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次のワナンの宴への誘いは五日後だった。それにも行くと彼女に返事をしていた。
しかし、先の宴があまりにも退屈だったために諾としたことを後悔しても居る。
が、その場にはナセアは来るのだろうか。
もう一度、何としても彼女に会いたかったし、姿を消してしまったことを問いたい。ラシャの望みはそれだけだった。
昼間は、まっとうに軍学校へ行き、もやもやを発散するように剣や乗馬の訓練を熱心にこなした。夕方の、戦術の研究や新兵器の評論などの時には少し眠くなったが、それでもあの詩の会の拷問並みの退屈さに比べればずっと面白い、と思った。
今度の宴は、某公爵の婚約披露であった。
ティーランから同等の身分の姫君が来たのだという。
「ティーランといえば、例のあの方、このところお見えにならないと思ったら、あちらでご再婚なさるそうですわよ。もう船もお発ちになったころかしら」
披露目が終わり、食事も終わり、人々がいくつかの島に別れて談笑をする時間帯に、そんな話を始めた夫人が居た。そこで、ラシャは他に行き場も無く、ワナンの傍らに立っている。彼女に相変わらず腕を掴まれていて、振りほどくわけにも行かなかったからだ。
あの方、というのはラシャにはまったく見当がつかなかったが、ワナンが夫人の言葉を補足したのでわかった。
「ああ、あの方ね。そのお話なら他でも聞きましたわ。あんな方、私のいとこの内に入るなんて嫌だわ、と思っておりましたの。でも端下女の血は争えませんのね。ふしだらな方だと思いましたのよ、ナセア様なんて。ようやくこの国からも居なくなるのですってね」
「先月でしたかしら。ワナン様が面罵してくださって、あの方顔色が変わったらしたの。いい気味でしたわね」
口火を切った夫人ではない女性がその話に加勢した。
「お母様からも聞きましたのよ。本当に貴婦人の風上にも置けない方」
「ワナン様のおっしゃるとおりですわ」
「私たち淑女の敵でしたもの。ひどい方。……伯爵のお嬢様など婚約者を取られたとか」
他の女性たちも口々に言う。酷いと言いながら、どこか楽しげに。
あの宴では某国の公使、この宴では某子爵、……。いったい何人の殿方と……。
何の話だ、とラシャは耳に入ってくる情報を頭の中で処理できずに、眼が回るような心地になっていた。誰の話だ、と思ったが、ナセアの話に間違いが無いらしい。
彼の知らない、宴に出ていたナセアの、ここに居る女性たちの眼に映った姿らしい。
あの時はしどけなく男の腕にもたれていた、このときはほとんど胸が見えそうな服を着て誰それに身体を押し付けていた、というような婦人たちのまったく下世話な報告に、まだ一四歳に過ぎない青臭い小娘のくせに、ワナンはいちいち「ぞっとしますわね」「許せませんわね」「ひどい方ね」「いやらしいこと」「なんてふしだらなのかしら」と相槌を打っている。
聞いているうちに、ラシャは居たたまれなくなってきた。
「よせ」
つい口から厳しい声が出てしまった。ワナンがびく、と硬直している。
「居ない人のことをあまり悪し様に言うのは、聞き苦しいよ」
言いながらようやくワナンの手を振り解いた。
そのラシャの袖を再び掴みながら、
「ホントのことを言ってるだけです、悪口だなんて」
眉を寄せながらワナンが唇だけ微笑ませている。
「でもラシャがお嫌なら、このお話はここまでにしますわ」
甘えたような上目遣いでラシャを見上げながら、鼻声でワナンが言った。
華やかな睫毛が上を向いていて、唇が赤かった。少女なのに慣れた媚態がある。そういう表情が特に蟲惑に満ちて美しく見えると誰かに教わったかのようだった。
「俺は帰る」
ラシャは逆にそのワナンの女くさい表情に悪寒を覚えて、掴まれた袖を振り払って、人々を掻き分けて外へ出て行った。
ひどく目眩がするようだった。
外に出たのはよいが、来た時はヴェアミン家の馬車であったため、ワナンと行動を異にしてしまうと、馬車がない。
物慣れた貴族ならば、同様に帰る誰かの馬車に同乗するように、従者に手配をさせるのだろうが、ラシャにはそのような機転も無く、また彼自身の従者というものも連れてきていなかった。
ぼんやりしながら、歩いて庭園を抜け、門を通った。門番もたった一人で徒歩で通る客人など滅多に見た事が無いらしく、瞠目しながら会釈をして見送っていた。
十分に夜であったので、あたりは真っ暗である。方向もわからない。
昼間であれば、宮殿なり遠望できたはずで、ラシャのソント館にも行く道がわかったかもしれないが、伸ばした手の先も見えない闇では、どうにも何処へ向かっているかも判然としない。大人であれば、門番に灯りを借りたかもしれないが、ラシャはただ呆然と方向もわからないまま脚を進めている分別の無い少年である。
周りの状況もわからず、見ようともしないままに、ただ脚が向かう方へあてどもなくラシャは歩をすすめているのである。
考えてみれば、ラシャはナセアの何もかも知らない。ナセアに何かを訊いても、また後で、また明日、そうとしか答えてくれなかった。最後に会った夜でさえそうだった。ならばまた明日、ラシャはそう思って、ただナセアを求めた。
二年前にグローセン男爵の夫人として挨拶を交わし、先月は急に部屋に引き込まれて愛し合い、その行為を幾度か重ねた。ただそれだけの間柄でしかなかった。
あの場に居た女性たちが口々に言っていたふしだらな噂を、ナセアに会って、彼女に否定して欲しいとラシャは思った。
しかしナセアは、どうやらもうロティオールにすら居ないのかもしれないという。
何の別れも告げられず、何の前触れも無いままに、ただ前の日のとおりに愛し合って未明に別れたその次の夜には、彼女の部屋は空になっていた。
先ほどの話では、彼女はティーランなどという他国に嫁ぐのだと言うではないか。
彼はナセアに何度も、愛していると言ったのに、結婚したいと訴えたのに。
これからの一生のうち、もう会えないかもしれないというのに、ナセアはラシャに何の言葉も告げなかった。
「どうしてだ?」
ラシャの歩調が、次第に荒々しくなっている。呼吸も乱れていた。
あまりにも静まり返った貴族の屋敷街。
叫びだしてしまいたかったが、静寂の重さに抗う気力もなく、ただ乱暴な足取りで、ラシャは歩いていた。
ただ頭の中にはナセアを責める言葉ばかりが浮かんでいる。
戯れ。裏切り。
何も知らぬ愚かな子供をからかう気持ちだったのか。
彼女が目の前に居たら、その言葉をラシャは投げつけているだろう。自らの心の痛みを、ナセアに押し付けるが如く。
ナセアの危惧は正しかった。
いずれ彼女の行状に関する噂を聞くことがあれば、ラシャは、嘘だと言ってくれ、と訴え、そうしてナセアを困らせ、清らかに傷つけるだろうという推察は、まさに正鵠を得ていたと言って良い。
ナセアの噂を少し耳にしただけで動揺し、嘘だといって欲しいと胸の中で訴えているラシャには、きっと彼女の何かを受け入れることなどできはしない。
そして今のラシャには、その自覚すらない。
だからナセアはラシャの問いに何も答えなかった。
だから、何も告げずにナセアは去ってしまった。
だから、……。
幸いにも、ラシャが足を向けていた方角は誤っていなかったようで、空が白み始めたころ、ソント屋敷を見つけて入り、怪訝な使用人たちにも何も言わずに寝室に飛び込んで服を脱ぎ捨てて眠った。
次に目覚めたのは、既に太陽は中天に昇っているような時間であった。
使用人に、宮殿内に居るままの腹心のディアとユーレウスを呼び出すように命じ、軍学校へ向かう。
ラシャが宮殿に来たのは、先月の王の即位記念式典に出るためで、普段の拠点は領地のソントである。ソントの近くのレスフォはロティオールにとって重要な軍港であり商業港でもあり、いうなれば副都のようなものだ。ここにも軍学校があり、ラシャは通常レスフォの学校が本拠なのである。
王子であるから、年に数ヶ月は首都キーウ・ティアラに滞在することもあろうということで、届けさえすればどちらの学校に通っても構わないことになっていた。ラシャは律儀にそれを守って学校に行っているが、軍学校に在籍している他の王族や貴族の若者の多数は、拠点の校にすら滅多に顔を出さないものも居る。
この日、彼が学校に向かったのは、自領のソントに帰る旨を届け出るためであった。