真実を知る者
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材料を揃えていずみが薬を完成させたのは、夕食が運ばれてから、かなり時間が経過した後だった。
外の様子は分からないが、真夜中を少し過ぎた頃だろう。
水月は椅子代わりに座っていた荷箱の上で、グッと背筋を伸ばした。
薬を飲んだせいで、少し動くだけでも節々に痛みが走る。
全身が焼け付くように熱く、息をするだけでも苦しい。
思わず「うっ」と声を上げそうになり、水月は一旦息を止めてから、ゆっくりと長息を吐いた。
(予想以上のキツさだな……そりゃあそうだ、体の作りを根本から変えるんだ。無理もかかるってもんだよな)
水月の顔が痛みで歪む。
絶え間なく続く全身の痛みも辛いが、それ以上に胸奥から湧き出る鋭利な痛みのほうが辛かった。
目前のベッドではいずみが体を横たえ、浅く苦しげな寝息を立てている。
普通なら体の痛みで寝付けないだろうが、今は心身の疲労のほうが勝っているのだろう。涙をこらえるように口を固く結び、眉間に皺を寄せながらも眠りについていた。
水月は目を細めていずみを見つめる。
途端に目頭が熱くなり、ずっと堪えていた涙が滲んできた。
泣くことが許せなくて、水月は下唇を噛み、涙が溢れそうになるのを止めた。
(……いずみ、ゴメンな。お前にこんな辛い思いをさせてしまって)
膝に置いた手をグッと握り込み、肩を震わせながら俯く。
瞼を閉じると、身の内で暴れ狂う慟哭に、心臓を鷲掴みされているのがよく分かる。
感じ入れば入るほど、そこから生まれてくる痛みが一層強くなっていく。
けれど、どれだけの激痛が全身を巡っても、痛みが足らないと思ってしまう。
いずみの隣にいることすら許されない罪人。それが自分なのだから。
生きている間だけでなく、死んだ後まで永遠の苦しみを与えられたとしても、この罪を償うことなどできない。なぜなら自分は――。
頬に温かい物が流れた瞬間、水月は我に返って頭を上げる。
しばらく放心状態で虚空を見つめてから、おもむろに顔を手で覆った。
(ちくしょう……早く止まれよ! こんな情けないツラ見せたら、いずみを余計に苦しませるだけじゃねぇか)
荒々しく袖で涙を拭っても溢れようとする涙を、固く瞼を閉じて力づくで押し込める。
落ち着こうと深呼吸をしても、一度乱れた心はなかなか整わなかった。
いずみが起きないようにと祈りながら、水月が必死に心を落ち着かせようとしていると――。
――コン、コン。小さく扉を叩く音が聞こえてきた。
(こんな時間に何の用だ? チッ……いずみを起こすようなことをするなよ)
顔をしかめながら水月は静かに立ち上がり、荷物を避けながら扉へ歩いていく。
思った以上に体が動かしにくく、一歩進む度に痛みが走る。さほど離れていないのに、扉の所までが遠く感じられた。
どうにか扉の前にたどり着くと、振り返っていずみの様子を伺う。
さっきまでと変わらず、深い眠りについたままだ。
少し安堵して、一瞬だけ水月の顔から力が抜ける。
しかし、顔を元に戻した時には、目を鋭くさせ、扉をきつく睨みつけていた。
なるべく音が出ないよう、水月は慎重に扉を引き開ける。
臙脂色の軍服が見えた途端、背筋に冷や汗がにじむ。
部屋から出て扉を閉めると、鈍い動きで顔を上げる。
夕方に会った時と同じ笑顔のグインが、こちらを見下ろしていた。
「こんな時間まで起きているなんて、関心しませんね」
温和そうな見た目と物腰でも、彼のまとっている空気は、あらゆる汚物が貯められた沼のように淀んでいる。
よく知らない相手なのに、グインがキリル以上に恐ろしくて厄介な人間だという思いが膨れ上がった。
息を大きく呑み込んでから、水月はパサパサに乾いた唇を開いた。
「……いずみに用があるなら、朝に来てくれよ。やっと寝てくれたのに――」
「彼女じゃなくて、君に用があるんですよ」
グインは水月に顔を近づけると、優しく耳元で囁く。
「キリル様から君の話を聞いた時から、興味があったんですよ。今どんな気持ちで彼女の隣にいるのか、ぜひ知りたいですね」
この男は真実を――自分の罪を知っている。
水月の頭から足先まで、一気に熱が引いた。
こちらの動揺を楽しんでいるのか、グインが小さく吹き出した。
「フフ……意外と可愛いところがありますね。そんなに怯えなくても、ちょっと私の部屋に来てくれれば良いだけの話ですから」
グインが少し顔を離して、水月を真正面から見つめる。
そして、こちらの髪を撫でた後、その手を頬へと当てた。
「無理強いはしませんよ。私の誘いに乗るかどうかは、君の好きにすればいい」
……どう考えても、部屋で話をするだけで終わらねぇよな。
何を望んでいるのか察しがついてしまい、水月の左頬が引きつった。
絶対嫌だ。頼むから別の相手を当たってくれ、と心の底から叫びたい。
けれど断れば、いずみに真実を告げてしまうのだろう。それだけは避けたかった。
真実を知った時、いずみは自らの命を絶つかもしれない。
もし死ななかったとしても、これから一生笑うことなく、命尽きるまで絶望し続けるかもしれない。
どちらにしても、いずみを追い詰めてしまうことになる。
自分の体を犠牲にしてでも、真実を知られる訳にはいかない。選ぶ道は一つしかなかった。
目を逸らさずに応えることが、精一杯の抵抗だった。
「……分かった、アンタに従う。さっさと連れていけ」
絞り出すような声で水月が告げると、グインは満足げに笑みを深くした。
「潔い人間は好きですね。ご褒美に、その目元が今よりも赤くならないように努力しますよ」
おもむろにグインが水月の腕を掴む。長い指が食い込み、絶対に逃げられないことを突き付けてくる。
どんな扱いを受けるか、想像するだけで膝が震えてしまう。
それでも、いずみが受けた仕打ちに比べれば大したことはない。
自分の体と心をズタズタにされるぐらい――。
水月の心が、すべて諦めの色に染まりかける。と、
「やめろ、グイン。そいつを壊される訳にはいかない」
唐突にグインの背後から、淡々としたキリルの声が聞こえてくる。
ほんの一瞬、グインは笑顔を消す。しかし、すぐに微笑を浮かべて後ろを振り返った。
「本当に珍しいですね、キリル様がここまで人を庇うなんて……そんなに彼が気に入りましたか?」
「気に入る、気に入らないは関係ない。……今そいつが使い物にならなくなるのは困る。それだけだ」
キリルはグインから水月に視線を移すと、腕を掴んでいたグインの手を払った。
「グイン、自分の部屋へ戻れ。新しい玩具が欲しいなら、近い内に用意しておく」
払われた手を軽く振りながら、グインは肩をすくめて一歩を踏み出す。
「分かりました、今回は引きましょう。でも使い道がなくなった時には、私に譲って下さいね」
そう言いながらグインは滑らかな足取りで通路を進み、姿を消した。
危機が去ったと安堵した途端、水月の体から力が抜ける。
思わずその場へ座り込み、細長いため息を吐き出した。
……助かった。
できればこの男に助けられたくはなかったが。
水月が額に滲んだ冷や汗を拭っていると、キリルの影が被さってきた。
「随分と衰弱しているな。薬の副作用か?」
答えるのは癪だったが、強がっても意味はない。
小さく頭を振ってから、水月は顔を上げてキリルを見た。
「……ああ。二、三日は寝込んじまう代物だ。いずみの体力だと、回復するのにもっとかかるかもしれない」
「そうか……早く陛下のお望みを叶えたいが、仕方ない」
軽く瞼を閉じてキリルは息をつくと、水月の前に手を差し伸べた。
「一人で立てないなら掴まれ」
水月は奥歯を噛み締め、キリルの手を睨みつける。
この手だけは絶対に掴みたくない。
こんな血に塗れ、人の命をためらいもなく斬り捨てる手なんて――。
「見くびるんじゃねーよ。アンタの力を借りなくても、自分のことは自分でできる」
キリルの手を払うと、水月は片足を立て、その膝に両手を乗せて力を込める。
全身が激しく震えたが、どうにか立ち上がることができた。
払われた手を静かに下ろし、キリルは表情を変えずに水月を見つめる。
何も言わなくとも、「強がるな、小僧」と目が語っている。
明らかに自分よりも格下だと思われていることが、無性に悔しかった。
「案外アンタ、過保護なんだな。さっきのヤツだって、一晩オレが相手をしてやれば済んだ話だろ? 殺されないと分かっているなら、それぐらいどうってことはねぇよ」
頭では情けない強がりを言っていると分かっているが、勝手に口が動いてしまう。
語るほどに自分が惨めに思えてならなかった。
そんな水月から目を逸らさず、キリルが静かに首を横に振った。
「あれを甘く見るな……グインは気に入った相手を、殺さずに切り刻み続けることを好んでいる。普通の人間なら一晩で発狂してしまう。衰弱している人間に、あの狂気は耐えられるものではない」
人を人と思わず殺してきた男に、ここまで言わせるようなヤツなのか。
全身から血の気が消え失せ、水月の震えがさらに細かく刻まれる。
けれど、それでもキリルに感謝を伝える気にはなれなかった。