日めくりカレンダー
今日は誕生日、目覚めると同時にため息など吐いてしまう。
何故ってそりゃ、予定なんぞ皆無な上に今日が俺の誕生日ってのを知ってる人さえいないからだ。
高校に通い始めて一人暮らしをしたのが間違いだった?
いやいや、そこは間違いではない。実家暮らしってのは炊事も洗濯も掃除も必要ないが、親の過干渉ってのが非常に鬱陶しい。
ご飯の度に野菜を食べなさい。
ん、そりゃ分かる。分かるが十数年間も一緒に生活しておいて、食事の度に言う必要はあるだろうか?
こちとら分かってるし食卓に出ている野菜だって食べるつもりだった。それなのに小言めいた口調で食べなさいと指摘されると食欲さえ失せるってなものだ。部屋の掃除だって自分でやると主張しているのに、勝手に片付けられてたりする。
一人暮らしを始めて、そういった面倒ごとから解放されたのは喜ばしい。
無論、今日は誕生日ねと言われたりケーキを買ってこられたりプレゼントを用意されたりってのも、子供の頃ならまだしも、今となっては面倒ごとだ。
だから一人暮らしを始めたのは間違いじゃない。
ただ少しばかり、あー今日は俺の誕生日だなあ、でも誰もそれを口にしたりはしないなあって現実が物悲しく、うら寂しく、ついついため息を吐いてしまうだけだ。
はあ、とため息を吐いてベッドから起き上がり日めくりカレンダーの前に立つ。
手のひらサイズ、長方形の日めくりカレンダーは昨日の日付を示している。
まだ起きたばかり、俺にとって今日が始まったのは今しがたなので当然だろう。まさか日めくりカレンダーを寝る前に破り、明日に備える人なんていないはずだ。日めくりカレンダーってのは一日の始まりに昨日の分を破り捨て、今日の日付に変えるはずだ。
んーっと、だよな?
俺が根本的に間違えているってことはないよな?
欠伸を噛み殺し、日めくりカレンダーをつまむ。一枚をつまみ、持ち上げて力任せに破り取れば、今日の日付が露になる――はずだったが、誤った。
うっかりと、昨日の分一枚を破り取るつもりだったが二枚を破り取ってしまった。
ああ、俺の誕生日を示す日までが破り取られてしまった。
んと……まあ、いっか。
まあ、別にいい。
一人暮らしをする際、何となくカレンダーなるものが必要かなと思い立って日めくりカレンダーを壁に掛けていただけで、実質的に使ってはいない。携帯電話の壁紙はカレンダーだし、パソコンのデスクトップにもカレンダーを常時表示させている。
うっかりと余分に破り取ってしまったからといって何の不自由もない。
二枚の日めくりカレンダーを丸め、ゴミ箱に放る。
さーて、今日も一日、しがない学校生活を送るとしよう。
その日、不可思議な体験をした。
どのような生活を送って都度何が不可思議だったのかを述べるのは非常にめんどくさいので結果だけを記せば、以下のようなことが起こった。
本日は三月十七日、それなのに登校すれば黒板には三月十八日と記されていた。
本日は火曜日、それなのに水曜日の授業が行われた(そのせいで忘れ物が多発してしまった)。
家に帰って携帯電話を開けば母からのメールが届いていた。内容は「誕生日、おめでとう。プレゼント、送ってるから受け取ってね」だったのだが、そのメールは三月十七日に届いていた。
携帯電話のカレンダーは本日を三月十八日と示していた。
パソコンのカレンダーも本日を三月十八日と示していた。
えーっと、つまり?
俺にとっては三月十七日のはずなのに世間一般、というか携帯電話もパソコンも三月十八日と主張していた。
三月十七日がすっ飛んだ。
ん? え? どこに行っちゃったの、三月十七日。
日付を確認すれば、ありとあらゆる媒体が今日は三月十八日だと告げている。ただ俺だけが、今日は俺の誕生日、三月十七日だと認識している。
この齟齬は一体何だ?
非常にあたふたとしたのは言うまでもない。目覚めた瞬間に今日は何日だっけと曖昧になるのはまだしも、今日は何日だっけと確認してからも日付に対して齟齬を感じているのはおかしいだろう。
まさか一日分の記憶が消えた?
誰にも祝福されない誕生日に嫌気が差す余り、三月十七日の記憶を消してしまった?
いやいや、それはいくらなんでも自嘲に過ぎる。
十六年間を生きてきた自身を信じるならば、突発的に三月十七日が消えてしまったというのが正しい。
さて、では消えた三月十七日はどこに行ったのだろう?
ぱっと消え、俺は三月十七日の一切何もかもを覚えていない?
この疑問にも試行錯誤したのだが、結論は以下の通りだ。
三月十七日は存在した、しかし俺は覚えていない。
根拠となるものは授業に使うノートだ。国語や数学といった科目によってノートを使い分けているのだが、それらのノートを見返す限り、俺は三月十七日の授業を受けている。
メールにしてもそうだ。
俺は三月十七日、母からのメールを受け取っている。尚且つ、返信をしている。
履歴を見れば判然とする。
「ああ、あんがと」
三月十七日、母からのメールに対して俺が返信をしているのだ。
そうして考えてみると三月十七日は確かに存在していたのだけど、何故か俺の記憶には残っていないという結論に至る。
はてさて、何故か?
色々と考えに考えた末、行き着いたのは日めくりカレンダーだった。
あ、そういえば今朝、うっかりと三月十七日を破ってしまったな、と。
掴み所のない現象に対して馬鹿げていようが何かしらの懸念点を抱いたのなら、後は試してみるだけだ。
その日から俺の実験が始まり、結果はあっさりと得られた。
日めくりカレンダーを過剰に破れば日にちがすっ飛ぶ。
いやはや、何と不可思議な現象だろう。
朝、目覚めて日めくりカレンダーをめくる。この際、過剰に破り取れば、破り取った日が俺の記憶からすっ飛んでしまう。
すっ飛ばされた日は俺が覚えていないだけで、誰しもが経験している。
母もクラスメイトも誰も彼も、すっ飛ばされた日のことはしっかりと経験し、記憶に残っている。
ただし、俺だけが経験はしているものの覚えていない。
何故に俺の記憶だけがないのか、考えたところで結論は出ないので推論に頼るしかない。そして推論を述べるとするならば、それは日にちをすっ飛ばした因業故だ。
日めくりカレンダーを過剰に破ることで日にちをすっ飛ばせるってのがそもそもの変てこな現象ではあるのだが、それを俺が引き起こすからこそ、俺からはすっ飛ばした日にちの記憶がすっぽ抜かれてしまう。
ううん。
ううん、確証はないにしろ現象への説明はついたとして、だからどうした? 果たして日にちをすっ飛ばすことに利点って存在するのか?
くっくっく。
あっはっはっは。
眠る直前、枕に笑い声を叩きつける。
利点は、存在する。
すっ飛ばした日にちを、俺は覚えていないのだ。それってのはつまり、誕生日然りバレンタインデーからホワイトデー、クリスマスにクリスマスイブ、日直の日に文化祭、体育祭、ありとあらゆる面倒くさい日を記憶できずに経験できるのだ。
今日は日直かー、めんどくせー。
あ、すっ飛ばそう。
朝、目覚めて日めくりカレンダーを過剰に破れば、日直の日をすっ飛ばせる。何があったのかは知る由もなく、その日を経験しつつ覚えていない。
すっばらしいじゃないか。
神が与えし特権行為だ。
今日は体育祭かー、めんどくさいなー、びりっ。
今日は文化祭かー、めんどくさいなー、びりっ。
今日はクリスマスかー、めんどくさいなー、びりりっ。
めんどくさい日は須らくすっ飛ばす。覚えていないってのは授業の面において不便ではあるが、しっかりと書き記されているノートを読めば追いつけないことはない。
たかが一日の記憶だ、取り返しはつく。
嫌な日、めんどくさい日は軒並みすっ飛ばせー。
ってな具合で高校を味気なく卒業して大学生となり、相変わらず俺は鬱陶しい日をすっ飛ばしていた。
けれど、ある日のことだ。
朝、目覚めて今日は試験かー、めんどくさいなーと思った。
日にちをすっ飛ばすことに慣れていた俺は欠伸を噛み殺しながら日めくりカレンダーを過剰に破った。
瞬間、体感はしないが一日がすっ飛んだ。
何度か買い替えた日めくりカレンダーの前に立つ俺は一日をすっ飛ばし、翌日の俺として立っていた。
日めくりカレンダーを破る前と何が変わっているわけではない。
寝巻きは愛用の一着があるので、日めくりカレンダーを過剰に破った瞬間、服装が変わっているわけではない。
姿見を前にして、変化はないものの一日がすっ飛んでいるはずだ、と経験上から認識する。
同時に、やたらと目が腫れていることに気付く。
鏡に映った俺の顔、見慣れた姿ながら目だけがやたらと腫れている。まぶたはふっくらと膨らみ、目の周りが失笑を催すほどに赤く染まっている。
え、何で?
夕べ、慣れない酒でも飲み過ぎたか?
疑問は携帯電話を開くことで解決する。
父から何件もの着信が入り、メールが届いていた。
「母さんが死んだ。すぐに帰って来い」
えっと……え?
すっ飛ばした日に届いたメール、俺は返信をしている。
「明日の朝一で帰る」
えっと……え?
何も覚えていない、何が起こったのかは思い出せない。
届いていたメールから判断するに、母が死んだ? メールの届いた日時はすっ飛ばした日の午後十一時三十八分、実家に帰れる時間ではない。
だから俺は、今日の朝一に帰ると返信した?
え。
目が腫れているのは、泣き明かしたからか?
母の死を知り、泣き明かし、俺は目覚めた?
何も思い出せない。
すっ飛ばした日の記憶は残っていない。
どうして俺は――
以来、俺は日めくりカレンダーを使っていない。
破りとればすっ飛ばせる日を、俺は決して破り取らない。