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このひと月足らずの間。
妙に浮き立った様子でそわそわしたり、そうかと思えば急に意気消沈したりしているラシャの様子を、彼に仕える小姓のユーレウスや近侍する兵士のディアファイユは怪訝な目で眺めていた。
だからと言って問いただしはしない。それでもラシャがどうして挙動不審なのかは、二人にも何となく見当がついていて、それゆえにこそ黙って見守っているのである。
「ラシャは好きな人が出来たんだろうねぇ、ディア」
ラシャより一つ年下だが、早熟なユーレウスは口元を緩めながらそんなことをディアと話す。ディアは既に二十歳であるから、ユーレウスよりも先に気づいていた。
ただし二人ともその相手はワナンだと思いこんでいる。
ワナンに誘われて宴に出て、その次の朝、夜明け近くに帰ってきて、それからすぐにラシャの様子が奇妙になった。
それにユーレウスもディアも、ワナンの顔は見知っている。まず彼らが知る中では最も美人だろうと思っていた。ラシャが恋したのはワナンだと疑っていない。
ただ、不審なこともある。
あの後のワナンの誘う宴などにまったく顔を出しては居ない。もし彼女が恋する相手であれば、会う機会を逃すまいとするのではないかと思われるのに、である。
もともとそういう場に出たことも無く、むしろ避けて通ってきたラシャである。あの日は王の戴冠記念の式典だからこそ出席したとも言えた。
その後にワナンの使者が届けてきた何々公爵の誕生祝だの、何々伯爵夫人主催の音楽鑑賞会だのと言った会の招待状は一見して即座に捨てていた。行かなくて良いのかというディアやユーレウスの問いかけに、ラシャは何故そんなことを訊くのかというような表情で、必要ないとだけ答えていた。
老練な側近でも居れば、とにかくどのような集まりにでも顔を出して人とのつながりを作り、自分の利益のために情報交換をする社交の効能に対しての必要性を述べたかもしれない。ラシャのみならず、ディアやユーレウスも含め、彼等の年齢の若さではその辺りには疎くても仕方がない。
そんな社交などよりも、軍学校で訓練に明け暮れて肉体を駆使しているほうが楽しい年頃であったし、ラシャは人一倍そちらのほうが好きな性質であるのは明白だった。
その好みを覆すほどにはワナンに惹かれていないのかな、などとラシャの居ないところでユーレウスがひっそりとディアに呟いていた。
ところがラシャがひと月ぶりにワナンの宴への誘いに応じた。
特に彼にとって必要とも思えないような、はるか昔の名詩人の命日にその詩を朗読するという無意味な名目の会ではあったが、それでも出席すると彼はワナンの使者に返事をしたのである。
それにしてもワナンと言う姫は、見境無く宴に顔を出しているのだな、と今までにラシャに捨てられた数々の招待状をみながら、ユーレウスはあきれていた。
現王のすぐ下の同腹の弟で宰相にもなれる立場のヴェアミン大公の正妃の娘で、早くも美貌が噂されるワナンと、現王の第二王子のラシャである。ラシャの母の身分はロティオールの古い家柄で中堅程度の地位のリコリス子爵家の出身であるが、その程度の格式の差は瑕疵になるまい。
身分的にも、見た目にも、誰から見てもワナンとラシャはお似合いであると言われるだろう。
もっとも、ワナンの父のヴェアミン大公がそれを喜んでいないらしいということも噂になってはいた。ヴェアミンとしては、現在十九歳の王太子リディスにこそワナンを嫁がせたがっているのだという。
もともとワナンがラシャに初めて会ったのは、父ヴェアミンの意図があって家族と共にリディスの住まうレスフォを訪れ、ついでに風光明媚をうたわれるソントに立ち寄ったときであったのだ。
それ以来、ワナンはだれかれ構わずラシャの美貌を言い、彼に会ったときにどんな言葉を交わしたのかと語り、そしてラシャ本人に対しても手紙を何通も書き送ったのだ。
それを受け取ったラシャも木石ではないから、会ったときに魅力的で可愛らしいと感じたワナンからの度重なる手紙には悪い気はしていなかった節がある。しかしながら、しばらくワナンの文章を読んでいるうちに、彼には今ひとつ共感できる内容がなかったために徐々に興趣を失っていったようである。
ヴェアミン大公の意向は、リディスと親しくなり、あわよくばワナンをロティオール王妃にすることだったから、彼女の興味がラシャに行ってしまったことは誤算であっただろう。ワナンは父の意向どおりに、リディスにも多くの手紙は書いていたようだが、ラシャへの物よりは熱を入れていなかった。
先月の王の戴冠式に着た服以外にもワナンは「宴に着て来い」とばかりにラシャにいくつかの服を送りつけてはいたが、それらは華美に過ぎて身に着ける気持ちをラシャに起こさせない物ばかりである。そのため、軍学校の地味な灰色の略礼装を着てワナンが誘ってきた宴に行くことにした。
たしなみとして、とディアなどに勧められて、ラシャのほうからワナンを迎えに行ったのだが、その彼の服装を見て、ワナンが落胆したことは言うまでも無い。ラシャが迎えに現れてからしばらくはぐずぐずとそのことを言い、すぐにでも着替えて欲しいとまで言い立てた。
だが「遅刻してしまうだろう」と素っ気無くラシャにかわされ、少し憮然として彼の腕を取って部屋を出た。
それでも、宴の席に出れば、ワナンはみなの視線を集めてご満悦であった。この視線があるから宴に出ることが彼女は好きなのだ。
王女と同等の身分でありながら、王女より行動に制約が無い。その高い地位に対してほかの貴族たちは最上の敬意を払い、そして彼女の美貌と装いの素晴らしさを褒め称えてくれる。
そのうえこの日はラシャと共に居る。彼の服装こそ誰もが知っている学校の略礼装で、灰色の生地に灰緑の縁取りという上着に黒の下裾着という地味な色あいであったが、飾り気のない分、彼の美貌を際立たせているようだった。
ラシャはワナンと共に人々の挨拶を受けながら、首を伸ばしてあたりをくまなく見回している。肩こそまだ華奢だが、身長は既に常の成人男性より頭一つ分は伸びているだろう。その高さで、人々を頭上から眺めおろしている。少し不遜な態度にも見えた。
ただ、彼は探しているのだ。ナセアを。だが見当たらなかった。
途端に宴への興味を失い、一応の名目である故詩人の朗読が始まったときにはあまりの退屈さに帰って良いかとワナンに問うた。しかし、ワナンが次は自分が朗読するから、と言って引き止めるので、仕方なく残った。
ワナンの朗読については、どうとも評価の仕様が無かった。興味が無く聞き流しながらも、ワナンより前の人の方がまだ表情を持って語りかけてきたし声も通っていて、ましてワナンのように途中で言葉を詰まらせもしなかったと感想を持った。
朗読を終えてから、ほかの貴族たちに褒められながらワナンはラシャの隣の席に着いて、彼の顔をうっとりと見上げている。彼からの何らかの評価が欲しいのだろう。そういう表情で居た。無言の催促にラシャは答えなかった。
素直に、下手くそな棒読みだ、などと感想を述べればワナンは怒り出すかもしれないし、傷つきもするだろう。嘘の誉め言葉を述べて彼女にへつらうつもりもラシャにはない。彼の沈黙は、あえて傷つけることもない、という優しさであったのかもしれない。
それからラシャはますます退屈になり、仏頂面を隠そうともしていない。それに焦燥がある。頭の中はナセアが何処に行ってしまったのかという疑問ばかりが沸いていた。秘密に、と彼女に言われた事も振り払って、大声で叫んでしまいそうな気分になっている。
ワナンとラシャは、身分柄最も上席にいる。それゆえに人目にも立つのだが、ラシャの苛立ちを隠さない表情は、明らかに他の客たちの興を殺いでいた。
若い娘の客は、不機嫌な顔でさえ美しいと見惚れて居たが、曰く付きの美貌の王子に興味の無い女性や、男性客などは、ラシャの態度を不快に感じるようになっていった。だが、ヴェアミン大公の威光を背に負うワナンの手前、彼女が憧れてやまないラシャに苦情など述べることはできない。
この日の宴は、白々とした空気が流れたままに、みながみな口数が少ないままで散会になった。
宴の会場となった某伯爵家の館から、馬車に同乗しながら、ワナンは
「お立ち寄りになりませんか?」
珍しい美味しい物を用意していますよ、とヴェアミン家の館にラシャを招こうとした。彼と離れたくないからである。
「いや、帰ることにするよ」
ラシャの返事はあくまで素っ気無かった。