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バルコニーに出ても、どういうわけか室内のワナンの高く澄んだ話し声ばかりが聞こえている。陰りの無い、無邪気な声。
何一つ疑うことなく、ヴェアミンという大きな庇護の下で、わがままに真っ直ぐに、自分を矯めることなく育ってきたのだろう。よいものは良い、悪いものは悪いとはっきり言える、素直な性情なのだろう。
だからふしだらと称される女は悪いもので、彼女は堂々とそれを懲らしめただけ、誇らしく自分の純粋さを主張しただけなのだ。ふしだらな者が傷つくのは、自業自得だ。誰も彼女の正当性を疑いはしないのだ。
しかしそれはただ恵まれた者の論理ではないか……。ナセアは釈然としない。憤りよりもむしろ哀しみが胸の中に広がっていった。
じっと立ち止まっていては泣けてくるので、ナセアは広いバルコニーを柵にそってゆったりと歩きだした。夜風が頬に冷たい。
宴の間に飲んでいた酒も少し醒めた。
広間にはまだワナンが居るだろう。ワナンが居なくてもヴェアミンは居るだろう。もう彼らと同じところに行く気はしない。
俯きながらバルコニーを端まで歩き、廊下に出ようかとしたところ。
すれ違いざまに、人にぶつかった。
「これは失礼」
ひどく高いところから声がしたように思った。見上げると、それはラシャだった。
「こちらこそ。申し訳ございません。どちらかへお急ぎですの?」
「否や」
「それではお帰りですか?」
「勝手に帰って良いのかどうかわからないんだ」
滅多に宮中の行事に出たことが無いラシャらしい戸惑いだった。
「陛下にお暇はなさいましたか?」
「だいぶ、前に」
「どなたも教えてくださらなかったの?陛下にお暇がお済みでしたら、お帰りになるのは構わないと思いますわ。」
それを聞いて、ラシャは露骨に安堵のため息をつく。
「そんなに、お疲れですの?」
「つまらなかった」
ナセアはおもわず笑ってしまった。唇に指を当てて笑いながら、自室までの道を共に行こうと誘った。
ラシャと肩を並べて歩いている姿を、ワナンが見たらどれほど嫉妬するだろうと想像するだけで、先ほどの悔しさが晴れた。
道すがら、改めてナセアは名乗った。
「ソントに来たのは、昨年だったか?」
ラシャは一応、彼女を覚えてはいたようだ。
それよりも彼女は、彼が今回の宴に顔を出した理由を知りたく、それを質問した。成人とみなされる年齢になったからか、と聞くと、そうではないと言う。
二ヶ月ほど前にレスフォに滞在したワナンが、ついでに訪れたソントでラシャに会い、その後は手紙で彼を執拗に誘い続け、衣装を送り、迎えをよこし、はなはだしくは彼を騙って王に対して出席の返事まで出しておいた、というのでやむを得ずに出てきたのだと言う。
十四歳のワナンはよほどこの一つ年上の従兄のラシャに執心のようだ。
そう気づいたナセアは、ふと、このラシャをワナンから奪ってやろうという考えにたどり着いた。
ナセアはラシャを自室にいざない、閉めた扉の前で、彼の耳元にかすれた声でささやきかけた。
女を知らないなら、教えてさしあげましょうか……?
硬直したラシャの胸に頬を寄せ、しなやかな背中にナセアは腕を回して抱きしめた。豊かな胸の隆起がラシャの身体に強く押し付けられている。
思春期の少年は、狼狽したまま、ナセアの蟲惑の中に簡単に堕ちた。
夜明け近くに、ナセアは眼を覚まし、傍らのラシャを起こさぬようにシーツを脱け出してローブを羽織った。
髪を指で梳かす。幾度と無くラシャが指を絡めたために、乱れていた。
小さなため息を吐きながら寝台を振り振り向くと、寝返りを打ったラシャが、薄く眼を開けて彼女を見ているようだった。
「朝なのか……?」
「もう少しでね」
ラシャが手を伸ばし、ナセアの指に触れる。
「俺は、どうしたら……?」
「まだ少し居て良いわ」
ゆっくりと起き上がったラシャが、ナセアの手を胸元に握りこみながら、
「そうではなく」
と言った。
ひたむきな眼でラシャはナセアを見つめている。彼の端麗な面差しの思いつめた表情を見ると、魅入られるような胸の痛みを感じた。
「王子様は何をおっしゃりたいのです?」
おどけたように敬語を使うと、ラシャがひどく拗ねた顔をする。
「ずっと、ナセアと離れたくない」
少し口ごもりながら、切れ切れに彼は言う。薄暗いが、頬を紅くしているのはわかった。
普段のナセアは、遊びなれた年上の男性との予定調和の付き合いしかしていない。
まして十歳も年下の少年の、初めての女性、となったことも無い。
情事の後で、離れたくないなどという言葉は百回も聴いたが、ラシャほど熱い眼差しで言ってくれた男は今まで居なかっただろう。
眼差しで彫像さえ蕩かしてしまいそうな美少年に熱く見つめられて、ナセアも悪い心地ではなかった。
「結婚、すべきだろうか。こうなった以上は、父上に許しを得て……」
数十秒の逡巡の後に、さらに切れ切れにラシャは言った。
ナセアは一瞬だが目の前が真っ白になった。ラシャの発した言葉が音としてしか理解できなかったのである。
何度か頭で反芻するうちにようやく、ナセアの中で彼の言葉が意味を成したとき、驚愕はなお大きくなった。
ただ一夜を共にしただけで、結婚と言う言葉が出てくるとは。
ナセアのみならず昨今のロティオールの社会にはありえない。彼女の中にはそういうある意味で常識的な意識があった。だから混乱し、返答に詰まった。
ただ沈黙したナセアの前に、ラシャが寝台から降りて跪く。美貌の王子はナセアを崇拝するように、陶然と見上げながら、最前から握ったままの彼女の手の甲に接吻した。
「こういうとき、どうしたらいいのかわからないんだ」
眉をひそめて、ラシャは悲しいような甘えるような眼差しをした。声さえも震えている。
「無理よ」
ナセアはうろたえて口走った。唇からその音が漏れた後に、少し間をおいて、
「私は、もう故人とはいえグローセン男爵の夫人で、まだその縁は終わっておりません。それにそもそも当代の第二王子のあなたとは釣合いがとれる身分でもありません。…まして、私はあなたより十年も歳をとっていますわ」
低い声でラシャに道理を諭すように言い、言葉の途中で何度か首を横に振った。
「年齢的にも、ご身分柄でも釣合いが取れるお相手としてラシャ様にお似合いなのは、お若くお美しいワナン様のような姫様でしょう。」
「ワナンなど、関係ない」
身分も、年齢も関係が無い、とラシャは、ナセアの語尾にかぶせるように強く否定する。
それを聞いて、目を伏せて目蓋を震わせながら、ナセアは悦を覚えている。
暗闇の中で躊躇いがちにナセアの肌に触れたラシャの手を誘ったのは、そもそも宴の席で彼女を「ふしだら」と嘲笑したワナンの想い人である彼を身体で奪い取ってやろうという目的を持っての行動だった。
純潔の淑女を誇る小娘のワナンであっても、誰よりも先に恋したラシャの接吻を受け彼の腕に抱擁されることを夢見ているのだ。いずれ時季が到来した折には、と彼から求められるように遠まわしに策を弄することが、ワナンなどの淑女気取りの女たちのたしなみなのだ。
所詮、遅かれ早かれ為すことを為すのである。それを心の底から望んでいるくせに、直接に具体的な行動を起こすものを「ふしだら」とあざ笑う。
それがどうだ。
高慢ちきな小娘が心底では欲している行為そのもので、彼女の想い人をナセアは奪ってやった。彼はナセアに対して跪いて求婚までしている。
ワナンなど関係がないと否定したラシャの言葉を、そのままあの淑女気取りの小娘に聞かせてやりたいものである。心中で快哉を叫んでいた。
しかしながら、ナセアにとっても予想外だったことがある。ラシャがひたむきに彼女を見つめていることだ。
胸が痛くなるほど真っ直ぐな、熱を帯びた強い瞳。
昨夜。
何の予兆もなくナセアに触れられ、狼狽した彼に向かって、ナセアは、男と女が愛し合う行為の実際を、身をもって説いた。そこに生じる心身の変徴も当然のことだと耳元に囁きかけて、彼の羞恥や理性などと言ったものを、本能の下に沈めてやった。
とても簡単なことだった。
それよりも、ラシャからのこの求婚への返答のほうがずっとずっとナセアにとっては難問である。だからといって、ワナンの高慢な鼻を折ってやろうとしてラシャを誘ったとは、もう言えない。
ラシャは、ナセアと離れたくない離れられないと呟くように訴えている。やがて立ち上がって彼女を力を込めて抱きしめた。
「考える時間を下さいませ」
ナセアは懇願した。胸がひどく痛んでいる。
世間知らずのぼうやは話がわからなくて鬱陶しい、という冷めた思いと、ワナンへの腹いせに誘惑しただけなのに、それと気づかず、ナセアとこれからも愛し合うのだと無邪気に信じるラシャへの罪悪感が、彼女を二分していた。
とにかく、ラシャには陽が昇りきる前に自室に戻るように促し、この一夜のことは、時が来るまでは誰にも、たとえ彼の従者や親友や父親と言えども絶対に内密にすることを約束をさせた。