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春になれない街

作者: iazok
掲載日:2026/06/27

この街には、春だけならない時計がある。


駅前広場の真ん中に立つ古い時計塔。普段は一時間ごとに鐘を鳴らす癖に、3月になるとぴたりと音を止める。故障だとか、湿気のせいだとか、いろんな噂があるけれど、本当の理由を知っている人はいない。


私は毎朝、その時計の横を通って会社へ向かう。

「今日も止まったままか。」

誰に聞かせるでもなく呟く。

「鳴らないんじゃなくて、待ってるんだよ。」

後ろから声がした。

振り向くと、時計塔の下に女の子が座っていた。

中学生くらいだろうか。

白いパーカーに、擦り切れたスニーカー。膝を抱えたまま、こちらを見上げている。

「何を?」

「誰かを。」

妙な子だと思った。

けれど急いでいた私は、それ以上話しかけることもなく駅へ向かった。

翌日もいた。

その翌日も。

雨の日も。

風の日も。

彼女は毎日、時計塔の下に座っていた。

不思議なのは、周囲の誰も彼女を気にしていないことだった。

待ち合わせをする学生も、犬の散歩をする老人も、彼女の前を何事もなく通り過ぎていく。

まるで最初からそこにいないみたいに。

「学校は?」

ある朝、私は聞いた。

「卒業したよ。」

「そんな年じゃないでしょ。」

「私だけはね。」

意味が分からない。

彼女は少し笑って、自販機で買ったばかりの缶コーヒーを指さした。

「それ、苦い?」

「苦いよ。」

「じゃあ大人なんだ。」

私は思わず噴き出した。

「そんな基準ある?」

「あるよ。」

彼女は真面目な顔で頷く。

「苦いものを飲めるようになると、みんな何かを我慢するのが上手になる。」

その言葉だけが妙に胸に残った。

それから私は、会社帰りに少しだけ時計塔へ寄るようになった。

彼女はいつも同じ場所にいた。

名前は最後まで教えてくれなかった。

「名前があると、いなくなったとき寂しいから。」

そう言って笑った。

私は仕事の愚痴を話した。

上司のこと。

終わらない残業。

同期が次々辞めていくこと。

彼女は一度も励まさなかった。

ただ、「そうなんだ」と聞くだけだった。

不思議と、そのほうが楽だった。

「昔はさ」

ある夕方、私が言った。

「絵を描くのが好きだった。」

「へえ。」

「高校までは毎日描いてた。」

「今は?」

「10年くらい描いてない。」

「なんで?」

私は答えられなかった。

仕事が忙しかったから。

時間がなかったから。

そういう理由はいくらでも思いつく。

でも本当は違う。

描いたところで誰にも褒められない。

才能なんてない。

そう思い始めてから、筆を持たなくなっただけだ。

「もったいないね。」

彼女がぽつりと言った。

「何が?」

「好きだった時間。」

私は黙る。

夕焼けが時計塔を赤く染めていた。

「ねえ。」

「うん。」

「人ってさ。」

彼女は空を見上げた。

「夢を諦める瞬間より、夢が好きだったことを忘れる瞬間のほうが悲しいと思う。」

その夜、帰宅して押入れを開けた。

一番奥から埃をかぶったスケッチブックが出てくる。

1枚だけ開いた。

途中まで描きかけの風景画。

高校3年の春の日付が書いてあった。

そこから先は白紙だった。

次の日。

時計塔に彼女はいなかった。

初めてだった。

なんとなく落ち着かなくて、翌日も、その翌日も探した。

1週間たっても現れない。

私はようやく、自分が毎日彼女に会いに行っていたことに気づいた。

4月になった。

駅前広場の桜が散り始める。

その朝だった。

時計塔の鐘が鳴った。

一か月ぶりに。

街中へ響く澄んだ音。

私は思わず立ち止まり、時計を見上げる。

時計の針は7時を指していた。

その時だった。

管理室から出てきた初老の管理人が、嬉しそうに鐘を見上げている。

「直ったんですか?」

私が声をかけると、老人は首を傾げた。

「何が?」

「時計です。」

「ずっと壊れてませんよ。」

「え?」

「毎年3月だけ鳴らないんです。」

「知ってます。」

「今年も鳴らなかったでしょう。」

「ええ。」

「でも4月になったから鳴っただけです。」

当たり前みたいに老人は言った。

私は時計塔を見上げる。

鐘は静かだった。

「昔ね。」

老人がぽつりと続ける。

「娘が言ってたんですよ。」

「?」

『春は、待ってる人がいるから静かな季節なんだよ』って。」

私は息をのむ。

「娘さんは?」

「もう何年も前に亡くなりました。」

老人は笑っていた。

泣きそうな笑顔だった。

「でもね、不思議なんです。」

「何がですか?」

「春になると、あの子がまだどこかで待ってる気がして。」

私は何も言えなかった。

その日の帰り道。

画材店へ寄った。

絵具は乾いてしまっていたから、新しいものを買った。

高価なセットではない。

一番安い、水彩絵の具。

家に帰る。

スケッチブックを開く。

真っ白なページを前にして、30分くらい何も描けなかった。

描き方なんてほとんど忘れていた。

それでも一本だけ線を引く。

歪んでいた。

もう一本。

また歪む。

私は笑ってしまった。

学生の頃も、最初はこんなものだった気がする。

窓の外から鐘の音が聞こえた。

夜の7時。時計塔が静かに街へ時間を知らせている。

私は筆をおき、少しだけ耳を澄ませた。

もう春は終わりかけている。

それでも、この街はちゃんと季節を進めていた。

描きかけの紙の上で、水彩絵の青がゆっくりと滲んでいく。

誰かが背中を押したわけじゃない。

特別な奇跡も起きなかった。

ただ、止まっていたものが、少しだけ動き始めただけだった。

私は新しいページの右下に、小さく今日の日付を書いた。

そして誰にも聞こえないくらいの小さな声でつぶやく。

「また、始めて見ようか。」

部屋の中は静かだった。

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