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ナセアがジェイの庶子の存在を知ったのは、ジェイが亡くなってから一ヶ月ほどたったときであった。
首都キーウでジェイの弔いを終え、彼の残した様々の物を整理するため、彼の生前にも滅多に近寄ったことの無いグローセン男爵領に赴いた。
そこでナセアを迎えたのは、以前にキーウの屋敷で勤めていて、ナセアの宝飾品に手を付けたために辞めさせた侍女であった。
その侍女が、庶子セロの母親である。
彼女の胸に抱かれたセロは、認めたくなくてもジェイに面差しがとてもよく似た男の子だった。
ナセアはまったく知らなかった。ジェイが、まさかあのジェイが、ナセアの知らない所でナセアに秘密のままに子供まで生ませていたとは。
胸に手を当てながら
「誓って申しますけれど、今の私の口から言っても信じてもらえないかもしれませんが、ジェイと結婚してからは、本当に、ジェイだけを愛していました。本当です……。たくさんわがままを申しましたけれど、私はジェイを裏切ったことなどありませんでした」
乾いた声で、あの子のことを、とナセアは言った。
「サイオン様はご存知でしたの?」
「……まあ、そうですね」
「あなたも、ジェイと同じね。裏切り者ね。酷い人」
寂しげな微笑から、サイオンは眼を逸らした。
セロという子が来るまでの間、王はナセアの話を聞くとも無く耳に入れている。
「私は、あの子のことなんてまったく知りませんでした。誰も教えてくれなかったし、ジェイも黙っていました。侍女の話によれば、子供が出来たこともただほんの一度の過ちだったと申しておりました。生活の面倒は見ていたようですが、屋敷に入ることも、ジェイに拒まれていたそうです」
いま考えると、ジェイのしたことは冷たいことだ。
侍女はキーウの屋敷を放逐された後、行き場を失って、グローセン領に向かうジェイの馬の前に飛び出し、懇願して下働きの使用人として領地の館に住むことを許された。そのジェイの許可を非常に恩に感じていたという。
その恩が、ジェイへの思慕になり、彼が湯浴みをしているときに、忍び込んで関係を持った。しかし本当にその一度きりだった、と侍女は言った。
妻のナセアを裏切ってしまったことをジェイがひどく悔やみ、苦しみ、侍女にむかっては二度と顔を見たくない、とまで告げたという。それでもさすがに子供が産まれたときには、侍女のもとを訪れ、生活だけは保障すると言い残し、その後は母子はほとんど捨てておかれた。
サイオンは、ジェイが戦場で亡くなるときにそのことを初めて聞いたと言う。
「捨ててしまった子が居る、と……。それからそのいきさつを聞いて……。もし他の誰かからセロのことを聞いたら、あなたが悲しむかもしれないから言わないでくれと……。ただあなたを一度でも裏切ってしまったことを悔やんでも悔やみきれないと」
「何と言っても、もういまさら仕方の無いことね」
ジェイはもう亡くなってしまったから何も弁解することも出来ない。不在の場で彼の残した物事について苦情を言うのは不公平だろう。
「世の中には浮気ばかりする男の人が多いけど、ジェイは絶対に心配ないと信じていました。…でもそんなジェイでさえ、あのような卑しい、さして美しくもない女に手を出してしまうんだから、男の人なんてそんなに簡単なのかしら?って思いました。……そうしたら、本当に簡単でしたね。」
ナセアはサイオンとその妻に向かって、すこし毒のある表情で笑って見せた。
「どんどん側妾や愛人を増やすような人も居るのに、ジェイは生真面目でした。自分の過ちも許せないくらいに。もう少し不真面目なひとだったら、あの子達を捨ててしまうような、そんな冷酷なまねはしなかったかもしれないですね。産まれてしまったのなら、その子に罪は無いのに。馬鹿なジェイ」
気の毒ね、と微笑みながら、ナセアの頬に涙が伝っていた。
「私が産みたかったな、ジェイの子……。馬鹿で、いいから」
呟いてから、ナセアは黙った。とめどなく涙が出てきたからであった。
滞りなく王とセロとの対面も終わり、ナセアはセロやその母に何を告げることも無く自室に引き上げていった。
呆然とするほど、ナセアはくたびれている。王と話した時間は短かったのだが、負担の多い内容だった。
ほんのひと月前までは、苦痛を避けるためにナセアの心の中から放逐されていたことばかりを、王に話したようなものであった。
「終わった……」
日没もすっかり過ぎ、夜になっていた。
ローブではないがゆったりした部屋着のままで、疲労のためかナセアは寝台で眠ってしまっていた。
夜中に窓辺で小さな音がしたときに、まだ問題があったことに気づいた。
「開けてくれ」
という、ラシャの声である。
彼に何と告げたものだろう。その答えを見出すことが無いまま、ナセアは窓を開けてラシャを迎え入れた。
まだ一五歳の少年は、はにかみながらも、眼を輝かせていた。
彼には初めての思い、初めての異性、知り初めたばかりの愛というものに打ち込む喜びに、純粋に心を浸しているのだろう。
ナセアは、一つの傷さえ付いたことがない宝玉のようなラシャの透き通った視線が痛いほど眩しかった。
眩しく、羨ましく、いとおしく、そしてどこかひどく、憎かった。
夜半になりいつも通り名残惜しげにラシャは帰っていった。
次の夜も訪れるだろう。当然のようにバルコニーを登り、窓を叩くのだ。
この朝に、ナセアはグローセン男爵家が宮廷にもらっているいつもの部屋から荷物を一切引き払って、後宮へ移った。
そして、そのことをラシャには一言も告げなかった。
ナセアは、逃げた。
やがて知るだろう彼女の様々の行動に対するラシャの失望の眼差しから、逃げ出した。
後日、ロティオールを離れる船の上から水面の光を見ながら、少しだけナセアは泣いた。
あえて目を背けていた清らかな気持ちを思い出させてくれたラシャへの想いと、そして何より、誰よりもナセアを愛してくれていたはずの亡き夫ジェイと過ごした日々へ想いの、決別の涙であったかもしれない。
新しい土地で、ジェイがナセアを愛してくれたように、今はまだ見知らぬ夫を愛そうと思った。
大丈夫、きっと幸せになるわ。そんなことを唇の中で呟いた。
次の夜。
ラシャはカーテンさえも取り払われた空っぽのナセアの部屋を見て、ただただ呆然とし、頭を抱えて自分の部屋へと戻って行った。
次の夜もそうだった。
ナセアに秘密だと念を押されている。周囲の誰にも彼女の行方を尋ねることは出来ない。また尋ねたところでラシャの周囲の人間がそんなことを知っているとも考えられず、ただ、七日間、ラシャは虚しくナセアが住いしていたはずの部屋を夜半に訪れ、ただ帰ってきていた。
彼女が居ないのだとようやくラシャが納得したときに、七日が経っていた。