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昨夜は。
某国の大使の館から深夜に宮殿内の自室に帰宅した。帰宅することは明け方であったり、あるいはその次の夕刻であることさえある。
ナセアとしては各国の大使は付き合いやすい相手である。妻を伴っていない者ならなおさらである。任期が終わればいなくなるのであとくされもない。それにロティオール国内では珍しい品物を贈ってくれる。彼女より身分の低い男たちであるが、結婚するわけではないから、立場など関係はない。
どうでもいいのよ、とナセアは思う。
どうにもつまらない時間をつぶしてくれるだけの相手で、少なくとも一緒に居る間に居心地が悪くなければそれで良い。相手が求めるなら身体など明け渡しても構わない。少なくとも彼女が付き合っている男たちにはそれ以上に感情の中に踏み込んでくるような者もいなかったし、責任を負おうという者も居なかった。
彼女も男に心の中のことまで踏み込んでほしいとは望まなかったし、責任を持たせるつもりなども全くなかった。その場その場で顔だけでも笑って過ごせればよく、要するに未来への期待は何も無いのだ。
思い入れたり、期待したりして裏切られるのは御免だ。そういう重たいものから開放されている状態に、ナセアにはなんの不満もなかった。
貞淑であることを誇りにする女たちがどんなにナセアに苦情を言い立てても、忠言めいたことを告げても、行動をあらためるつもりなどない。却って、気ままに過ごせない貴婦人たちに、うらやましいのだろう、気の毒に、と言ってやりたい気持ちさえある。
あなたのためを思って、と痛烈に苦言を呈し、それをさえ聞き流すナセアに背を向けた親しい人々も居た。
だが、誰が、私の何を知っていると言うのだろう。ナセアは髪を梳きながらつぶやいた。
この年の王の戴冠記念日の式典は、サンサとの戦中ということもあって、小規模に行われた。
その堅苦しい形式に則った儀式のあとの宴席は、まだ堅さの残る始めの頃はナセアにとっては居心地の悪いものだ。付き合っている男たちも、そのときはまだ身分柄の座席について、妻の居る者は傍らに正妻を従えている。寡婦のナセアは一人である。
宴席が雑駁になった頃は、ナセアは良く出入りしている詩の朗読会のサロンの仲間などと壁際の一角に集まって歓談をしていた。詩の朗読会といってもそれは名目上で、ただ集まって食事をして茶を飲んで酒を飲んで語らうだけの仲間なのである。ナセアが付き合ったことのある男たちも何人かは居る。彼女は他にもいくつかの会合に行っているが、そういう人々の中から関係を持つ男性を見つけるのである。
ナセアは顔も見たくない人間がこの場に居ることにいらだっている。
なぜか、サンサの戦線から離れ、総督であるはずのヴェアミン大公が居る。
身分も高く、また回りにかしずく人間を従えるのが好きなヴェアミンだけに、大勢の取り巻きに囲まれていた。
その中には彼自慢の長男のラスデロスと、特に自慢にしている娘のワナンが居る。
ラスデロスは父のヴェアミンが喧伝するほどには立派な少年ではないことは既に周知のことだが、十四歳になるワナンは宣伝どおりの美少女であった。
彼女の美貌は、生まれながらの質もあるのだろうが、おそらくは有り余る財を投じての手入れの賜物であろう。卵形の輪郭の頬が柔らかに微笑みを作っている。悪戯な光を湛えた青い目も大きく、瞳を彩る睫毛も豊かで、鼻筋も細く通っており、唇の形も美しい。少女にしては紅が濃いかもしれないが、腕の良い化粧師を雇っているようで、描かれた眉の弧も実に愛らしい表情を見せていた。
衣装にもいやみなほど贅を尽くしている。つややかな金髪に、あふれんばかりの宝石をつけたティアラを載せ、細い滑らかな首周りにも重たいほどに宝石をまとわせ、光り輝かせている。ドレスもまた、高価な薄絹を何枚にも重ねたスカートは微妙な桃色を軽やかに奏で、彼女が身動きをするたびに柔らかく魅惑的にゆれていた。
ヴェアミンの「取り巻き」になる何々伯爵だのなんとか子爵だのが居り、それと共に、その奥方や令嬢はワナンの取り巻きとしてかしずいていた。
ワナンの取り巻きの中に、異色の存在がある。
所在ないような戸惑った表情で、ワナンに左腕を掴まれて立っているだけの少年。光沢のある水色の上着に、細身の濃紺の下裾着。上着の衿元と裾まわりの刺繍に細工を凝らしてある、贅沢な衣装であった。
その贅沢な出で立ちにも引けを取らないほど、少年の容貌が際立って美しい。その少年が誰であるか、は、ナセアだけでなくこの場の誰もがわかっている。先ほどまでの式典では、彼は身分柄の位置に座があり、そこの席についていたからだ。
第二王子のソント公こと、ラシアヴィラム・ダレイス・カザである。まだまだ少年ではあるが、成人にも扱われる十五歳になり、ようやくソント公として公の場に姿を現したということだろうか。
ロティオールのこの場に居ない貴族も、この場に出席できた貴族も、こういった場に出てきた「ラシャ王子」をこれまでには見たことが無かっただろう。
ラシャ自身、宴にあまり出てきたことが無いだけに、顔見知りも少ないらしく、ただ、いとこのワナンに腕を掴まれながら落ち着かない顔で周りを見回していた。
誰もが、彼を見つめている。ナセアも興味を持って美貌の王子を見ている。
ラシャは、彼の母親のような卵型の輪郭の中に、やや鋭いが涼しげな眼差しの青い瞳を蔵している。凛々しい眉、高く通った鼻筋、緩みの無い唇、何をとっても彼の周りの娘たちよりも華麗な容貌であった。
それでいて男性的なのは、肌がよく陽に焼けて浅黒いためだろうか。つややかな黒髪がその美貌をさらに神秘的にさせていた。
まだ一五歳という年齢もあり肩の線が細いが、高くしなやかに天に伸びた肢体は、均整の取れた彫像のようだった。
誰もが眼を奪われる美貌である上に長身のためラシャはさらに目立つ。
つまらなそうに周りを見渡し、時折、ワナンに話しかけられて一言二言をかわす。それからワナンと言葉を交わしていたらしい他の人に一瞥を与えて、またよそを向く。そんな仕草を繰り返していた。
周りを見渡していたラシャと、それを遠望していたナセアと視線が合った。礼儀としてナセアはすこし頭を下げて会釈をする。ラシャが合点の行った表情で同じように少しだけうなずいた。二年ほど前に一度だけ会ったことを思い出したのだろうか。
直後に、ワナンがナセアを見て、険しい表情でにらみつけた。
「あんな方に挨拶すること無いわ。あの方はね、ふしだら、なんですって。お父様もお母様も皆様もそう言っているわ」
ナセアの耳に届くほどに鋭い声であった。同時にワナンはラシャの手をさらに引いて、ナセアのほうに背を向けさせた。
ひどく辱められた形になって、ナセアの扇を持つ手に力がこもった。
ちやほやされているだけの少女に、嘲笑された。
それだけではない。
誰のせいで未亡人になったか、あの少女は知っているのだろうか。
無能な指揮官であるヴェアミン大公、つまりワナンの父親のせいで、ナセアの夫であるジェイは死んだのではないか。そのためにナセアは今のような寡婦になった。知っているのだろうか。
他の誰に見下されても笑って聞き流せるナセアだったが、ワナンには、と言うよりヴェアミンに近しい者には言われたくなかった。
何がわかっているというのだろう、世間知らずの甘ったれの小娘め……。ナセアは大声で叫びそうになるのを懸命にこらえた。
大きな権力をもつヴェアミンに逆らうことができない身分の悲しさが、辛かった。
「失礼……」
ただそれだけを告げてその場を立ち、バルコニーに出るだけで精一杯である。
憤りに鼓動が激しくなっている。