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だって、

***



 自宅の学習机、広げたテキストの上に顔を伏せた。


「女心、オレ、わかりませーん」


 そんな風に泣きごとを言う廉人の頭をわしゃわしゃとかき混ぜるのは、家庭教師の大学院生の大きな手のひら。


「男心ならわかんの?」

「そりゃ……オレ、男だし」


 拗ねるように言う廉人に、家庭教師は笑いながら言う。


「じゃ、俺の心、読んでみろよ?」


 しばし漂う沈黙。

 すぐに弱々しい声を出したのは廉人だった。

 

「……すみません、わかりません」


 素直に敗北をみとめて頬杖つく廉人の頭をもう一度わしゃわしゃかき交ぜた家庭教師は、廉人の隣に置かれたパイプ椅子に座りなおした。


「だろ? 結局、他人の気持ちなんて、わからないよ。ただ、わからないからって想像しないのか、想像する余地があるかどうか、自分しだいじゃないのかって、俺は思ってるんだけど」

「う……まさに、おっしゃる通りです。というか、オレ、正直、あの場で美月がオレとキスしたいと思ってるかどうかなんて考える余裕ありませんでしたーっ」

「なに、キスしたいしか考えてなかったの? 性欲魔人?」


 家庭教師の言葉に、廉人は血相を変える。


「なっ……そ、そこまであからさまじゃねーよっ……」

「そう? 高1なんて、そういうもんじゃないの?」

「え、あ……うん、美月の唇しか見えてなかったのはたしかかも」


 そこまで言って、廉人はまた落ち込むように机の上のテキストに顔を伏せた。

 そんな生徒に、勉強を促すわけでもなく家庭教師はプラプラとペン回しをしながら言った。


「ふぅん、だから落ち込んでるの? それとも、これがこじれて別れたりしたらって不安とか?」

「うーん。きっとさ、変な自信だけどさ、美月とは仲直りできるんだと思うんだ……」

「自信家だね?」

「だって、考え方違ったくらいで離れてしまいたくないし……。そんなやわな関係じゃないって信じたいし。友達の期間長かった分さ、信頼度もあるっていうか」

「ふぅん?」

「でもさ……仲直りしても、結局、このまんまじゃ”恋人”としては堂々巡りだろうなって……」

「”恋人として”って、どういう意味」

「うーん、美月とオレの、相手に触れたい気持ちの度合いが違うからさ。堂々巡り。オレがおいかけて、美月が逃げて……みたいな図式になりそうで怖い」


 廉人のつぶやきに、となりの家庭教師はくすっと笑った。

 伏せた顔を少しだけあげて、横にすわっている家庭教師を見上げる。

 その口元に浮かぶ笑みは、決して廉人をあざ笑う感じではない。そういうのは知っている。なんていうか「弟」という感じで見るのだ。廉人は年の離れた妹しかおらず、こういう兄弟の雰囲気はよくわからないが、すくなくとも廉人にとっては7,8歳は年上になるはずの”先生”は、妙に今の廉人からすると大人に見えた。


「堂々巡りねぇ……。かわいいねー、廉人くん。美月ちゃんとキスしたくって、無我夢中だったんだ? それを押し付けて、泣かせちゃったんだ?」

 

 聞き捨てならない軽口が落とされた。


「泣いてない、美月はっ! 泣かせてねぇよ!」


 咄嗟に廉人は言い返す。

 けれどそんな廉人を軽くいなすように、家庭教師の”先生”は言った。


「心では泣いてたんじゃない?」


 ……痛いところを突かれた廉人は黙った。

 

 そうなのだ。

 廉人が落ち込んでいるのは。

 美月がああやって怒った顔を必死に保つのは……すごく悲しい時が多いからだ。

 美月は泣かない。

 悲しいときに悲しそうな顔をしない。

 まるで悲しくて涙を流すことを、怒った顔で覆い隠すようにして、いつにない刺々しい言葉や態度をとる。

 泣きたいときに。

  

 だから、廉人は今、落ち込んでいる。

 

 美月を悲しませた。

 おそらく、自分のキスが。

 でも、何が悪かったのか、わかるようでわからない。

 突然なことが?教室って場所が?それとも、オレがはじめてなのが、嫌だったとか……。つきあってるのに?

 

 廉人はぐるぐるした気持ちのまま、となりの先生に尋ねた。難問にぶちあたって、解答がみつからなくて、とにかく行き当たりばったりでもいいから答えの手がかりになるものを探すみたいにして。


「先生はさ、キスした後、相手にさ、怒られたり泣かれたりしたことある?」

「ん……それはないかなぁ……」


 先生の返答に、廉人はため息をついた。

 答えは無さそうだった。


「だよなぁ。オレも……もっと幸せになれるんだと思ってた」

「幸せねぇ」


 ふたりとも黙った。

 家庭教師のペン回しの音がくるくると小さく鳴っている。

 しばらくした頃、ペンを回しながら遠い目をしていた家庭教師がふいに言った。

 

「俺の場合はさ、実は俺の方が泣きそうになったんだよね」

「え?」


 廉人は顔をあげた。

 あまりに思わぬ言葉が、大人の先生からこぼれたから。


「先生が……泣きそう?」


 家庭教師は、廉人の方を向かなかった。見つめる宙に、過去をさがすみたいにして、目を細めていた。

 まるで何かを慈しむように。

 宝箱を開けるように。

 廉人は、ちょっと息をのんだ。

 今、もしかしたら、自分は、この先生の大切な記憶を打ち明けてもらってるのかもしれないと、直観的に感じたから。


「うん。……初めてのキスでさ。さすがに泣かなかったけど、泣きそうな気持ちだった。相手、後輩だったし……メンツあるし、涙こらえてた。でも、涙でそうだった。嬉しさとかドキドキとか、あと相手のことがすごく抱きしめたいのに唇だけなことの切なさとか……あれ、なんだったんだろうな」

「……」

「今覚えば、お互いすごくオクテでさぁ……。きっと廉人が聞いたら笑うよ。すっごい純情なおつきあい。だって、すごく真面目な後輩の女の子で、派手さのかけらもない子で。俺も当時、優等生で」

 

 ちょっと自嘲的な笑いをうかべたけど、やはり廉人の方はみなかった。家庭教師はそのまま言葉を続けていく。


「でも、実は俺の中で当時、焦りもあってさ。周囲とか、キスもまだなのかってせっつくし……。当時、モテてた友達なんかさ、手を出さない方が女の子が傷つくとか言い始めるし。そんなの聞くと、もしかしてカノジョも、二人っきりになってもなんにも手出しできない俺のこと、もしかして臆病者と思ってないかなって心配になったりさ……」


 ぽつぽつと話される姿。

 きっとその話されている年ころは今の廉人自身と同じような年代のはずで。自分のことのように、家庭教師の話が伝わってくる。 


「なんか、どうやって近づいていけばいいのか、もう考えるのすら、いろいろすげぇ負担になったりして。でももちろん欲はあるしね。そんな悶々としてたときに、ちょうど夏だったな……二人で学校の花壇の整理をすることがあってさ、相手の子の表情に吸い寄せられるような気持ちになって、なんか「今」だって思えて、自然にキスできたんだよなぁ……あの時は、本当に、純粋に……泣きそうになった」


 そこで言葉が止まった。

 廉人はうずうずして、つい聞いてしまった。


「その人とは?」


 すると、はじめて家庭教師は廉人の方を向いた。いつものとおり穏やかな笑みを浮かばせて。


「結局、遠恋の末、別れたよ」

「……そ、そっか……」


 悪いコトを聞いてしまったと戸惑う廉人に、家庭教師は廉人の戸惑いすら汲むような落ち着いた声で言った。


「別れたんだけどね、不思議とさ、ひとつひとつ綺麗な思い出で残ってるんだよ。初恋って、綺麗な記憶で残るのかな」

「初恋だった? それ中高生のとき?」

「ん、高校生。笑うなよ、オクテだって言ったろ? なんていうか、俺さ、高校にはいる頃まで、恋愛に興味なかったんだ。第二次性徴も遅かった方でさ……なんか、全部がどっか遠くの出来事って気がしてた。……あの子と出会って、何か少しずつ変わっていって……俺のたぶんそういうゆっくりしたペースも含めて、受け入れてもらえたんだろうなって思う」

「受け入れてもらえた?」

「うん、そう。受け入れて、受け入れられてっていうか。……俺もあの子のことを大切にしたいと願ってたし、彼女も俺をあの時の精一杯で大切にしてくれてたんだろうなって気付いたよ。そういうのって、時間がたってからさらによくわかる気がするよ。あぁ、あの時間はすごく貴重なことだったって」


 年上の男の話がすごく切なく聞こえてきて、廉人は踏み込んでると思いつつ尋ねてしまった。


「ふ、復縁とかないの?」

「……うーん、手放すべきじゃなかったって思うけどね……でも、掘り返したくない、大切な記憶にしておきたい部分なんだよな……聖域、みたいな」


 廉人はなんともいえない気持ちになった。

 寂しい話にも聞こえて。

 でも、泣きそうなくらい大切なキスができた家庭教師が、うらやましくて。そんな綺麗な「ファーストキス」が妬ましいような気持ちすらして。

 同時に、美月がそういうせつなくなるような想い出が欲しかったんなら、自分はそれを用意してあげられなかったっていう不甲斐なさもあって。

 廉人の気持ちは一つにまとまることなく、そのままぽつんと思うがままに呟きに吐きだされた。 


「……先生みたいな男を、美月は望んでんのかな。綺麗な思い出を共有できる人」

「違うだろ。つきあってるのは廉人だし」

「そうだけど……」

「そもそも一カ月前、女の子の方から告白してもらえたんだろ? 廉人さ、むっちゃはしゃいでたじゃないか? ずっと好きだった、片思いと思ってた子に告白されたって。興奮しまくりで、英語のテキスト一問も進まなかったのは、一か月前くらいのことだったよな?」


 ぐりぐりとペンの後ろで頭のツボを押されて廉人はうめいた。一か月前は英語。そして今日は数学のテキストが全然進んでいない。

 廉人はまたもやテキストに突っ伏した。


「オレ、告白されたけどさぁ……。今は、もう自信ゼロ。愛想尽かされてる気しかしない。そもそも……そんな綺麗な思い出つみあげていける自信ない。ぜったい美月に、呆れられていきそう」

「サルみたいにガッツきたいわけ?」

「そうじゃなくてさ! そりゃ、そういう欲求はあるかもしれないけどさ! オレ、人でありたいし! サルってわけじゃなくて……美月の希望に沿ってあげられないって意味で!」

「……悩んでるってだけで、人間らしいと俺は思うよ」


 家庭教師の返答に廉人は息をついた。


「美月にさ、”キスくらい”って言っちゃったけどさ、オレ、そんな風に軽く思ってたわけじゃないんだ」

「うん?」

「けど……先生の話聞いてて思った。やっぱりさ、オレも、心のどっかで、焦りがあったんだろうなぁ。周りもけっこう、経験増えていってるし、遅れをとりたくない……みたいなさ。それに、寝るってわけじゃないし……これくらいなら、いいだろ?みたいな気持ち、やっぱりあったんだろーな」

「ま、周囲は煽るやつはあおるしね」

「ん……でも、結局オレ自身が弱かったっていうか。美月より、自分のメンツや焦りを優先しちまったんだろうなぁって。美月はきっと、まだそういうの……先生が言うみたいに”オクテ”だったのかもしんないし、今日のは突然すぎて怖かったのかもしれないし」


 廉人はそう言いながら、目を閉じた。


「……だけど、怖いのはさ。今、オレ、反省してるんだけどさぁ……。けど、やっぱり、これからも、あぁやって、好きな女を目の前にして、すぐ手をのばしたら手に入るみたいなところにいてさ、しかもその子の表情は、オレを受け入れてるみたいな優しくて可愛い表情してたらさ……やっぱり、また暴走しちゃうんじゃないかって」

「不安?」

「うん。……暴走する自分も、泣かせてしまうことも、怖いし、不安」


 弱々しくそう言った廉人の背を、家庭教師はツンとペンでつついた。


「それ、俺にじゃなくて、美月ちゃんに言ったら?」


 廉人はしばらく黙る。

 家庭教師が、返事を催促するように、再びペンでツンツンする。

 すると廉人は大きく息をついた。


「……かっこわるくて、無理」


 腹の底から言い放ったような本音の言葉に、家庭教師は破顔したのだった。

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