どうして?
秋の夕暮れ、校庭の脇に並ぶ銀杏の葉は黄色になりつつある。ときどき風のいたずらでちらちらと黄色の葉が校庭へと舞い落ちる。
黄色の葉で彩られた道を、学校帰りの生徒や部活動の片づけの生徒達がそれぞれの足取りで歩いてゆく。
その銀杏並木がよく見える三階の教室はすでにがらんどう。
たった二つの人影だけが窓辺の席に並ぶのみだった。
窓から差し込む穏やかで柔らかい日差しを受ける整列した机。その窓際近くの席で日誌を書いている女子生徒と、その隣で机にこしかける部活ジャージ姿の男子生徒。
そこは、日直で居残りになった、二人だけの教室。
「部活終わるの待たせてごめん」
「いいよ、私も体育委員の倉庫片づけとかやることあったし」
「これ終わったら……一緒に帰ろう」
「……うん」
二人の間に沈黙が落ちる。
ただ、女子生徒がシャーペンを走らせる音と窓の向こうのサッカー部の歓声だけが、広い教室にかすかに響いている。
しばらく静かだった二人だが、ふいに女子生徒が顔を上げた。
「谷崎、日直感想欄、私が埋めちゃっていい? 谷崎も何か書くことある?」
鈴の鳴るような朗らかな声が響いた。
隣で行儀悪く机に腰掛ける男子生徒を見上げる女子生徒に、男子生徒は即答しなかった。
その沈黙に、いぶかしげに女子生徒は小さく小首をかしげた。
すると、男子生徒が小さく口をひらいた。
「……廉人って呼べよ」
ぼそりと呟かれた言葉に、女子生徒が目を見開く。
「ここ教室でしょ……」
男子生徒のずれた返答、ずれた要望に、呆れたような表情を作りつつも、女子生徒の頬は赤くなった。
男子生徒は重ねて言う。
「オレらだけだし、いいだろ?」
砕けた口調。いつにない甘えた雰囲気に、
「もう……仕方ないなぁ」
「呼んでよ」
「……廉人。……これでいい?」
はにかむような小さな声が、男子生徒の名を呼んだ。
その瞬間、廉人と呼ばれた男子生徒の頬がほんのり赤くなったことを、すぐに手元の日誌に目を向けてしまった女子生徒は見逃した。
うつむいた女子生徒を追うようにして、今度は廉人が女子生徒を呼んだ。
「美月」
名前で呼ばれた女子生徒――谷本美月の手元が震える。
「……美月」
繰り返し呼ばれて、美月は照れたように顔をあげた。
「なあに? 何度もよば……っ!」
それはほんの一瞬。
オレンジ色に染まる夕暮れの教室、重なる二つの影。
不自然に身体をまげて、近づかせたことによる、制服の衣擦れの音。
窓からの淡い夕暮れの日差しに照らされるのは、制服ブレザーとプリーツスカートを覆ってしまう、学年カラーのブルーラインが入ったジャージの背中。
息をのむ気配。
教室は静かだというのに、ガラス窓の向こうから響いてくるのは、サッカー部のホイッスルや部員達の怒号。
直後、バサバサっというノートが落ちる音と、シャーペンが転がってゆく音が静けさを破った。
「なっ……」
のけぞるようにして、ガタリと椅子を鳴らしたのは女子生徒だった。そこからすっと身を引くようにして立ちあがった男子生徒は、
「落とすなよ……」
そんな風に呟いて、照れた顔を隠すかのようにして、あえてうつむくようにして床に手を伸ばた。
廉人はバクバクと打つ胸の動悸を落ちつかせるようにして、わざとゆっくりと落ちたノートとペンを拾い、ノートの埃をはらうような仕草をとった。そして、座席に座ったまま硬直している女子生徒……カノジョである美月に、拾ったそれらを差し出した。
だが出されたそれを、美月は受け取らなかった。
「美月?」
思わずカノジョの名を呼ぶ。そんな廉人に、美月が早口で言った。
「はじめてだったのにっ」
抗議するみたいな言葉に、廉人は目を見開く。さっき唇に感じた幸せな温もりがふっとぶ衝撃。
美月の目がキッと睨むように廉人に向けられており、その顔は明らかに怒っていた。
廉人は、動揺しつつも尋ねた。
「……オレもだよ。何、怒ってんの?」
だが、その問いかけが逆に美月の神経を逆なでたようで、美月がさらに声を尖らした。
「お、お、怒ってるわけじゃっ……ない、けど。でも、ど、どうして?どうして……」
「どうしてって……したかったから……」
「したかったら、するの?」
美月の言葉に、どうして美月が怒っているのかわからないままに、廉人は答えた。
「つきあって、一か月たつし……その、いいかなって」
「いいかなって、何……」
「え……頃合いかな、とか思って」
「頃合いってどういう意味よ」
「つきあいはじめたの、たしか、前に二人で日直した放課後だっただろ?……日直も一巡りしたんだな……とか思って……」
「……」
美月は黙ってしまった。
不安になった廉人はたずねた。
「そんなにいやだった?」
「……いやじゃ……ない、けど、なんか……こんな突然……」
美月が眉を寄せて、こちらを睨んでくる。
カノジョの言葉と表情に、さらに廉人はわけがわからなり、小首を傾げた。
「突然って……でも、キスくらいで前もって予定立てとかないだろ?」
……”泊まり”なわけじゃないし……。
と思ったが、廉人はその言葉を続けられなかった。
自分と美月の間が一瞬凍るような冷えた空気が流れたから。
「いま、『キスくらい』って言った。……それ、本音、でたよね」
「え……」
ズンっと低くなった美月の声音。
「そっか、廉人にとってファーストキスでも、所詮”キスくらい”なんだ」
「……え、いや」
「……男って、その”先々のこと”がメインで……唇が触れあうくらい、どうでもいいの?」
「そんなことないけど……」
しどろもどろに答える廉人の前で、美月は唇を噛むようにして目を伏せた。
廉人はその表情にむしょうに悲しくなった。
唇を噛んでいる姿は、さっき微かに触れ合った唇を、消し去りたいとでも思っているように映ったのだ。
つい先ほど、ふわりと重なった、あたたかな感触。
廉人にとってかなり思い切った行動だったが、その瞬間は「成功した!」なんて思った「出来事」。心がパアァッてまいあがったぬくもり。
それらが、ぎゅっと拒むみたいに噛みしめられて、つぶされてしまうみたいで。
二人の間に沈黙が落ちた。
だが、黙りこくった二人の上、教室の天井スピーカーが放送スイッチが入ったようでウィーンと唸った。次いで、放送部員による帰宅を促す放送アナウンスが流れる。
それを合図にしたみたいに、美月は噛みしめていた口を開いた。
「……私、帰る」
美月は立ちあがり、廉人に背を向けた。
「え、ちょっと待てよ、美月!」
「……今日、廉人もカテキョーの日でしょ? 私、一人で帰りたいし、ここで、バイバイ! 日誌、出しといて」
「待てよ!」
「嫌!」
そう背中を向けたまま言って、美月は通学鞄を抱え込むと、いっきに走り去っていってしまった。
残された廉人は、日誌を手にしたまま、ただ、茫然とそこに立ちつくしていた。