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 それから数日。

 ナセアはその間にも二、三の宴に出席した。まだ誰にも彼女とラシャに関係が出来たことは知られては居ないようだった。

 その宴の一つにワナンも出席していたが、ラシャは居なかった。そして相変わらずワナンなどその一群れの連中はナセアを見下す態度をしているようだ。

 その様子を見る限り、ワナンもあの一夜のことを知らないと見える。

 あの時にナセアがもくろんでいたのは、ワナンがラシャを奪われたことを知り、泣いて悔しがる姿を見てやりたいということだったが、それは未だに叶っていないことになる。

 しかし今のナセアは、あの秘め事が知られていないことに心底から安堵しているのだった。

 日を追うごとにナセアの中ではラシャに対する罪悪感が増していて、また他の懊悩も加わって眠りさえ妨げられるほどの悩みになっている。

 これまで自分の行状がラシャに知れることが何より怖い。そしてあの夜の彼とのこともいつもの遊びと思われ、彼に軽蔑されるのでは、と疑った。それが恐ろしくてたまらなくなってしまっていた。

 その恐怖が何故かなどと、ナセア自身は心の中ではぼかしていない。自分自身を見つめなおしたことがない小娘ではない。

 ラシャという十歳も若い少年に、ナセアは恋情を感じていると自覚していた。自覚し、怯え、苦しんでいるのだった。


 恋情に眼を潤ませた憂い顔のナセアは、常よりもさらに艶色を増して悩ましい。

 常によく付き合っている恋人の何人かが彼女を誘ったが、気乗りがしないと言ってずっと断っていた。

 そのくせ宴の間に立ち上がれなくなるほどに酒を飲み、結局は恋人の誰かが彼女を連れて帰り、男は彼女を当然のように抱いた。

 ナセアは嫌だと断り、伸ばされた手を拒んだが、それすらも男たちは興趣として悦び、彼女の嗚咽を悦楽のものと決め付けるのだった。

 宴やサロンに出て誰か男性を伴って一夜を過ごす。

 はたから観れば、それはこれまでのとおりの彼女の日常である。何の変哲も無い常の行動そのものであった。

 ナセアはそんな暮らしを繰り返す自分を嫌悪し始めている。


 清冽なラシャの瞳に出会い、自身の行動を初めて省みて、愕然とした。

 霧の深い森の中で彷徨しているときに、不意に明るい陽光に照らされて、自分自身の裾が汚濁にまみれていることに初めて気づいた迷子のようだった。あまりの汚れを恥じて、光の当たる場所からまた森に潜り込んでしまったような、そんな気持ちになった。

 あの時はラシャも惑乱していたのだろうが、冷静になったときにナセアのその裾の汚れに眼が行き、彼はきっと眉をひそめて彼女に触れたことに後悔するに違いない。彼女をさげすむに違いない。

「馬鹿……」

 ナセアは不意につぶやいた。汚いことと承知の上で、誰かの夫だろうと婚約者だろうと、むしろそういう者を選んで、誰とも構わずに情事を繰り返してきた。

 生臭い泥沼の中に旋毛の上まで浸かっている。

 そんな自分が、あの穢れない眼差しのラシャに寄り添えるなど有り得るはずが無い。彼の言葉にほんのわずかでも頬を染めるなどおこがましいことこの上ない。

 それに彼と関係をもったことも、まずは遊び、ワナンに対する腹いせだったのだから。

 ナセアのこれまでの行動や、あの一夜は、亡き夫の仇の娘のワナンへの当て付けだったとラシャが知ったとしたら、彼はどれほどナセアを軽蔑するだろう。どれほどひどく傷つくだろう。

 その想像が震えるほどに怖かった。

 その蔑みと傷心の視線に、彼女自身が耐えられる気がしない。


「ねえ、助けて……」

 胸の下の男に、ナセアは懇願した。

 男は四十半ばの中流貴族である。ロティオールの東側の半島を挟んで存在する大国ザイラオンとの間の、島国ティーランという国の公使という役でこの国にいる。

 ティーランは面積こそ小さいが、立地が良く近辺の国々の交易の仲介ができる利点があるために、国全体が大きな商業都市のような殷賑の国である。様々な国の商人や貴族もティーランに拠点を置くこともあり、雑多で自由な国である、と公使の彼はナセアに説明したことがあった。

「助けて、とはどういうことです?」

男はナセアの髪を撫でながら丁寧に訊く。

 彼にとってのこの若く美しい恋人は、ロティオール王の姪という眩しい様な血統の持ち主なのだ。おのずと交わす言葉は彼が敬語になる。

「……そうね、また今度話すことにするわ」


 四日後、ナセアは珍しくグローセン男爵家の領地に赴いた。キーウを昼に出発して夜に領地に着き、二泊してまたキーウの宮殿に戻った。

 宮殿の自室にナセアが戻ったのは、月が中天に昇っている頃である。

 思い起こせば、月があるうちに自室に居ることは少なかった。ラシャとのあの一夜のあとは、意識的に自室に戻らないようにしていた向きもある。

 侍女たちに手伝わせて就寝の準備をしたのち、彼女たちを下がらせて寝室に入った。寝台の脇の明かりを消し、床に就こうとした。

 窓にコツンと何か当たった音がした。

 絹のローブをざわざわさせながら、早足で窓辺に行く。バルコニーの下にいる、長身の影がゆらりと動いたのが、闇の中に見えた。

 呼吸も忘れてナセアは急ぎ窓を開け、欄干から身を乗り出した。そして下へ向けて手を伸ばす。

 その人影はナセアの手を取ることも無く、壁の装飾を伝って軽々と階下からバルコニーの欄干を越えて、彼女の傍らに立った。フードを取るまでも無い。ラシャだった。

 ナセアはまるで坂を駆け上ったように呼吸を乱している。鼓動がのどから出てしまいそうな、胸の高鳴りを感じた。

「早く、中へ」

 強い力でラシャの手を引き、ナセアはそれでも用心深く足音を忍ばせて寝台まで走った。

「どうして、ずっと、……半月も居なかったんだ?」

 責めるよりも悲しげにラシャはナセアに訊く。

 もつれて倒れながら、ナセアは、今はそんな話をするより一瞬でも長く、と言い、彼のうなじを引き寄せて唇を求めた。

 ナセアが恐れたとおり、ラシャはどうやらあの夜から毎夜、今夜のようにバルコニーの下から彼女の寝室を見ていたらしい。侍女たちが時間になれば明かりを灯すのは、主が不在であっても行われる慣習であるが、主がその寝室を使わなければ夜が明けて侍女が寝室に来るまで消されない。

 彼はずっと、消えない明かりを見上げて、地面の上で夜を過ごしていたのだという。

 昼間は兵学校に行かねばならないため、空が藍色を帯びてくる頃にはさすがに自室に戻っていたそうだ。

 ナセアが戦慄するほどの情熱だ。

 それでこの半月の間にナセアは何をしていて何故自室に居なかったのか、という話柄になると、巧みな仕草で彼を乱して言葉を遮った。

 そんな話は後にして、お願い、とナセアは言う。

「ナセア」

 とラシャが彼女を呼ぶ。その声は、呼ばれた本人にも切なく響いた。

 多くの言葉を語らないうちに、別れなければならない刻限になり、縋り付くような表情のままでラシャはナセアの元を去っていった。


 彼が去った後の窓辺で、

「愛している、か……」

 ため息と共にナセアはつぶやいていた。

 たった今去った少年にとっては、瑞々しい響きを持った聖なる言霊で、ナセアにとっては単なる誘い文句だった。その溝はどうやっても埋まらないのだ、と彼女は諦観している。

 今のナセアは自分自身をさえ軽蔑の対象にしていた。

 ラシャの純粋な瞳を見つめて、彼を誘惑したことを後悔している。罪悪感に苛まれながらも、謝罪をすることもできずにいる。もし謝罪したのなら、ラシャはひどく傷つくだろう。そしてナセアを軽蔑し、嫌悪するに違いない。彼女を見る彼の眼差しの色合いが変わるのを、間近に見たくなかった。



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