美容部員な王弟殿下と、広報担当官な私。
王城の渡り廊下に貼られた一枚のポスター。
腕を組み、長身の男がそれを見つめていた。
いや、見つめるというより——
舐めるように、細部をなぞっている。
騎士の頬。
侍従の指先。
門番の襟元。
その男は、苦虫を噛み潰したように眉を寄せた。
「あらやだ。この騎士、目の下がどす黒いじゃない」
白い指先が、紙の上の騎士の頬をなぞる。
「あっ、こちらも。爪が荒れ放題……。
よくもまぁ、こんな“国家の顔”を晒せたものね」
低くもなく、高くもなく。
男の口から零れたのは、絹のように柔らかな声だった。
だが、その声の奥には——
刃のような冷たさが潜んでいる。
白い手袋を外し、指先でポスターの端をつまむ。
「……広報室は、どなたが責任者だったかしら」
背後に控えていた侍従が、ひくりと肩を震わせる。
「は、はい……新任の広報担当官でございます」
「新任?」
男の口角が、ゆっくり上がる。
「なら尚更よ。最初に教えるべきは“理念”ではなく“輪郭”でしょう?」
ぴり、と。
紙の端が剥がされる。
「広報室へ行くわよ。ついてきなさい」
柔和な声。
だが命令は絶対。
広報室へ向かう男とその後ろをついて歩く侍従。
……そんな二人の後ろ姿を見つめる人物がいた。
王城の渡り廊下。
その壁に貼られたポスターを、
私は今日も遠くから眺めていた。
——誰か、立ち止まってくれないだろうか。
政務会議の告知。
王族公開謁見の案内。
騎士団の式典。
どれも必要な情報なのに、人々は足早に通り過ぎるだけ。
それでも私は、ときどき柱の陰から様子を見に来てしまう。
自分の仕事が、“誰かの目”に触れているのか確かめたくて。
だが、今日は違った。
一人の男が立ち止まっている。
何分も。
微動だにせず。
私のポスターを、舐めるように見つめている。
どんな人だろう。
柱の陰から、私は厚ぼったい眼鏡をくい、と押し上げる。
そして、目を凝らす。
「……綺麗」
思わず、声が漏れた。
服越しにも分かるしなやかな体躯。
硬質なアッシュグレーの髪は短く整えられ、騎士を思わせる精悍さがある。
それなのに、王城勤務用の端正なスーツが不思議と似合っていた。
背筋は真っ直ぐに伸び、横顔は凛としている。
その瞳は、澄んでいて——
……あんな風に、真剣に見つめられたことがあっただろうか。
胸が、かすかに鳴る。
目が離せない。
その瞬間。
「あらやだ。この騎士、目の下がどす黒いじゃない」
——は?
信じられない口調で、信じられない言葉が放たれた。
「あらやだ、この子も肌荒れがそのままじゃない……」
次の瞬間。
ぴり、と音がした。
私は目を見張る。
——剥がした?
彼は、ためらいなくポスターを壁から引き剥がしていた。
「なっ……!」
声にならない。
私の、何日もかけて作ったポスターが、彼の手の中で無造作に丸められていく。
頭の中が、真っ白になる。
なぜ?
誰?
何が起きている?
彼は一度もこちらを見ない。
ただ、怒りを孕んだ足取りで廊下を進み出す。
侍従が慌てて後を追う。
「広報室はどこかしら」
低く、柔らかな声。
けれど命令の響き。
その瞬間、嫌な予感が胸を掠めた。
——まさか。
私は柱の陰を飛び出し、慌てて広報室へと駆け出した。
扉が勢いよく開かれる。
「誰がこのポスターを作ったの」
室内が凍る。
「……王弟殿下…っ……」
室内の誰かが呟いた。
その男は、丸められたポスターを机に叩きつけた。
「国家の顔に、隈と荒れた爪をそのまま載せるなんて。
あなた方は広報かしら、それとも告発係?」
静まり返る部屋。
その時、息を切らして飛び込んだ一人の広報担当官。
「……私です。広報担当官マティルダ・ノエルです。」
全員の視線が集まる。
そして初めて、彼の視線が彼女を捉える。
数秒。
沈黙。
「あなたが?」
王弟は、彼女を頭からつま先まで一瞥した。
装飾のない黒の装い。
まとめただけの髪。
厚ぼったい眼鏡。
「……面白いわね」
室内の空気が凍る。
「この状態で世に出して、何も感じなかったのかしら?」
静かだった。
怒鳴らない。
声を荒げない。
それなのに、言葉はまっすぐ喉元に突きつけられる。
マティルダは、息を整えて答える。
「情報は正確です。騎士も侍従も、実際の姿です。
誇張も偽装もしていません」
王弟の目が、わずかに細まる。
「誇張と整えることは、同義ではないわ」
彼は丸めたポスターを広げ、机に叩いた。
「これは“真実”かもしれない。でもね、真実には見せ方があるの」
彼の指先が、騎士の目の下を示す。
「国民が見るのは、細部ではなく“印象”。あなたは国家の印象を管理する立場でしょう?」
マティルダは、反射的に言い返す。
「印象で政治を動かすべきではありません」
一拍。
王弟は、ふっと微笑む。
「動かすのではないわ。“向けさせる”のよ」
静寂。
「興味がなければ、真実は届かない」
その一言に、マティルダの胸が、わずかに揺れる。
彼は続ける。
「美は虚飾ではない。相手に向き合う覚悟の表明よ」
視線が絡む。
初めて、真正面から。
怒りはまだある。
けれどその奥に、知的な光が宿っている。
マティルダは、初めて迷った。
——私は、何を届けたいのだろう。
王弟は踵を返す。
「三日。三日で整え直しなさい」
扉の前で止まり、振り返らずに言う。
「出来なければ、私が介入するわ」
扉が閉まる。
静寂。
マティルダはポスターを見つめる。
そして初めて——
騎士の隈が、気になった。




