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   妹を守るために

 黒髪の姉妹が、息を切らしながら森の中を走っていく。


 長く真っ直ぐな髪を乱し、姉は妹の手を引いて前へ進んでいく。

 顔に何度も小枝が当たり、ジンジンと鋭い痛みが頬に広がる。


 チラリと姉は振り返り、妹の顔を見る。

 まだ十歳になったばかりの、いつも明るく笑いながら後ろをついて回る可愛い妹。

 なのに今は息苦しさに顔を歪め、恐怖に目を潤ませていた。


 できることなら立ち止まって休ませてあげたい。

 しかし、今はそれが許される状態ではなかった。


 歯を食いしばり、姉は重くなっていく足を動かし続ける。

 だが小さな妹は、もう限界が来ていた。


「いずみ姉さん、もう走れないよ」


 ずっと我慢して、我慢して、耐え切れなくなって出てきたか細い声。

 この切実な声を無視することはできなかった。


 姉――いずみは足を止め、妹に振り向いた。

 今にも泣き出しそうな黒い瞳と目が合った途端、思わず涙が溢れ、いずみの頬を伝った。


「ごめんね、みなも。辛いかもしれないけど、もう少し我慢してね」


 少しでも元気づけたくて、いずみは笑いかけながら妹――みなもの頭を撫でる。

 短くてクセのある黒髪は、激しく絡まり合って乱れている。

 顔には赤い擦り傷がいくつも刻まれ、ぬかるみを通った時に飛んできた泥に汚れていた。


 見る見る内にみなもの目に涙が溜まる。

 が、溢れる前にゴシゴシと袖で涙をぬぐった。

 こんな時なのに、心配かけまいとしているのが伝わってくる。

 

 大切な妹を絶対に失いたくない。

 血を流し、彼女が冷たい骸になっていく姿は見たくなかった。


 不意にいずみの脳裏へ、逃げ出す前に見た光景がよぎる。




 好天の下、緩やかで優しい時間が流れていた久遠の花の隠れ里。


 そこへ突然、数多の兵士が現れて襲ってきた。


 北方の人間と思しき白い肌の、金や銀の髪をした兵士たち。

 彼らは怒り狂った獣のような形相で、守り葉たちを斬り殺し、久遠の花を生け捕ろうとしていた。


 里を守るために守り葉は毒を駆使して奮戦していたが、何故か兵士たちは毒を受けても平気だった。


 何故? どうして?

 困惑しながら、いずみは隣にいたみなもの手を引いて逃げ出す。


 追手が来ないかと後ろを振り返った時に見たのは――。

 ――子供たちの元へ行かせまいとして立ちはだかった両親が、血飛沫を上げ、その場に崩れ落ちる姿だった。


 本当は駆け寄りたかった。

 けれど心とは裏腹に、いずみの足は森を向き、隠れ里から離れて行った。



 背後から、泣き叫ぶ声や悲鳴、兵士たちの怒号が聞こえてくる。


 命が呆気なく消えていく気配。

 ある者は殺され、ある者は自害する、死の気配。


 もう一度振り返って、その光景を見る勇気はなかった。


 いずみは吐き気にも似た慟哭を胸に、森へ逃げ込んだ。

 そして今に至る。




「ふもとの町まで行けば、人に紛れて逃げられるわ。それまでの辛抱よ」


 いずみは小さな手をギュッと強く握る。


 まだ血が通っている、熱い手。

 この手から温もりが消えたら……と考えた瞬間、怖くなった。


 抑えられず、いずみの手が震えた。


(このままじゃあ逃げ切れない。嫌……死にたくない。もう誰も死なせたくない)


 絶望の色に染まっていくいずみを、みなもが心配そうに見つめる。


 そしてグッと顔に力を入れると、いずみから手を離した。


「みなも、どうしたの? 早く逃げないと、あいつらに追いつかれるわ」


 いずみは手を伸ばして、みなもの手を取ろうとする。

 が、みなもはその手を避け、腰に差していた短剣を抜いた。


「姉さん一人で逃げて。私が囮になるから」


 囮? みなもが?

 妹の口からその言葉を聞くと思わず、いずみは反射で首を横に振った。


「貴女がそんなことをしなくても――」


「だって私は守り葉だから。久遠の花を守るのは当然だよ」


 みなもがにっかりと笑う。

 迷いのない、どこか吹っ切れたような笑顔だった。


「父さんが言ってた。守り葉は命をかけて久遠の花を守らなくちゃいけないって。それに……大好きないずみ姉さんが、苦しんでいるのを見るのは嫌だ」


 確かにみなもは守り葉。幼くとも、一族を守るために戦う役目を持っている。

 けれど、すでに大人の守り葉が何人も殺されている。未熟で幼いみなもが敵わないのは、目に見えて明らかだった。


 言った本人も、それは分かっているはず。

 力強い眼差しが、みなもの覚悟を物語っていた。

 恐怖に震える唇を噛み締めながら――。


 いずみはそんな妹を見て愕然とした。


(この子は一族の誇りを通そうとしている。……それに比べて私は、ただ逃げることしか考えていなかった)


 申し訳なくて、いずみは思わずその場へ泣き崩れそうになる。

 どうにかそれを思いとどまった時、ようやく決心がついた。


 いずみはスッと目を細めると、みなもの肩に手を置いた。


「ごめんなさい。小さな貴女に、そんなことを言わせるなんて……。でも、みなもは逃げて。私が囮になるわ」


「ダメよ! 捕まったら、どんなひどい目に合うか分からないもの」


「私は久遠の花……貴女を生かす道を選びたいわ」


 やっと今になって自分を犠牲にしてでも助けたいという覚悟ができた。

 己の情けなさにいずみは苦笑した。


 みなもが動揺から目を瞬かせ、その後、首を激しく振る。

 そして何も言わずに、元来た道を戻ろうとした。


 このまま行かせる訳にはいかない。

 いずみは素早くみなもの腕を掴んで引き寄せると、懐から針を取り出す。


 ちくり、と。

 みなもの首をめがけ、針を刺す。


「え――……」


 鋭い痛みに身を強ばらせた直後、みなもの体から力が抜け、その場へ崩れ落ちそうになる。


 咄嗟にいずみはみなもを抱きとめ、そっと頭を撫でた。


「ね、姉さん、何を……?」


「救急用に持っていた麻酔針よ。こんなことでみなもへ使う日がくるなんて、考えもしなかったわ」


 治療以外に使ったことがなかった麻酔針。

 まさか妹にこんな形で使う日が来るとは想像すらしていなかった。


 いずみは小さく苦笑してからみなもを抱き上げると、辺りをキョロキョロと見渡す。

 丁度よく草木が入り組み、雑草で足元を隠された木を見つけ、いずみは精一杯の早歩きで近づいた。


 ここなら小柄なみなもの体を隠すことができる。

 慎重に腕から降ろすと、いずみはみなもを木に寄りかからせた。


 忙しい母親に代わり、いつも面倒を見ていた可愛い妹。

 どんなことをする時でもずっと一緒にいた、かけがえのない妹。


 離れたくないけれど、もうお別れしないと。

 いずみは地面に膝をつくと、みなもの耳元へ顔を近づけた。


「私も大好きよ、みなも。元気でね」


 そう囁いてから、いずみは体を離して立ち上がり、みなもに背を向ける。


 一歩踏み出そうとした瞬間――。


「待って……いずみ姉さん」


 消え入りそうなみなもの声が聞こえてくる。

 

 今振り向けば、ここから離れられなくなる。

 いずみは瞼を固く閉じて、振り向きたい衝動を堪えると、足を前に動かした。

 

 一歩、一歩とみなもから離れる度、胸が締め付けられる。

 いつの間にか涙が溢れ、何度拭っても止まらなかった。


 覚悟ができても、やはり死ぬのは怖かった。

 でも、みなもを生かすためだと思えば、恐怖よりも勇気が上回ってくれた。


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