 


 ハッとして美月は廉人を見た。

 廉人が美月の表情を少しも見逃さないというようにじっと見つめてきていた。黒い瞳、案外長いまつげ。


「……イヤじゃ……なかったよ」


 そう返事するのが美月には精一杯だった。

 廉人の表情だけで、昨日、廉人を振り切ってしまったことが、廉人のことを嫌がったと伝えてしまっていたとわかったから。

 美月は一度息をのんでから言った。


「……好きって……好きって言って欲しかったの。廉人が私のことを好きでいてくれるってわかってから……キスしたかったの」


 言って、恥ずかしくなって、美月はうつむいた。

 そのとき、半歩、廉人が美月に近づいた。落ち葉を踏む音が小さく響く。

 

「……美月、好きだよ」


 廉人の、丁寧なひとつひとつ慈しむような声が美月に注いだ。

 美月はさきほどより近くなった廉人を見上げた。

 廉人も美月を見つめていて、その黒い瞳に吸い込まれるかと美月は思った。

 真剣なまなざし、いつも白球にむかっていた瞳が、今、自分に向けられているのだと感じた。美月は、彼がグローブですっぽりと落ちて来る白球をつかむように、今、自分自分が掴まれているような気がした。

 廉人という人間に、つかまれて、包まれて。

 好きだと囁かれて。


 ……私みたいな子、本当に好きになってもらえるの?


 なんて自信のない気持ちも、全部押し流されてゆくようだった。廉人のこの言葉を信じたいと美月は思えた。

 つながれた右手、その指先に力をこめて廉人の手を握りかえした。


「私も好きだよ」


 そう返した。

 すると、廉人は頷いた。


「うん、知ってる」

「何それ」


 廉人の返答に美月が思わず呆れた表情と声になると、廉人は笑った。


「だって、先月、言ってくれただろ? 美月、嘘つかないだろ。そこは信用してるし」


 美月は驚き、廉人の顔を見返した。そうして、裏表ない廉人のあっけらかんとした明るさがまぶしくなって、目を細めるような気持ちになった。

 子どもみたいに純粋に美月に笑顔を見せる廉人。それを前にして、美月は自分の女としてのずるさとか弱さとか、焦って告白したこととか、そういう全部が恥ずかしく思ったのだ。

 でも同時に、恥ずかしくても、やっぱり廉人の隣にいるのは自分でいたいと願う。


「……信用してくれてありがとう」

「うん。オレの気持ちも信じてくれた?」

「……うん」


 それだけを返事すると、廉人がちょっとだけ顔を寄せてきた。

 思わず美月が一歩下がろうとすると、廉人の眉がハの字になった。


「美月……やっぱ怖がってるだろ。突然しねぇよ」

「何が……」

「ちゃんと確認してからするから。オレ、学習能力あるから!……美月、キスしていい?」


 たずねられて、返事に困った。

 うつむいたまま黙ってると、突然、廉人のおでこがゴツンと美月のおでこに当てられた。


「痛い!」

「遅い!」


 顔をあげると、廉人の真っ赤な顔と対面することになった。返事を待ってくれてて、真っ赤になったみたいだった。

 その顔を見て、美月は、むしょうに廉人のことがすごくすごく愛おしく思った。

 ……素直になろう。キスしたいのは、たぶん、廉人だけじゃない。


「……いいよ」


 美月はそう囁いて、目を瞑って返事にした。

 握られていた右手が引き寄せられる。

 身を任せると、そのまま、美月の唇に柔らかな感触が落ちてきた。


 一度。ふうわりと重なって。廉人が好きなストロベリーミントのタブレットの香りがほんのかすかに過ぎていった。

 それからもう一度、唇を押しつけられた。あっと息をするまもなく、角度が変わって、今度は唇をたべるみたいに口づけされた。

 啄ばまれて、美月が咄嗟に目を開けたら、目を閉じた廉人の長いまつげとそして彼の肩の向こうに、秋の日差しに輝く銀杏が美月の目にうつった。

 

 秋晴れの青い空に、黄金色の銀杏の木。

 つづく白壁、苔むす石畳。

 ゆうるり舞い散る、色づく木の葉。

 

 耳に感じる衣擦れの音。

 自分は食べないミントタブレットの香りが共有されて。

 握られた手の熱さを忘れてしまうくらいの……触れた唇のなまめかしいぬるさ。

 

 それらが全部美月の中に入ってきた。


 美月は今を封じこめるみたいにして、目を閉じた。


 ……きっと、忘れない。忘れたくない。

 

 昨日の、秋の夕日差し込む砂埃の匂いが微かに残る教室の、風が通り過ぎるような初めてのキスも。

 秋の木の実を啄ばむ小鳥みたいな、キスも。


 廉人との時間を全部。

  

 

 ……大好き。



 美月の目じりには、理由もなく、涙が浮かんでいた。




 

 ***




「あのね、廉人君、俺は勉強を教えに来てるんですけどね。一昨日、ぜーんぜん、進まなかったから、今日は特別枠で来たわけですよ。それでも、なんにも進まないってどうなの」


 ペンでツンツンと頭をつつかれて、廉人は自分の頬をさすりながら、


「ごめん、先生。ニマニマして、俺、超やばい」


と、あわてて素直にテキストに向かいだした。

 ……だが、すぐにシャーペンが止まる。


「先生……やっぱり、女の子はさ、思いが通じるってのが、大切なんだな」

「あのね、だから俺は英語と数学を教えに来てるんであって、恋話の相手なわけじゃなくてね」

「……先生のおかげかも。ちょっとは、前より、なんていうか、美月の気持ち待てたかな……どうかな」


 ニマニマ。

 にまにま。

 純粋に、ゆるんだ笑顔を向けられて、廉人の家庭教師はため息をついた。


「そういう顔になれてるってことは、お互いうまくいったってことでしょ」

「うん」

「で、サルみたいにがっつかずに、相手の女の子とペース合わせられた、と」

「うーん、よくわかんないけど、がっついてはいないはず……。あ、でも、サルってキスするのかな?」

「知りません」

 

 家庭教師のつれない返事にもめげることなく、廉人はまたにまにまして言った。


「……オレさ、先生ほどロマンチックにはできないだろうけどさ、でも、オレもなんか泣きそうなほどやばいほど嬉しかった」

「ふぅん?」

「でも、まずいなぁ」

「何が?」

「キスでこんなに気持ちよかったらさ、嬉しかったらさ……いろいろ、欲深くなりそうな自分がいてさ。先生は、キスした後、次とかどうしようとか思わなかった」


 廉人がそういうと、家庭教師は、今日何度めかと数えられないため息をついた。


「俺は恋愛相談に来てるわけじゃないっ」

「そこをなんとか! 先生の経験談がオレの道を拓く」

「……あのなぁ。恋愛なんて、結局、自分自身ですったもんだするしかないだろ」


 呆れ顔をしつつ、家庭教師はしばし考えた後、廉人の肩をぽんと軽く叩いた。


「そうだ、悩める廉人君に、さらに問題をあげよう。……好きな子にずっと好きでいてもらえるのって、どうすればいいでしょう?」

「え?」


 廉人は戸惑った。

 そして答えを見つけられず、眉をハの字にした。


「……好きでいてもらうって……んなこと言っても、相手の気持ちだろぅ……」

「そうだよ。すべてに限界がある。……だから、精一杯大切にするしかない」

「……」

「それでも状況がいろいろあって、別れが来る時は来る。こちらがいくら、相手を好きでも、だ」

「せ、ん、せ……」

「でも、続くときは続く。熱愛の場合も、惰性とか腐れ縁という場合もあるけど、な」

「惰性……腐れ縁……」

 

 さらっと厳しいことを言ったかと思うと、家庭教師はにんまりと笑った。


「そう、だから、すべて、今、現在、頑張るしかないぞ? 廉人が脳みそキスに蕩けてる間に、カノジョの前に、お前より数倍いい男が現れてるかもしれないからな。こんな基礎問題も解けないアホとは”別れたい”とか言われたらどうする、廉人?」

「なっ……」

「ほら、がんばれ、”性”少年! ほら、あと十問!」


 ガシガシと髪の毛をかきまわされて、廉人は「うへぇっ」と言いながら、テキストに向かい始めた。

 

 家庭教師はそんな焦り顔の廉人の横で、くるくるっとペンを回した。

 そうしながら、考える。

 一年前までは、坊主頭で、こうやってガシガシとかきまわす「髪」もなかった野球少年が、こうしてひとつひとつ恋愛の階段をのぼっていく。

 

 それは全然、特別なことじゃないかもしれない。

 世の中からみれば、なんにもドラマチックではないのかもしれない。


 だけど、きっと。

 当人達にとっては、心に残る出来事だったに違いない。

 ささやかにすれ違うことも、触れ合うことも、その感触も、初めての他者の温度も味も匂いも。

 全部きっと、宝物のような記憶。

 

 


 目の前の生徒は、その生涯、きっと振り返るたびに、この数日のことを、そのカノジョとのあれこれを、切なさときらきらした淡い輝きをもって見返すことになるんだろう。


 願わくば、その二人の姿がずっと微笑ましく続いてゆきますように――……。



 恋の未来はいつだってわからないけれど。

 そんなことはわかりつつも、家庭教師は生徒とカノジョさんの未来が明るいものであることを願ったのだった。


 

 fin.

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