余命わずかなわたしは、不器用な辺境伯様と静かな余生を送るはずだった。——なのに、どうして"明日"のわたしの日記は、もう『あなたへの愛の言葉』で、埋まっているの?
余命わずかだと告げられたとき、不思議と、涙は出なかった。
わたし――マチルダ・アーレンスは、静かにそれを受け入れた。
華やかな社交も、長い未来も、もう望めない。
それなら、せめて残された時間を、誰にも急かされず、穏やかに過ごしたい。
そう願って、わたしは辺境の地へと嫁ぐことを、自分で選んだ。
両親は、最後まで反対した。
余命わずかな娘を、こんな遠い辺境へやるなんて、と。
けれど、わたしの心は、決まっていた。
同情の目に囲まれて、寝台の上で終わりを待つより。
知らない土地で、自分の足で、最後まで生きたかったのだ。
長い馬車の旅の果て、辺境の城は、灰色の空の下に、ぽつんと佇んでいた。
寂しい場所だと、誰もが言うだろう。
でも、わたしには、なぜだか、ずっと帰りたかった場所のように思えた。
相手は、寡黙で不器用だと評判の辺境伯、コンラート・フォン・ヴァイデン様。
「……あなたに、無理はさせない」
初めて会った日、コンラート様はそれだけ言って、ぷいと目を逸らした。
大きな体を縮めるようにして、耳が少し赤くなっていた。
「あの、コンラート様。ひとつ、申し上げておきたいのです」
「……なんだ」
「わたし、もう長くは生きられません。ですから、あまりお気を遣っていただかなくても……」
「気など、遣っていない」
彼は、ぶっきらぼうに、わたしの言葉を遮った。
「ただ、君が。……一日でも、笑って過ごせればいい。それだけだ」
「……それは、じゅうぶん、お優しいと思います」
「……そう、か」
彼は、大きな手で口元を隠して、また目を逸らした。
その耳が、さっきよりもっと、赤くなっていた。
不器用な人だと、わたしは思った。
そして、その不器用さが、なぜだか少しだけ、あたたかかった。
* * *
辺境での日々は、驚くほど穏やかだった。
コンラート様は、言葉こそ少ないけれど、わたしの一日を、壊れ物の宝物みたいに扱ってくれた。
朝、わたしが咳き込めば、いつのまにか背中に、そっと手が添えられている。
寒い日には、暖炉のいちばん近い椅子が、当たり前のように空けてある。
「……体に、障る」
散歩の途中、彼はよく、ぶっきらぼうにそう言って、自分の外套をわたしに着せた。
自分は寒そうにしているくせに。
「コンラート様は、お優しいのですね」
「……優しく、なんかない」
耳を赤くして、彼はそう呟く。
そのたびに、わたしの胸は、じんわりとあたたかくなった。
ある日、庭のすみれを見つめていたわたしに、彼は不器用な手つきで、その一輪を摘んで差し出した。
「……好きなのか。これが」
「はい。小さくて、健気で……わたし、すみれが大好きです」
「そうか」
彼はしばらく黙って、それから、ぽつりと言った。
「……なら、毎日、咲かせる」
「ふふ。お花は、そんなに毎日は咲きませんよ」
「……いや」
彼は、なぜか少しだけ、苦しそうな顔をした。
「咲かせて、みせる。君が、好きなだけ」
その言葉を、わたしはただの優しさだと思って、笑った。
彼の優しさは、いつも、少しだけずれていた。
わたしが夜に眠れないと知ると、彼は分厚い本を持ってきて、朗読を始めた。
けれど選んだのが、辺境の兵法書だったものだから。
わたしはおかしくて、けれど嬉しくて、笑いながら眠ってしまった。
「……つまらなかったか」
翌朝、彼は本気で落ち込んでいて。
「いいえ。世界でいちばん、素敵な子守唄でした」
わたしがそう言うと、彼は、赤くなって黙り込んだ。
言葉で気持ちを伝えるのが、彼は、とことん苦手だった。
その代わり、彼の想いは、いつも、小さな行いの中にあった。
わたしが好きだと言った焼き菓子が、次の日には、食卓に並んでいる。
読みかけていた本の続きが、いつのまにか、枕元に置いてある。
「コンラート様。これ……」
「……たまたま、見つけた」
たまたま、なわけがない。
彼は、わたしの何気ないひと言を、ぜんぶ、覚えていてくれるのだ。
まるで、この一日を、隅々まで知り尽くしているみたいに。
余命わずかなこの身にも、こんなに穏やかで幸せな時間が、まだ残されていたなんて。
わたしは毎晩、その日にあった小さな幸せを、日記に綴った。
* * *
――ただ一つ、不思議なことがあった。
ときどき、時間が、飛ぶのだ。
夜、コンラート様と二人、窓辺で満天の星を眺めていたはずなのに。
ふと気づくと、もう、次の朝の光の中にいる。
「……また、飛んでしまったわ」
「……大丈夫か」
時間が飛ぶたび、コンラート様はわたしの顔を覗き込んで、掠れた声でそう尋ねた。
まるで、ずっとそばで、わたしが戻ってくるのを待っていたみたいに。
「はい。あなたがいてくださるから、平気です。……でも、変ですね。わたしの体、少し気が早いのかしら」
「……気に、するな」
彼は、ほっとしたように息を吐いて、それから、泣きそうな顔で少しだけ笑った。
きっと、病のせいね。
余命の近づいた体は、時間の感じ方まで、おかしくなるのかもしれない。
そう思うことにして、わたしは静かに、微笑んだ。
時間が飛ぶのは、決まって、一日の終わり際だった。
その日いちばん幸せな瞬間の、少しあと。
まるで、そこで一日が、そっと巻き戻されるみたいに。
「コンラート様は、時間が飛んでも、驚かないのですね」
あるとき、わたしはふと、そう尋ねた。
彼の肩が、びくりと震えた。
「……慣れて、いるからな」
「まあ。慣れるものなのですか、こういうことに」
「……ああ。いやというほど」
彼はそう言って、遠くを見るような目をした。
その横顔が、なぜだかとても、寂しそうで。
わたしは思わず、その大きな手を、握った。
夜、暖炉の前で。
コンラート様は、ぽつぽつと、昔の話をしてくれた。
辺境の冬のこと。子どもの頃に拾った犬のこと。
口下手な彼が、それでも一生懸命、話題を探してくれているのが分かって。
わたしは、それがたまらなく、愛おしかった。
「コンラート様は、お話が、お上手ですね」
「……嘘を、つくな」
「ふふ。本当ですよ。わたし、あなたのお話を聞くのが、いちばん好きです」
彼は、ぐっと言葉に詰まって、そっぽを向いた。
「ねえ、コンラート様」
わたしは、暖炉の火を見つめながら、静かに言った。
「わたしがいなくなっても。……どうか、あなたは、笑って生きてくださいね」
その瞬間。
彼の手にしていた火かき棒が、からん、と床に落ちた。
「……そんな日は、来ない」
彼は、低い声で、絞り出すように言った。
「そんな日は、来させない。……絶対に」
わたしは、その言葉を、優しい慰めだと思った。
まさか、それが彼の、本気の誓いだなんて、知らずに。
* * *
それに気づいたのは、いつもより少し早く目が覚めた、朝だった。
日記を書こうと、寝台の脇の日記帳を開いた。
昨日の分の、次のページ。
つまり――まだ来ていない、"明日"のページ。
そこに、わたしの筆跡で、びっしりと、文字が綴られていた。
『今日も、コンラート様と生きられて、幸せ』
『あなたと出会えて、本当によかった』
『どうか、明日も、あなたのそばにいられますように』
――どうして。
わたしは、まだ、その日を、生きていないのに。
指先が、震えた。
たしかに、わたしの字だった。
けれど、こんなことを書いた覚えは、ない。
そういえば、と、背筋が冷たくなる。
コンラート様と交わす、朝の挨拶。散歩で通る、同じ小道。夕餉の献立まで。
――わたしは、この一日を、前にも生きた気がする。
何度も、何度も。
「……マチルダ」
背後から声がして、わたしは飛び上がった。
振り返ると、コンラート様が、青ざめた顔で、日記帳を見つめていた。
「それは……見なくて、いい」
彼の手が、わたしから日記帳を取り上げた。
その手が、ひどく震えていた。
「コンラート様。これ、どういうこと、ですか」
「……なんでも、ない」
「でも、わたしの字で、"明日"のことが、もう……」
「マチルダ」
彼は、わたしの両肩を、そっと掴んだ。
「頼む。……何も、考えなくていい。ただ、今日を、幸せに過ごしてくれ。それだけで、いいんだ」
その目が、あんまり必死で。
わたしは、それ以上、何も訊けなくなってしまった。
けれど、一度気づいてしまうと、もう、止まらなかった。
朝、井戸端ですれ違う侍女が、何と言うか。
昼、コンラート様が、どの木の下で足を止めるか。
わたしには、なぜか、先に分かってしまうのだ。
夕暮れ、彼がそう言うより先に。
わたしの唇は、同じ言葉を、形づくっていた。
「今日は、風が、冷たいですね」
コンラート様が、はっと、わたしを見た。
その顔が、泣きそうに、歪んだ。
「……ああ。そうだな。今日は、冷たい」
わたしたちは、この一日を、いったい何度、繰り返しているのだろう。
そう思っても、不思議と、こわくはなかった。
だってその繰り返しの中には、いつも、この人がいるのだから。
* * *
その夜、わたしは、眠れなかった。
隣で眠るコンラート様が、ふいに、うなされ始めた。
「……もう一度」
苦しげに、彼は呟いた。
「もう一度だけ。……あと一度だけ、頼む」
やがて、うなされる声は、途切れた。
わたしがそっと寝返りを打つと、隣にいたはずの彼の姿が、なかった。
寝台の、彼の側は、もう、ひんやりと冷たい。
わたしは、寝台を抜け出した。
廊下の奥から、かすかな灯りが漏れている。
その光に誘われるように歩いていくと、彼が時々こもる、屋敷の奥の一室。
その扉が、細く開いていた。
覗き込んで、わたしは息を呑んだ。
床に、見たこともない、古い魔法陣が描かれている。
その中心で、コンラート様が膝をつき、古い懐中時計を、両手で握りしめていた。
魔法陣の周りには、無数の、燃え尽きた蝋燭。
まるで、幾晩も、幾晩も、ここで同じことが繰り返されてきたみたいに。
懐中時計の針は、なぜか、進んでいなかった。
同じ時刻を指したまま、こきり、こきり、と、逆さに時を刻んでいる。
彼の頬を、涙が伝っていた。
「……コンラート様」
声をかけると、彼は、はっと振り返った。
そして、崩れるように、わたしを抱きしめた。
「……すまない。すまない、マチルダ」
「どうして、謝るのですか」
「俺は……俺は、どうしても」
「ねえ、教えてください」
わたしは、彼の背中を撫でながら、静かに尋ねた。
「わたしの時間、何か、おかしいのでしょう。あなたは、何を、隠しているの」
長い、長い沈黙のあと。
彼は、壊れてしまいそうな声で、言った。
「……君との、今日を」
抱きしめる腕に、力がこもる。
「手放したく、ないんだ。……どうしても」
「今日、を……?」
「ああ。君が笑って、幸せそうにしている、この一日を」
彼の声が、震えていた。
「何度でも、何度、やり直しても。……俺は、君のいない明日より、君のいる今日を、選んでしまう」
「わたしの、いない、明日……?」
わたしが呟くと、彼は、はっと口をつぐんだ。
「……いや。なんでも、ない。忘れてくれ」
「コンラート様」
「頼む。……訊かないでくれ。俺は、これでいい。これが、いいんだ」
その言葉の意味は、やっぱり、わたしには分からなかった。
わたしはただ、余命の近い自分を、この人がどれほど大切に想ってくれているか。
それだけを、感じていた。
だから、わたしは、彼の頬の涙を拭って、微笑んだ。
「大丈夫ですよ、コンラート様。わたしは、ここにいます。今日も、あなたの隣に」
彼が少しでも、安らげるように。
わたしは、その大きな体を、抱きしめ返した。
* * *
それから、わたしの毎日は、変わらず穏やかに過ぎていった。
コンラート様は、相変わらず不器用で。
けれど、その優しさは、日ごとに深くなっていくようだった。
時間は、今も、ときどき飛ぶ。
日記の"明日"のページは、今も、先に埋まっている。
でも、わたしはもう、それを気にしないことにした。
だって、そこに書かれているのは、いつだって。
『あなたと生きられて、幸せ』
その一言だけ、なのだから。
ただ、コンラート様は、少しずつ、やつれていくようだった。
目の下の隈も、日ごとに、深くなっていく。
「コンラート様。あなた、ちゃんと眠れていますか」
「……ああ。問題、ない」
「無理をなさらないで。わたしのために、あなたが倒れてしまったら、悲しいです」
「……悲しむ、君が。今日も、ここにいる」
彼は、大切な宝物を確かめるように、わたしの頬に触れた。
「それで、いいんだ。……それだけで、いい」
その夜も、わたしは日記を開いて、今日の分を綴った。
コンラート様が、庭のすみれを一輪、髪に挿してくれたこと。
夕餉のとき、不器用に「……うまいか」と何度も訊いてくれたこと。
ひとつひとつの、ささやかで、あたたかな幸せを。
そして最後に、こう書き添えた。
『どうか、明日も、あなたといられますように』
「……何を、書いているんだ」
いつのまにか隣に来ていたコンラート様が、ぶっきらぼうに尋ねる。
「秘密です」
わたしがくすくす笑うと、彼は、少しだけ拗ねたように目を逸らした。
「ねえ、コンラート様」
わたしは、彼の手に、自分の手を重ねた。
「明日も、わたしのそばに、いてくださいますか」
コンラート様は、一瞬、泣きそうな顔をして。
それから、わたしの手を、痛いくらいに強く握り返した。
「……ああ」
深い緑の瞳が、まっすぐに、わたしを見つめた。
「明日も、君といる。……ずっと、ずっとだ」
その約束が、どれほど深く、どれほど途方もないものなのか。
――わたしは、生涯、知らないままだった。
けれど、それでよかったのだと思う。
だってわたしは、今日も、この人の隣で、こわいくらいに、幸せなのだから。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。蜜月 憂です。
コンラートが、どれほどの代償を払って"今日"を守り続けているのか――マチルダはそれを知らないまま、今日も、明日も、幸せに笑っています。
その"明日"がいつまでも来ないことを知っているのは、読んでくださったあなただけ。どうか、二人の永遠の一日を、そっと見守っていただけたら嬉しいです。
「ゾクッとして、キュンとして、少し泣ける」を楽しんでいただけたなら、★やブックマーク、ご感想が、次を書く力になります。




