春になれない街
この街には、春だけならない時計がある。
駅前広場の真ん中に立つ古い時計塔。普段は一時間ごとに鐘を鳴らす癖に、3月になるとぴたりと音を止める。故障だとか、湿気のせいだとか、いろんな噂があるけれど、本当の理由を知っている人はいない。
私は毎朝、その時計の横を通って会社へ向かう。
「今日も止まったままか。」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「鳴らないんじゃなくて、待ってるんだよ。」
後ろから声がした。
振り向くと、時計塔の下に女の子が座っていた。
中学生くらいだろうか。
白いパーカーに、擦り切れたスニーカー。膝を抱えたまま、こちらを見上げている。
「何を?」
「誰かを。」
妙な子だと思った。
けれど急いでいた私は、それ以上話しかけることもなく駅へ向かった。
翌日もいた。
その翌日も。
雨の日も。
風の日も。
彼女は毎日、時計塔の下に座っていた。
不思議なのは、周囲の誰も彼女を気にしていないことだった。
待ち合わせをする学生も、犬の散歩をする老人も、彼女の前を何事もなく通り過ぎていく。
まるで最初からそこにいないみたいに。
「学校は?」
ある朝、私は聞いた。
「卒業したよ。」
「そんな年じゃないでしょ。」
「私だけはね。」
意味が分からない。
彼女は少し笑って、自販機で買ったばかりの缶コーヒーを指さした。
「それ、苦い?」
「苦いよ。」
「じゃあ大人なんだ。」
私は思わず噴き出した。
「そんな基準ある?」
「あるよ。」
彼女は真面目な顔で頷く。
「苦いものを飲めるようになると、みんな何かを我慢するのが上手になる。」
その言葉だけが妙に胸に残った。
それから私は、会社帰りに少しだけ時計塔へ寄るようになった。
彼女はいつも同じ場所にいた。
名前は最後まで教えてくれなかった。
「名前があると、いなくなったとき寂しいから。」
そう言って笑った。
私は仕事の愚痴を話した。
上司のこと。
終わらない残業。
同期が次々辞めていくこと。
彼女は一度も励まさなかった。
ただ、「そうなんだ」と聞くだけだった。
不思議と、そのほうが楽だった。
「昔はさ」
ある夕方、私が言った。
「絵を描くのが好きだった。」
「へえ。」
「高校までは毎日描いてた。」
「今は?」
「10年くらい描いてない。」
「なんで?」
私は答えられなかった。
仕事が忙しかったから。
時間がなかったから。
そういう理由はいくらでも思いつく。
でも本当は違う。
描いたところで誰にも褒められない。
才能なんてない。
そう思い始めてから、筆を持たなくなっただけだ。
「もったいないね。」
彼女がぽつりと言った。
「何が?」
「好きだった時間。」
私は黙る。
夕焼けが時計塔を赤く染めていた。
「ねえ。」
「うん。」
「人ってさ。」
彼女は空を見上げた。
「夢を諦める瞬間より、夢が好きだったことを忘れる瞬間のほうが悲しいと思う。」
その夜、帰宅して押入れを開けた。
一番奥から埃をかぶったスケッチブックが出てくる。
1枚だけ開いた。
途中まで描きかけの風景画。
高校3年の春の日付が書いてあった。
そこから先は白紙だった。
次の日。
時計塔に彼女はいなかった。
初めてだった。
なんとなく落ち着かなくて、翌日も、その翌日も探した。
1週間たっても現れない。
私はようやく、自分が毎日彼女に会いに行っていたことに気づいた。
4月になった。
駅前広場の桜が散り始める。
その朝だった。
時計塔の鐘が鳴った。
一か月ぶりに。
街中へ響く澄んだ音。
私は思わず立ち止まり、時計を見上げる。
時計の針は7時を指していた。
その時だった。
管理室から出てきた初老の管理人が、嬉しそうに鐘を見上げている。
「直ったんですか?」
私が声をかけると、老人は首を傾げた。
「何が?」
「時計です。」
「ずっと壊れてませんよ。」
「え?」
「毎年3月だけ鳴らないんです。」
「知ってます。」
「今年も鳴らなかったでしょう。」
「ええ。」
「でも4月になったから鳴っただけです。」
当たり前みたいに老人は言った。
私は時計塔を見上げる。
鐘は静かだった。
「昔ね。」
老人がぽつりと続ける。
「娘が言ってたんですよ。」
「?」
『春は、待ってる人がいるから静かな季節なんだよ』って。」
私は息をのむ。
「娘さんは?」
「もう何年も前に亡くなりました。」
老人は笑っていた。
泣きそうな笑顔だった。
「でもね、不思議なんです。」
「何がですか?」
「春になると、あの子がまだどこかで待ってる気がして。」
私は何も言えなかった。
その日の帰り道。
画材店へ寄った。
絵具は乾いてしまっていたから、新しいものを買った。
高価なセットではない。
一番安い、水彩絵の具。
家に帰る。
スケッチブックを開く。
真っ白なページを前にして、30分くらい何も描けなかった。
描き方なんてほとんど忘れていた。
それでも一本だけ線を引く。
歪んでいた。
もう一本。
また歪む。
私は笑ってしまった。
学生の頃も、最初はこんなものだった気がする。
窓の外から鐘の音が聞こえた。
夜の7時。時計塔が静かに街へ時間を知らせている。
私は筆をおき、少しだけ耳を澄ませた。
もう春は終わりかけている。
それでも、この街はちゃんと季節を進めていた。
描きかけの紙の上で、水彩絵の青がゆっくりと滲んでいく。
誰かが背中を押したわけじゃない。
特別な奇跡も起きなかった。
ただ、止まっていたものが、少しだけ動き始めただけだった。
私は新しいページの右下に、小さく今日の日付を書いた。
そして誰にも聞こえないくらいの小さな声でつぶやく。
「また、始めて見ようか。」
部屋の中は静かだった。




