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余命わずかなわたしは、不器用な辺境伯様と静かな余生を送るはずだった。——なのに、どうして"明日"のわたしの日記は、もう『あなたへの愛の言葉』で、埋まっているの?

作者: 蜜月 憂
掲載日:2026/07/09

余命わずかだと告げられたとき、不思議と、涙は出なかった。


わたし――マチルダ・アーレンスは、静かにそれを受け入れた。


華やかな社交も、長い未来も、もう望めない。


それなら、せめて残された時間を、誰にも急かされず、穏やかに過ごしたい。


そう願って、わたしは辺境の地へと嫁ぐことを、自分で選んだ。


両親は、最後まで反対した。


余命わずかな娘を、こんな遠い辺境へやるなんて、と。


けれど、わたしの心は、決まっていた。


同情の目に囲まれて、寝台の上で終わりを待つより。


知らない土地で、自分の足で、最後まで生きたかったのだ。


長い馬車の旅の果て、辺境の城は、灰色の空の下に、ぽつんと佇んでいた。


寂しい場所だと、誰もが言うだろう。


でも、わたしには、なぜだか、ずっと帰りたかった場所のように思えた。


相手は、寡黙で不器用だと評判の辺境伯、コンラート・フォン・ヴァイデン様。


「……あなたに、無理はさせない」


初めて会った日、コンラート様はそれだけ言って、ぷいと目を逸らした。


大きな体を縮めるようにして、耳が少し赤くなっていた。


「あの、コンラート様。ひとつ、申し上げておきたいのです」


「……なんだ」


「わたし、もう長くは生きられません。ですから、あまりお気を遣っていただかなくても……」


「気など、遣っていない」


彼は、ぶっきらぼうに、わたしの言葉を遮った。


「ただ、君が。……一日でも、笑って過ごせればいい。それだけだ」


「……それは、じゅうぶん、お優しいと思います」


「……そう、か」


彼は、大きな手で口元を隠して、また目を逸らした。


その耳が、さっきよりもっと、赤くなっていた。


不器用な人だと、わたしは思った。


そして、その不器用さが、なぜだか少しだけ、あたたかかった。


* * *


辺境での日々は、驚くほど穏やかだった。


コンラート様は、言葉こそ少ないけれど、わたしの一日を、壊れ物の宝物みたいに扱ってくれた。


朝、わたしが咳き込めば、いつのまにか背中に、そっと手が添えられている。


寒い日には、暖炉のいちばん近い椅子が、当たり前のように空けてある。


「……体に、障る」


散歩の途中、彼はよく、ぶっきらぼうにそう言って、自分の外套をわたしに着せた。


自分は寒そうにしているくせに。


「コンラート様は、お優しいのですね」


「……優しく、なんかない」


耳を赤くして、彼はそう呟く。


そのたびに、わたしの胸は、じんわりとあたたかくなった。


ある日、庭のすみれを見つめていたわたしに、彼は不器用な手つきで、その一輪を摘んで差し出した。


「……好きなのか。これが」


「はい。小さくて、健気で……わたし、すみれが大好きです」


「そうか」


彼はしばらく黙って、それから、ぽつりと言った。


「……なら、毎日、咲かせる」


「ふふ。お花は、そんなに毎日は咲きませんよ」


「……いや」


彼は、なぜか少しだけ、苦しそうな顔をした。


「咲かせて、みせる。君が、好きなだけ」


その言葉を、わたしはただの優しさだと思って、笑った。


彼の優しさは、いつも、少しだけずれていた。


わたしが夜に眠れないと知ると、彼は分厚い本を持ってきて、朗読を始めた。


けれど選んだのが、辺境の兵法書だったものだから。


わたしはおかしくて、けれど嬉しくて、笑いながら眠ってしまった。


「……つまらなかったか」


翌朝、彼は本気で落ち込んでいて。


「いいえ。世界でいちばん、素敵な子守唄でした」


わたしがそう言うと、彼は、赤くなって黙り込んだ。


言葉で気持ちを伝えるのが、彼は、とことん苦手だった。


その代わり、彼の想いは、いつも、小さな行いの中にあった。


わたしが好きだと言った焼き菓子が、次の日には、食卓に並んでいる。


読みかけていた本の続きが、いつのまにか、枕元に置いてある。


「コンラート様。これ……」


「……たまたま、見つけた」


たまたま、なわけがない。


彼は、わたしの何気ないひと言を、ぜんぶ、覚えていてくれるのだ。


まるで、この一日を、隅々まで知り尽くしているみたいに。


余命わずかなこの身にも、こんなに穏やかで幸せな時間が、まだ残されていたなんて。


わたしは毎晩、その日にあった小さな幸せを、日記に綴った。


* * *


――ただ一つ、不思議なことがあった。


ときどき、時間が、飛ぶのだ。


夜、コンラート様と二人、窓辺で満天の星を眺めていたはずなのに。


ふと気づくと、もう、次の朝の光の中にいる。


「……また、飛んでしまったわ」


「……大丈夫か」


時間が飛ぶたび、コンラート様はわたしの顔を覗き込んで、掠れた声でそう尋ねた。


まるで、ずっとそばで、わたしが戻ってくるのを待っていたみたいに。


「はい。あなたがいてくださるから、平気です。……でも、変ですね。わたしの体、少し気が早いのかしら」


「……気に、するな」


彼は、ほっとしたように息を吐いて、それから、泣きそうな顔で少しだけ笑った。


きっと、病のせいね。


余命の近づいた体は、時間の感じ方まで、おかしくなるのかもしれない。


そう思うことにして、わたしは静かに、微笑んだ。


時間が飛ぶのは、決まって、一日の終わり際だった。


その日いちばん幸せな瞬間の、少しあと。


まるで、そこで一日が、そっと巻き戻されるみたいに。


「コンラート様は、時間が飛んでも、驚かないのですね」


あるとき、わたしはふと、そう尋ねた。


彼の肩が、びくりと震えた。


「……慣れて、いるからな」


「まあ。慣れるものなのですか、こういうことに」


「……ああ。いやというほど」


彼はそう言って、遠くを見るような目をした。


その横顔が、なぜだかとても、寂しそうで。


わたしは思わず、その大きな手を、握った。


夜、暖炉の前で。


コンラート様は、ぽつぽつと、昔の話をしてくれた。


辺境の冬のこと。子どもの頃に拾った犬のこと。


口下手な彼が、それでも一生懸命、話題を探してくれているのが分かって。


わたしは、それがたまらなく、愛おしかった。


「コンラート様は、お話が、お上手ですね」


「……嘘を、つくな」


「ふふ。本当ですよ。わたし、あなたのお話を聞くのが、いちばん好きです」


彼は、ぐっと言葉に詰まって、そっぽを向いた。


「ねえ、コンラート様」


わたしは、暖炉の火を見つめながら、静かに言った。


「わたしがいなくなっても。……どうか、あなたは、笑って生きてくださいね」


その瞬間。


彼の手にしていた火かき棒が、からん、と床に落ちた。


「……そんな日は、来ない」


彼は、低い声で、絞り出すように言った。


「そんな日は、来させない。……絶対に」


わたしは、その言葉を、優しい慰めだと思った。


まさか、それが彼の、本気の誓いだなんて、知らずに。


* * *


それに気づいたのは、いつもより少し早く目が覚めた、朝だった。


日記を書こうと、寝台の脇の日記帳を開いた。


昨日の分の、次のページ。


つまり――まだ来ていない、"明日"のページ。


そこに、わたしの筆跡で、びっしりと、文字が綴られていた。


『今日も、コンラート様と生きられて、幸せ』


『あなたと出会えて、本当によかった』


『どうか、明日も、あなたのそばにいられますように』


――どうして。


わたしは、まだ、その日を、生きていないのに。


指先が、震えた。


たしかに、わたしの字だった。


けれど、こんなことを書いた覚えは、ない。


そういえば、と、背筋が冷たくなる。


コンラート様と交わす、朝の挨拶。散歩で通る、同じ小道。夕餉の献立まで。


――わたしは、この一日を、前にも生きた気がする。


何度も、何度も。


「……マチルダ」


背後から声がして、わたしは飛び上がった。


振り返ると、コンラート様が、青ざめた顔で、日記帳を見つめていた。


「それは……見なくて、いい」


彼の手が、わたしから日記帳を取り上げた。


その手が、ひどく震えていた。


「コンラート様。これ、どういうこと、ですか」


「……なんでも、ない」


「でも、わたしの字で、"明日"のことが、もう……」


「マチルダ」


彼は、わたしの両肩を、そっと掴んだ。


「頼む。……何も、考えなくていい。ただ、今日を、幸せに過ごしてくれ。それだけで、いいんだ」


その目が、あんまり必死で。


わたしは、それ以上、何も訊けなくなってしまった。


けれど、一度気づいてしまうと、もう、止まらなかった。


朝、井戸端ですれ違う侍女が、何と言うか。


昼、コンラート様が、どの木の下で足を止めるか。


わたしには、なぜか、先に分かってしまうのだ。


夕暮れ、彼がそう言うより先に。


わたしの唇は、同じ言葉を、形づくっていた。


「今日は、風が、冷たいですね」


コンラート様が、はっと、わたしを見た。


その顔が、泣きそうに、歪んだ。


「……ああ。そうだな。今日は、冷たい」


わたしたちは、この一日を、いったい何度、繰り返しているのだろう。


そう思っても、不思議と、こわくはなかった。


だってその繰り返しの中には、いつも、この人がいるのだから。


* * *


その夜、わたしは、眠れなかった。


隣で眠るコンラート様が、ふいに、うなされ始めた。


「……もう一度」


苦しげに、彼は呟いた。


「もう一度だけ。……あと一度だけ、頼む」


やがて、うなされる声は、途切れた。


わたしがそっと寝返りを打つと、隣にいたはずの彼の姿が、なかった。


寝台の、彼の側は、もう、ひんやりと冷たい。


わたしは、寝台を抜け出した。


廊下の奥から、かすかな灯りが漏れている。


その光に誘われるように歩いていくと、彼が時々こもる、屋敷の奥の一室。


その扉が、細く開いていた。


覗き込んで、わたしは息を呑んだ。


床に、見たこともない、古い魔法陣が描かれている。


その中心で、コンラート様が膝をつき、古い懐中時計を、両手で握りしめていた。


魔法陣の周りには、無数の、燃え尽きた蝋燭。


まるで、幾晩も、幾晩も、ここで同じことが繰り返されてきたみたいに。


懐中時計の針は、なぜか、進んでいなかった。


同じ時刻を指したまま、こきり、こきり、と、逆さに時を刻んでいる。


彼の頬を、涙が伝っていた。


「……コンラート様」


声をかけると、彼は、はっと振り返った。


そして、崩れるように、わたしを抱きしめた。


「……すまない。すまない、マチルダ」


「どうして、謝るのですか」


「俺は……俺は、どうしても」


「ねえ、教えてください」


わたしは、彼の背中を撫でながら、静かに尋ねた。


「わたしの時間、何か、おかしいのでしょう。あなたは、何を、隠しているの」


長い、長い沈黙のあと。


彼は、壊れてしまいそうな声で、言った。


「……君との、今日を」


抱きしめる腕に、力がこもる。


「手放したく、ないんだ。……どうしても」


「今日、を……?」


「ああ。君が笑って、幸せそうにしている、この一日を」


彼の声が、震えていた。


「何度でも、何度、やり直しても。……俺は、君のいない明日より、君のいる今日を、選んでしまう」


「わたしの、いない、明日……?」


わたしが呟くと、彼は、はっと口をつぐんだ。


「……いや。なんでも、ない。忘れてくれ」


「コンラート様」


「頼む。……訊かないでくれ。俺は、これでいい。これが、いいんだ」


その言葉の意味は、やっぱり、わたしには分からなかった。


わたしはただ、余命の近い自分を、この人がどれほど大切に想ってくれているか。


それだけを、感じていた。


だから、わたしは、彼の頬の涙を拭って、微笑んだ。


「大丈夫ですよ、コンラート様。わたしは、ここにいます。今日も、あなたの隣に」


彼が少しでも、安らげるように。


わたしは、その大きな体を、抱きしめ返した。


* * *


それから、わたしの毎日は、変わらず穏やかに過ぎていった。


コンラート様は、相変わらず不器用で。


けれど、その優しさは、日ごとに深くなっていくようだった。


時間は、今も、ときどき飛ぶ。


日記の"明日"のページは、今も、先に埋まっている。


でも、わたしはもう、それを気にしないことにした。


だって、そこに書かれているのは、いつだって。


『あなたと生きられて、幸せ』


その一言だけ、なのだから。


ただ、コンラート様は、少しずつ、やつれていくようだった。


目の下の隈も、日ごとに、深くなっていく。


「コンラート様。あなた、ちゃんと眠れていますか」


「……ああ。問題、ない」


「無理をなさらないで。わたしのために、あなたが倒れてしまったら、悲しいです」


「……悲しむ、君が。今日も、ここにいる」


彼は、大切な宝物を確かめるように、わたしの頬に触れた。


「それで、いいんだ。……それだけで、いい」


その夜も、わたしは日記を開いて、今日の分を綴った。


コンラート様が、庭のすみれを一輪、髪に挿してくれたこと。


夕餉のとき、不器用に「……うまいか」と何度も訊いてくれたこと。


ひとつひとつの、ささやかで、あたたかな幸せを。


そして最後に、こう書き添えた。


『どうか、明日も、あなたといられますように』


「……何を、書いているんだ」


いつのまにか隣に来ていたコンラート様が、ぶっきらぼうに尋ねる。


「秘密です」


わたしがくすくす笑うと、彼は、少しだけ拗ねたように目を逸らした。


「ねえ、コンラート様」


わたしは、彼の手に、自分の手を重ねた。


「明日も、わたしのそばに、いてくださいますか」


コンラート様は、一瞬、泣きそうな顔をして。


それから、わたしの手を、痛いくらいに強く握り返した。


「……ああ」


深い緑の瞳が、まっすぐに、わたしを見つめた。


「明日も、君といる。……ずっと、ずっとだ」


その約束が、どれほど深く、どれほど途方もないものなのか。


――わたしは、生涯、知らないままだった。


けれど、それでよかったのだと思う。


だってわたしは、今日も、この人の隣で、こわいくらいに、幸せなのだから。



最後までお読みくださり、ありがとうございました。蜜月 憂です。

コンラートが、どれほどの代償を払って"今日"を守り続けているのか――マチルダはそれを知らないまま、今日も、明日も、幸せに笑っています。

その"明日"がいつまでも来ないことを知っているのは、読んでくださったあなただけ。どうか、二人の永遠の一日を、そっと見守っていただけたら嬉しいです。

「ゾクッとして、キュンとして、少し泣ける」を楽しんでいただけたなら、★やブックマーク、ご感想が、次を書く力になります。


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