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 南への旅行から帰ってからほぼひと月の後。

 ジェイが出征する日が来てしまった。


 旅からの帰路の頃から、ジェイの口数が少しずつ減り、時折悩ましい表情を見せるようになっていた。仕方のないことだが、ナセアにはそれも心配をかきたてられるようで不満であった。

 普通に二人で季節の話などしている間に、ジェイは不意にナセアを強く抱きしめたり、昼の日の高いうちから次の朝になるまで彼女を求め続けたり、そういう行動を取ることが多くなっていた。

 無事で戻ってください、と時には口に出した。多くは心の中だけで、ジェイの厚い胸に抱きしめられながらナセアはそれを強く祈った。

 愛している、とジェイは答えた。結婚してからナセアが請い願っても照れくさがってなかなか口にしなかった言葉だった。


「ナセア、俺は女々しいだろうか? 離れたくないんだ」

 前夜からジェイの欲求に応え続けて朦朧としたナセアの耳に、夜明け近くに彼の泣く様な声が届いた。ナセアはただ首を横に振るだけしかできない。

 国の命令で決まってしまったことを覆すことなどできるはずがなく、ナセアもジェイもただ従うだけなのだ。

 まもなくジェイは彼女の元を離れて、サンサという異国の戦場に赴かねばならない。そしてナセアはジェイを遠方に連れていかれ、少なくとも一年は一人残されてしまう。

「ご無事で、どうか……」

その先のナセアの声は、ジェイの唇に遮られて続けられなかった。


 それから三ヶ月でナセアは未亡人となった。

 ジェイは、ナセアは知らなかったことだが、実は乗馬と槍が特に巧みで男たちの間では知られた存在だったそうだ。戦場ではそれを買われ総督の王弟ヴェアミン大公の親衛隊を任される身となっていた。彼自身も、彼以外の他の者たちもそれは名誉のことだと最初の頃の手紙に書いてもいた。

 しかしひと月ほど経ってからナセアの元に来たジェイの手紙によると、ヴェアミン大公とは自尊心やうぬぼれが強く、どこか自軍を過大評価する面があると分析していた。

 戦場の駆け引きにおいても、武人の礼儀だの美学だのといった精神論を持ち出し、奇襲や斥候による情報収集を卑怯だといい、さらには新兵器なども邪道だと言って採用など認めない。そのため、その総督の作戦には無理があり、一見勇ましいようでも、ただ正面をだらだら攻撃しているだけで犠牲が多く成功するところが少ない。そんなことも言っていた。

 それで居ながら、ロティオールの国表には華麗な装飾を施した文章で楽観的な報告のみを送り、自らの力量を自ら喧伝することがはなはだしいために、国内では彼は名将軍だと思われている。とんだ勘違いだ、とジェイにしては珍しく、批判がましい愚痴めいたことを書き送ってきた。

 それを読んだときには、ナセアは戦場のジェイに同情した。

 ナセアもまた、ヴェアミンの自己満足な宣伝に基づく宮中の噂で、一見戦線が膠着しているように見えるがかの大公が名将であるから、かろうじてサンサを食い止め得ているのだ、と皆と同じように思っていたのである。


 そして、ある日。

 ヴェアミン大公の発案による総督自らの前線の督戦に同行したジェイは、その派手やかな行列を標的に奇襲してきた敵の遊撃部隊によって殺された。

 わが部下にふさわしく勇戦し壮烈な戦死であったと、ヴェアミン大公からの賛美と悔やみの手紙も届いている。

 だがありようは。

 ジェイと親しく、そのとき共に親衛隊の副官としてヴェアミンにしたがっていた彼の友人によると、三日くらい前に全軍に予告した上での督戦で、それが当たり前だが敵に漏れ、そのうえ如何にも派手好みの総督らしい行列を繰り出したがために、すぐに敵の標的となった、という。

 その上、敵に襲われた途端にヴェアミンは逃げ出し、そのだらしのない遁走に引きずられて陣が崩れかかった。それを立て直すために、殿(しんがり)に戻って戦ったジェイが、戦死したのだそうだ。

 言いたくはないが、とジェイの友人は、歯軋りの音を立てながらつぶやいた。

 敵に殺されたと言うよりは、無為無策でかつ無謀な総督に殺されたのだと言っていい、と。

 その友人は、腕と足を折る重傷のために帰国を許され、包帯だらけの体で、ジェイの遺髪と、死んだ日に着ていた衣服を宮殿内のナセアの元に持ってきてくれたのだった。


 ジェイは即死ではなく、重傷の状態で自軍に戻り、死んだのだそうだ。

「ナセアに、謝らなければ、と……」

それが最期の言葉だったらしい。

 それを聞いたとき、ナセアは気を失って倒れた。


 それから二~三ヶ月の間は、ナセアの中では記憶がない。

 葬儀を行い、戦場から送り返された彼の遺品の整理などをしながら、ただ泣き暮らしていただけである。

 好きで結婚した相手ではなかった。

 ただ家同士の間で決められたことに従って、結婚すると決まってから初めて会い、この程度の人か、と落胆するような思いでナセアはジェイに嫁いできたのだ。

 夫婦となってからも、顔を見てもときめきがあるわけでもなく、皮肉を言っても通じず、機知に富んでいるわけでもなく、怒ることもない。ただの歯ごたえのない男だとしか思えなかった。

 わざと困らせることばかりをいい、わざと拗ねて見せたり無理なわがままを言い出しても、気まぐれに振り回しても、彼は怒ることもなく、ただ彼女の言うなりだった。

 そんなジェイを見ていて、じれったくもうっとうしくもあったナセアだった。

 それでもそんなふうに、懸命にナセアを受け止めようと努力するジェイの妻であることが、いつの間にか当たり前になっていった。取り立てて特徴もない平板なジェイの顔を見ていることがナセアにとって気持ちの安定になり、居心地のいい夫婦の環境ができていた。

 ジェイがサンサに行ってしまうことになって初めて、その居心地のいい環境を失うと知って初めて、ナセアはジェイをかけがえのない人なのだと強く認識するようになっていた。

 胸が高鳴るわけでもない、頬が熱くなるのでもない。そういう穏やかな愛情をジェイがいつの間にかナセアの中に根付かせていたことを知った。胸を高鳴らせ、頬を熱くして口づけしたり抱きあったりすることだけが愛ではなかった。

 ジェイとすごした年月がなければ、ナセアは一生それに気づかなかっただろう。

 だから、ジェイが帰ってきたら、自分から、愛していると彼に言おうとナセアは心に決めていたのだった。


 

 そんなナセアだったが。

 二十五歳になっている今、貞淑な人々からは白眼視される生活に浸っている。

 領地にはほとんど寄り付くこともなく、彼女はただキーウの屋敷と、宮殿内に与えられた部屋にばかり居た。夫のジェイがなくなってからは、ますますグローセン領には足が遠のき、首都の中の屋敷にさえ赴かずに、どちらかというと宮殿内に住いしているようなものであった。


 常に恋人が三人は居た。だが長く付き合った男は少ない。続いても一月程度。男を渡り歩くふしだらな女と貴族たちの間では好奇の目で見られるようになってしまっている。

 身分は故グローセン男爵の未亡人。父親はツィング子爵、母親は現王の庶腹の姉、従って王の姪という血筋でもある。

 年齢にふさわしく豊艶な容貌に華やかな化粧を凝らし、誇りやかに実った胸元を強調する衣装を身につけ、人を振り向かせずに居られない媚態を示す。間近に語らえば、その蟲惑に抗える男は少ない。

 蜜が滴るような色香をたたえた、妖艶な女性そのものであった。



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