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不適合者

作者: オラカマラ
掲載日:2026/02/23

会議室の空気は、誰かの不用意な一言で容易に淀む。

「このスケジュールでは、現場の負担が大きすぎるのではないでしょうか」

向かいの席に座る若手社員が発言した瞬間、彼の首筋に埋め込まれたチップが微かに熱を持ったように見えた。(とおる)の網膜に直接投影されている若手社員の『適合指数』が、82%から一気に76%へと下落する。場の空気を乱し、周囲に無意識のストレスを与えたという、システムからの冷徹な評価だった。

透は手元の資料に目を落としたまま、瞬時に最適解を計算した。ここで若手を擁護すれば「不穏分子への同調」と見なされ、自分も道連れになる。かといって頭ごなしに否定すれば、今度は「過度な攻撃性」として減点対象だ。まるで、常に誰かに監視されながら、絶対にボロを出してはいけない犯人を演じ続けるようなものだ。

「彼の懸念ももっともですね」

透は穏やかな、しかし感情の波を完全に消した声で言った。

「ただ、クライアントの要望を第一に考えるなら、課長の案をベースに、各部署の連携フローを見直すのが最も確実かと存じます」

室内の空気が、ふっと弛緩した。張り詰めていた緊張感が和らぎ、課長が満足そうに深く頷く。若手社員の指数下落もピタリと止まった。

透の視界の右端で、彼自身の適合指数が『100%』のまま、緑色の安定した光を放ち続けている。

ひどく退屈で、簡単な作業だ、と透は内心で息を吐いた。人間関係など、所詮は行動と結果のロジックにすぎない。他人の感情を読み取り、常に正解の変数を代入し続ければ、この社会では誰にも疑われることなく「完璧な人間」でいられるのだ。

会議を終え、自席に戻りながら透は窓の外を見下ろした。無機質なビル群の隙間を行き交う人々は、皆一様に穏やかな顔をしているように見える。少なくとも、互いに罵声を浴びせたり、衝動的に暴力を振るったりする者は、この区画にはもう存在しない。

「適合チップ」が国民の義務となってから、もう十年が経つ。

事の発端は、社会全体を覆っていた慢性的な疲労と限界だった。

SNS空間での終わりのない私刑、職場にはびこる陰湿な同調圧力、そして「空気が読めない」というただそれだけの理由で突発的に起きる凄惨な傷害事件。かつての日本は、他人の顔色という明確な基準のない見えないルールに怯え、誰もが疑心暗鬼に陥っていた。正解のわからない同調ゲームに、人々はただひたすらに神経をすり減らしていたのだ。

そこで政府が抜本的な解決策として導入したのが、空気の可視化――すなわち「適合チップ」による国民の絶対的な管理社会だった。

首筋に埋め込まれた極小のマイクロチップは、脈拍、発汗、脳波の推移から、声のトーンや表情を作る微細な筋肉の動きまでを常時モニタリングしている。それらの生体データを都市の統合AIがリアルタイムで解析し、現在の言動が周囲の他者にどれだけのストレスを与えていないかをパーセンテージで算出する。それが適合指数だ。

システムは極めてシンプルに機能した。同調性が高く、周囲に波風を立てない者は優れた市民として、税の優遇や居住区画の選択などあらゆる面で優遇される。逆に、協調性を乱し他者に不快なノイズを与え続ける者は「不適合者」の烙印を押され、最終的には高い壁で囲まれた特別区画へと物理的に隔離される。

導入当初こそ、一部の知識人や人権団体から非人道的だという激しい反発が起きた。しかし、結果として対人トラブルや凶悪犯罪の発生率は劇的に低下した。明確な数値という絶対的な指針を与えられたことで、社会はかつてないほどの完全な平穏と秩序を手に入れたのである。

当然の結果だ、と透は歩調を崩すことなく冷ややかに思考した。

そもそも、曖昧で正解のない人間の感情や、倫理などという不確かなものに頼るから不要な摩擦が起きるのだ。悲しみや怒り、あるいは正義感といった不確定要素は、社会という巨大なシステムを運営する上では単なるバグに過ぎない。

人間の心を排除し、すべてを行動と結果の数値という絶対的なルールに置き換えたこのシステムは、透にとって極めて合理的で、美しいとさえ思えた。

退社時刻を知らせる無機質な電子音がフロアに響いた。透は手元の端末を閉じ、グレーのチェスターコートを羽織る。誰にともなく愛想の良い会釈を残し、オフィスを後にした。

エレベーターを下りてガラス張りのエントランスを抜けると、冷たい夜風が頬を撫でた。駅へ向かう大通りは帰宅を急ぐ人々で溢れかえっているにもかかわらず、不気味なほど静かだった。誰もが大股で歩きながらも、決して他人の肩とはぶつからない絶妙な軌道を維持している。

地下鉄のホームでも、その異様な静寂は続く。整然と引かれた白線の内側に、人々は正確に等間隔で並んでいた。

ふいに、透の斜め前で歩いていた男が、前を歩く女性の鞄に軽く接触した。かつてなら舌打ちの一つや二つが聞こえそうな場面だ。しかし二人は即座に立ち止まり、まるで機械仕掛けのようにお互いへ深々と頭を下げた。視界の端で、彼らの首筋が微かに緑色の光を放つ。謝罪と寛容。システムが求める『正しい対応』を双方が瞬時に選択したことで、事なきを得たのだ。

透は無表情のままその光景をやり過ごし、滑り込んできた車内のシートに腰を下ろした。

最寄り駅を出て、閑静な住宅街を歩く。街灯に照らされたアスファルトの道は、チリ一つ落ちていないほど清潔に保たれていた。この区画に住むことが許されるのは、適合指数が常に平均80%を超える「優良市民」だけだ。

自宅である高層マンションのエントランスを抜け、静脈認証でオートロックを解除する。静音設計のエレベーターが、透を十五階へと静かに、そして素早く運び上げた。

重厚な玄関ドアの前に立ち、スマートキーをかざす。短い電子音とともに鍵が開き、透は「ただいま」と、相手に安心感を与えるよう最適に調整された声のトーンで言いながら、自宅の廊下へと足を踏み入れた。

重厚な玄関ドアを開けた瞬間、透は微かな違和感を覚えた。

いつもなら、タイマー設定された床暖房の柔らかな温気と、出汁の香りが入り混じった生活の匂いが漂ってくるはずだった。しかし、廊下を満たしていたのは、空調が切られたままの冷え切った空気と、重苦しい静寂だけだった。

結衣(ゆい)?」

コートを脱ぎながら声をかけるが、返事はない。靴箱の上に乱雑に脱ぎ捨てられた彼女のパンプスを見て、透は小さく息を吐いた。靴を揃える余裕すら失うほどのトラブルがあったということだ。

病気か、それとも――。どちらにせよ、イレギュラーな事態は好ましくない。同居人の身体的・精神的な不調は、自身の適合指数を算出する際の「環境変数」、いわゆるストレス要因としてマイナスに作用する可能性があるからだ。

リビングの扉を開けると、部屋は薄暗かった。メインの照明は点いておらず、キッチンカウンターの小さなペンダントライトだけが、部屋の隅に座る人影を頼りなく照らし出していた。

ダイニングチェアの上で、結衣は膝を抱え込むようにして丸まっていた。帰宅したままのスーツ姿で、ストッキングの膝元が小刻みに震えている。

透が近づいて顔を覗き込むと、彼女はゆっくりと顔を上げた。血の気が引き、土気色になった顔。焦点の定まらない瞳が、縋るように透を捉えた。

「……透」

掠れた声と同時に、透の網膜に埋め込まれたデバイスが、結衣の首元にあるチップの情報を読み取った。

視界の右上に、彼女の現在のステータスがポップアップされる。普段なら穏やかな緑色で『85%』前後を推移しているその数値を見て、透は思わず眉間を寄せそうになった。

警告を示す、明滅するオレンジ色。数値は『68%』。

しかも、その数字の横にある小さなトレンド矢印は、下向きのまま固定されている。今この瞬間も、彼女の社会に対する適合性がマイナス評価を受け続けている証拠だった。

「落ち着きなさい。ひどい顔色だ」

透は瞬時に表情筋をコントロールし、声のトーンを『心配する夫』の最適な周波数に合わせた。隣の椅子を引き、彼女と視線の高さを合わせる。

「何があったんだい? 話してごらん」

結衣は震える両手で、自身の首筋のチップが埋め込まれているあたりを掻きむしるように押さえた。皮膚がすでに赤く腫れ上がっている。

「今日……職場で……」

途切れ途切れに語られた内容は、透からすれば呆れるほど愚かで、非合理的なものだった。

発端は、結衣の後輩である新入社員が、理不尽な理由で部長から激しく責められていたことだという。周囲の人間は皆、自らの指数が下がることを恐れて見て見ぬふりをしていた。それがこの社会における正しい『適応』だ。しかし、結衣は耐えきれず、後輩を庇って部長に真っ向から反論してしまった。

「どうしても、見過ごせなかったの。間違っているのは部長の方ですって、言ってしまったわ」

結衣の目から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちた。

「そしたら、会議室の空気が一気に凍りついて……。部長の顔色が変わった瞬間、私の首が熱くなって、視界の指数がどんどん下がっていったの。庇ったはずの後輩の子でさえ、私と目を合わせようとしなかった。関われば自分も『不適合者』に引きずり込まれるから……」

彼女の言う通りだ。システムは「正義」や「倫理」など評価しない。その場の多数派が形成する空気を乱したという「事実」のみを冷徹に減点していく。

「帰り道の電車でも……すれ違う人がみんな、私の首元のオレンジ色の光を見て、サッと避けていくの。まるで汚いものでも見るみたいに。私、怖くて……」

結衣は両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。

「このまま下がり続けたら、どうなるの? 適合管理局から通知が来るわよね。呼び出されて、もし『不適合』の烙印を押されたら……私、あそこに入れられるの? 嫌だ、透、助けて……!」

彼女の全身が、カタカタと音を立てるほど激しく震え始めた。結衣が透のコートの袖にすがりついてくる。その指先は氷のように冷たく、微かに冷や汗をかいているのがわかった。

彼女が極度のパニックに陥るのも無理はない。不適合者収容施設。それは都市の周縁部、かつて広大な工業地帯だった場所に建設された巨大な隔離区画である。

優良市民が暮らす居住区との境界には、窓一つない無機質な灰色のコンクリート壁が天を突くようにそびえ立っている。そのそそり立つ壁の向こう側で、社会から弾かれた者たちがどのような生活を送っているのか。強制的な労働か、徹底した再教育プログラムか、あるいはそれ以下の何かか。正確な情報は一般市民には一切伏せられていた。メディアがその内情を報じることはなく、政府からの公式発表も存在しない。

ただ一つ確かなのは、あの重厚なゲートをくぐった者が、二度と元の生活区画に戻ってきた例はないという事実だけだ。

移送が決定した瞬間、その人間のデータは都市のメインシステムから瞬時に消去される。長年かけて築き上げたキャリアも、銀行口座に蓄えた財産も、そして家族という法的な繋がりすらも、すべてが一方的に剥奪される。残されるのは、はじめからその人間がこの世に存在しなかったかのような、不気味なほどの空白だけだ。

そして人々は、その空白に触れることを極端に恐れた。不適合者について口にしたり、消えた者を案じたりすること自体が、社会システムへの不満や同調性の欠如と見なされ、今度は自らの適合指数を急落させる致命的なリスクとなるからだ。

ゆえに、身内が連れ去られた者でさえ、翌日には完璧に調整された作り物の笑顔を浮かべて出社し、昨日まで隣にいた人間のことなど綺麗さっぱり忘れたかのように振る舞う。そうやって誰もが徹底した沈黙を守ることで、壁の向こう側の実態のない恐怖は、人々の深層心理に絶対的なタブーとして深く、静かに刷り込まれていった。

徹底した忘却と、完全な排除。

それこそが社会の平穏を維持するための最も効率的な自浄作用なのだと、透は袖を掴んで震える結衣を見下ろしながら、極めて論理的に理解していた。致命的なエラーを吐き出し続けるプログラムは、時間をかけて修正するよりも、システムから丸ごと削除してしまった方がはるかにコストがかからない。人間の命や尊厳も、それとまったく同じことだ。

視界の端で、結衣の指数が『67%』に落ちる。同居人が極度のパニック状態にあることは、透自身の評価にも微小なノイズを生ませかねない。早急にこの感情の波を鎮火させる必要があった。

「大丈夫だ、結衣。深呼吸をして」

透は計算し尽くされた柔らかい笑みを浮かべ、すがりつく彼女の冷たい手を、両手で優しく包み込んだ。

「まだ60%台じゃないか。取り返しはつく。明日の朝一番で、部長と後輩に謝罪のメッセージを送ろう。角が立たない、完璧な文面を僕が一緒に考えてあげるから」

ゆっくりと背中をさすりながら、透は穏やかな声を紡ぎ続けた。

「君はただ、それに従って微笑んでいればいい。僕がついているから、何も心配しなくていいんだ」

優しい夫の言葉と体温に触れ、結衣は少しだけ安堵したように息を吐き、透の胸に顔を埋めた。

すがりつくように押し当てられた彼女の顔から、とめどなく溢れる涙が、透のシャツの胸元をじっとりと冷たく濡らしていく。透はその不快な湿り気を肌で感じながらも、一定のリズムで彼女の華奢な背中を優しく撫で続けた。もちろん、心にはさざ波一つ立っていない。

彼の脳内はすでに、明日彼女の指数が回復しなかった場合の計算で埋め尽くされていた。自分に火の粉が降りかかる前に、いかにして妻というエラー要因を物理的、かつ社会的に断ち切るか。

まずは別居の正当な理由作りだ。親族の重病による介護、あるいは自身の重要プロジェクトへの集中。いや、それではシステムが妻が窮地のときに見捨てた冷酷な夫と判定するリスクが残る。社会的な体裁を保つなら、あくまで互いの指数回復と冷静さを取り戻すための前向きな冷却期間、という名目にするのが最適解だろう。

同時に、彼女が自暴自棄になり、自分を道連れにする最悪のケースも想定し、先手を打たなければならない。例えば、明日の午前中にでも、自分から適合管理局へ「最近、妻の様子がおかしく、思い詰めているようで心配だ」と自発的な相談を持ちかけるのはどうだろうか。愛する妻を救おうと奔走する善良な夫、という完璧なアリバイを事前に構築しておくのだ。

そうしておけば、いざ彼女が不適合の烙印を押されて施設へ送られたとしても、透は手を尽くした悲劇の被害者として、システムからむしろ高い同情票と評価を集めることができる。

頭の中で、自分だけが無傷で生き残るための冷徹なフローチャートを何通りも組み立て、分岐点とリスクを一つずつ検証しながら、透は結衣の髪にひどく労わるようなキスを落とした。



翌朝、透は設定していたアラームが鳴る30分前にベッドを抜け出した。隣で浅い眠りにつき、時折小さなうめき声を漏らす結衣を起こさないよう、足音を殺してリビングへ向かう。

カーテンの隙間から差し込む白み始めた光の中で、透はダイニングテーブルに置かれた結衣の仕事用端末を開いた。ディスプレイの青白い光が、透の無表情な顔を冷たく照らし出す。

画面には、昨夜結衣が入力しようとして途中で投げ出した形跡があった。そこには「私の言い方が悪かったかもしれませんが、どうしても後輩を庇いたくて」といった、感情的で自己弁護に満ちた文字列が並んでいた。透はキーボードに指を伸ばし、一切の躊躇なくその文章をすべて削除した。

愚かしいことだ、と透は思う。この社会において必要なのは、真実の吐露でも不器用な誠意でもない。システムと周囲の人間が最も好む、完璧にデザインされた降伏のポーズだけだ。

透は静かなリビングに微かなタイピング音を響かせながら、文字を打ち込み始めた。まずは自らの非を全面的に認め、相手の寛容さにすがる一文を置く。少しでも言い訳と受け取られかねない主観的な表現は徹底的に削ぎ落とした。

その上で、適合チップのAIが文章を解析した際に、プラスの評価を弾き出す特定のキーワードを意図的に散りばめていく。「職場の調和」「全体最適の視点の欠如」、そして「多大なるご迷惑」。これらの単語を、最も自然で殊勝な文脈に組み込む。人間が読めば深く反省しているように見え、機械が読めば組織への従属を示す完璧なアルゴリズムだ。

句読点の間隔や改行のタイミングすらも視覚的なストレスを与えないよう計算し尽くし、透はわずか5分で非の打ち所がない謝罪文を完成させた。

背後で衣擦れの音がした。振り返ると、目の下に濃い隈を作った結衣が、亡霊のような足取りでリビングの入り口に立っていた。

透は端末をテーブルの中央に押しやり、彼女に向かって静かなトーンで指示を出した。

「これを、始業の20分前に送信しなさい」

結衣が怯えた目で、画面と透を交互に見る。

「早すぎれば、夜通し起きていたような不健康な執着を感じさせて相手に警戒される。逆に遅すぎれば、業務の妨げになり新たな減点対象だ。20分前という時間が、最も誠意と常識を感じさせる最適解になる」

結衣は何も言わず、ただすがるように小刻みに首を縦に振った。透は立ち上がり、彼女の冷え切った細い肩に両手を置いた。

「送信した後は、誰とすれ違っても口角をほんの少しだけ上げて、静かに会釈すること。目を合わせすぎるな。そして、絶対に自分から余計な弁解はしないように。君はただ、ひたすらに従順な歯車を演じきればいいんだ」

僕が完璧なレールを敷いてあげたのだから。

透は心の奥底でそう呟きながら、顔面には模範的な夫としての優しい微笑みを貼り付けていた。

目の下に濃い隈を作った結衣は、神にすがるような目で頷き、透の指示通りにメッセージを送信して出社していった。

これで終わるはずだった。透の計算通りなら、謝罪がシステムと周囲に受理された時点で、結衣の指数は最低でも安全圏である75%までは回復する。

しかし、昼休み。オフィスのデスクで自前の端末を開き、家族用のアカウントから結衣の現在のステータスを密かに確認した透は、思わずマウスを持つ手を止めた。

『54%』

透の目が、画面上の無機質な数字を鋭く捉える。回復するどころか、昨晩よりさらに十ポイント以上も急落していた。

あり得ない、と透は奥歯を噛み締めた。あの完璧な謝罪文が逆効果になったとでもいうのか。それとも、結衣が職場でまた何か致命的な失言をしたのか。

いや、それだけではない。午後の業務中にも、結衣の指数はジリジリと下がり続けた。

『51%』……『49%』……。

ついに50%の壁を割った。これはもう、単なる職場のトラブルの域を超えている。周囲の人間全員が、結衣に対して『明確な悪意と拒絶』を向け続けない限り、ここまで短時間で下落することはない。まるで、見えない巨大な手が彼女を強制的に底なし沼へ引きずり込んでいるかのようだった。

堅牢なAIに限ってシステムエラーなど考えられない。では、誰かが意図的に彼女の数値を操作しているとでもいうのか。

その時だった。

透の視界の右端で、常に美しい緑色で輝いていた自身の『100%』という数字が、ほんの一瞬だけ、チカッと黄色く瞬いた。

『99%』

透の心臓が、冷たい手で直接掴み潰されたように大きく跳ねた。

十年間、一度たりとも見たことがない自分自身の減点。

『不適合者』への転落を続ける妻との接触履歴が閾値を超え、ついに「共犯」としてのノイズが、完璧であるはずの透の評価にまで波及し始めたのだ。

背筋に冷たい汗が伝うのを感じながら、透はどうやって結衣を切り捨てるべきか、再び思考をフル回転させようとした。

矢先、デスクの端末に一通のメッセージがポップアップした。

差出人は『適合管理局・特別審査課』。

「透様。ご家族の適合指数について、至急ご相談したい件がございます。本日の退社後、当庁舎の第四面談室までお越しください」

文面は丁寧だが、拒否権がないことは火を見るより明らかだった。透は誰にも気づかれないよう深く息を吸い込み、表情筋を『忠実な市民』のそれに固定した。

定時を知らせるチャイムが鳴ると同時、透は席を立った。

適合管理局の庁舎は、都市の中心部にそびえ立つ巨大なモノリスのような建造物だった。外壁には窓が一つもなく、内部の様子を外から窺い知ることはできない。

自動ドアを抜け、無機質な白いタイルの床を歩く。透の靴音だけが、不気味なほど静かなロビーに反響していた。受付の端末にIDをかざすと無言のままゲートが開き、第四面談室への順路が床のLEDライトで示された。

面談室の分厚い扉が背後で重々しい音を立てて閉まると、外の環境音は完全に遮断された。

窓のない四角い空間には、血の通わない蛍光灯の白い光が均等に降り注いでいる。中央に置かれた殺風景な白いテーブルと、向かい合うように配置された2脚のパイプ椅子。空間の作りそのものが、招かれた者に無言の圧迫感を与えるよう緻密に設計されているのは明らかだった。

すでに奥の席には、グレーのスーツを隙なく着こなした初老の男が座っていた。背筋を定規で測ったかのように真っ直ぐに伸ばし、両手をテーブルの上で正確に組んでいる。彼がこの件の担当管理官なのだろう。

透の視線は自然と男の首元へ向かった。そこにあるはずの光がない。国民の義務である適合チップが埋め込まれておらず、皮膚は滑らかなままだった。監視する側である管理局の人間だけに許された、特権的な仕様。つまりこの男は、誰の顔色も伺う必要がない絶対的な存在だということだ。

「お掛けください」

男は表情筋のわずかな動きすら見せずに、手で手前の椅子を示した。声には一切の抑揚がなく、まるで精巧な機械が発した合成音声のようだった。

透は小さく、しかし確実に動揺が伝わる速度で息を吸い込み、深く頭を下げた。パイプ椅子を引き、できるだけ硬く、ぎこちない動作で腰を下ろす。膝の上で軽く握った両手には微かに力を込め、指の関節を白く浮き立たせた。

妻の異常事態に心を痛め、同時に管理局からの呼び出しに過度の緊張を強いられている、善良で哀れな市民。それが今の透が演じ切らなければならない、ただ一つの最適なロールだった。

男は透の計算された演技を値踏みするような視線で数秒だけ見つめ、やがて静かに口を開いた。

「単刀直入に申し上げます。奥様の結衣さんについてです」

男はテーブルの端に置いてあった薄型タブレットに指を触れ、滑らせるようにして透の目の前へと押し出した。無機質な摩擦音が静寂の室内に響く。

透は伏せていた視線を上げ、タブレットの画面に目を落とした。

そこには結衣の顔写真とともに、彼女のリアルタイムのステータスが棒グラフと数値で表示されていた。透は瞬時に喉を鳴らし、ひどく息を呑む演技をした。

画面の中央で、警告を示す毒々しい赤黒い数字が明滅している。

『32%』

透は絶望に打ちひしがれたような顔を作りながら、脳内では極めて冷静に現状を分析していた。たった数時間でここまで落ち込むのは、もはや尋常ではない。物理的な社会からの排除ラインである30%まで、あとわずか2ポイントしかない。結衣の社会的な命は、実質的にここで終わったも同然だった。

「本日午後、奥様は社内ネットワークを通じ、ご自身の所属する部署の部長を告発する署名活動を呼びかけました」

初老の男の淡々とした声が、窓のない室内の白い壁に吸い込まれていく。その語り口には、非難の色も同情の響きも一切混じっていなかった。ただ、システムが弾き出した事実を音声として出力しているだけだ。

透の胸中に、氷のように冷たい呆れがじわじわと広がっていった。

あの女は、一体どこまで愚かなのだろうか。完璧にデザインされた謝罪文を送り、ただ従順に頭を下げていれば済む話だったのだ。システムが支配するこの社会において、個人の掲げる正義など何の意味も持たない。和を乱す者がどれほど理路整然と正論を吐こうとも、全体から見ればそれはただの不快なエラーノイズでしかない。その絶対的なルールを、彼女は最後まで理解できなかったらしい。

「告発のメッセージが送信された直後、フロアにいた社員たちのバイタルサインは一斉に乱れました。結果として周囲のストレス係数は跳ね上がり、彼女の指数はご覧の通りです」

男はタブレットの画面に視線を落としたまま、無慈悲に言葉を続けた。

「もはや回復の見込みはありません。現在の下降トレンドから計算して、明日の朝には確実に30%を割り込みます。その時点で、彼女は不適合者として施設へ移送されることになります」

移送。その単語が意味する完全な社会的な死を突きつけられても、透の心拍数は微塵も揺らがなかった。しかし、ここで沈黙を保てば、妻の破滅を平然と受け入れる異常者として監視カメラに記録されてしまう。

「そんな……馬鹿な」

透は喉の奥を締め付け、ひどく掠れた声を意図的に絞り出した。

「妻は少し、疲労が溜まっていたんです。最近はよく眠れておらず、精神的に不安定だっただけで……決して、社会の調和を乱すような悪意があったわけでは」

言いながら、透は両手で顔を覆い、がっくりと前かがみになった。突然の悲劇に打ちひしがれた夫の、完璧なポーズだ。

しかし、密着させた両手の指のわずかな隙間から、透の冷ややかな眼球は、向かいに座る管理官の微細な表情の変化を、ただ音もなく、注意深く観察し続けていた。

「透さん。あなたの長年の貢献と、常に100%を維持してきた素晴らしい適合性は、システムが高く評価しています。だからこそ、特例としてこの場が設けられました」

男はタブレットの画面を切り替えた。そこに表示されたのは、『婚姻関係解除および不適合者告発同意書』と物々しいタイトルが付けられた電子書類だった。

「あなたの指数が先ほど99%に低下したことは、我々も把握しています。非常に痛ましいことです。しかし、今ここでこの書類にサインをすれば、あなたは法的に彼女との関係を断ち切り、システムの評価も直ちに100%へと修正されます。さらに、早期に不適合者を告発した功績として、次期プロジェクトの統括責任者のポジションも約束しましょう」

男はそこで言葉を区切り、透の目を真っ直ぐに見据えた。

「サインを拒否し、彼女を擁護するのであれば、あなたも共犯として指数は下落し続けるでしょう。明日の朝、夫婦揃って施設へ向かうことになります。選択してください」

透の視界の隅で、自身の99%という数字が不安げに瞬いている。

選択など、最初から決まっていた。妻への愛情や共に過ごした日々の記憶など、透の計算式の中には初めから存在しない。自分の完璧な人生を守り、さらに上の階級へ登るための、これは絶好のチャンスですらあった。

しかし、この部屋のどこかにあるであろう監視カメラや音声センサー、そして目の前の管理官を完全に欺くためには、劇的な葛藤を演出する必要がある。人間らしさの証明として。

透はしばらくの間、うつむいて肩を震わせた。そして、ゆっくりと顔を上げると、血を吐くような悲痛な声で言った。

「……社会の秩序が、第一です。狂ってしまった妻には、絶望しました」

透は電子ペンを手に取り、震える指先を装いながら、それでも一切の躊躇なく、サイン欄に自らの名前を書き込んだ。

黒い電子インクが滑らかに画面に吸い込まれ、結衣という不快なノイズが自らの経歴から完全に切り離されていく。これで再び、誰にも脅かされることのない完璧な100%の人生が確約されたはずだった。

ペンの先端が画面から離れた、その瞬間だった。

面談室の淀んだ空気を切り裂くように、鼓膜を突く甲高いエラー音が鳴り響いた。

透はビクッと肩を震わせた。今度は演技ではない。システムが承認を知らせる穏やかな電子音ではなく、致命的な異常を告げるけたたましいアラートだったからだ。

何が起きたのか。透が状況を計算しようとしたその時、網膜に投影され続けていた自らの『99%』という数字が、激しいノイズとともに明滅し始めた。

『99%』……『50%』……『12%』。

あり得ない速度で数字が急落していく。透は思わず椅子から立ち上がりかけた。

そして、信じがたいことに、その数字は一気に底を打ち、毒々しい赤黒い光とともに『0%』の表示で完全に固定されたのだ。

「……な、何の冗談ですか、これは」

透の口から、計算されていない本物の動揺が漏れ出た。システムの誤作動か。それとも、告発の手順を間違えたのか。

だが、向かいに座る初老の男は、表情一つ変えずに透のゼロになった数値を眺めていた。

「冗談ではありませんよ、透さん。システムは極めて正常に稼働しています」

男の声には、先ほどの事務的な響きとは違う、絶対的な零度を思わせる酷薄な響きが混じっていた。

「適合チップのAIは、社会の平穏を維持するために作られた。だが、『完全な100%』を何年にもわたって叩き出し続ける人間など、生物学的に存在しないのです」

男はテーブルの上のタブレットを操作した。画面が切り替わり、そこに映し出された映像を見て、透は息を呑んだ。

画面の隅には、つい数時間前のタイムコードが記されている。映っていたのは収容施設ではなく、この庁舎内にある別室だった。保護官らしき人間に温かい毛布を掛けられ、極度の緊張から解放されたように泣き崩れている結衣の姿がある。その頭上には【人間性確認:保護対象】の緑色の文字が浮かんでいた。

「人間にはどうしても捨てきれない感情やエゴ、身内への非合理な愛情というバグがある。それこそが人間の証明だ。しかし、あなたは違った」

男の冷たい視線が、透の眼球を真っ直ぐに射抜いた。

「何年も100%を出し続けるあなたを、システムは反社会性パーソナリティ障害――つまり、他者の感情を計算で処理しているだけの『擬態型サイコパス』ではないかと疑っていた。だから奥様の指数を意図的に操作し、究極のジレンマを与えてテストしたのです。結果……あなたは自らの保身のために、最も愛すべき家族を、1秒の心の痛みもなく論理的に切り捨てた」

男の言葉を遮るように、背後の分厚い扉が音もなく開いた。

透は息を呑んだ。踏み込んできた防護服姿の男たちの背後から、静かなヒールの音を響かせて一人の女が歩み出てきたからだ。

「結衣……?」

そこに立っていたのは、妻だった。映像にあった怯えきった表情も、取り乱した姿も、そこにはない。別室のモニター越しに夫の裏切りの瞬間を最後まで見届けていたであろう彼女の顔には、もはや一片の感情も浮かんでいなかった。

何より透を戦慄させたのは、彼女の首元で放たれている光だった。

淀みのない、完璧な緑色。そこに表示されている数字は『100%』だった。

「君、その数値は……まさか」

透の掠れた声に、結衣は淡々と答えた。

「テストに協力すれば、100%に戻すと約束されていたの。管理局から、あなたの本性を確かめるからと言われて」

結衣の目は、まるで路傍の石でも見るかのように冷え切っていた。その瞳の奥に、かつて透へ向けていた愛情や信頼の欠片は見当たらない。

「信じたかったわ。あなたが最後に、自分の数値を犠牲にしてでも私を守ってくれる人間だって。でも、あなたは一秒も迷わずに私を切り捨てた」

「違う、結衣。僕は君を……」

「ええ、社会の秩序が第一ですものね」

結衣は、透がたった今口にしたばかりの言葉を、寸分違わぬ冷酷さでなぞった。

「あなたという欠陥品を処分することが、私にとっても社会にとっても最適な選択よ。狂ったあなたには、心底絶望したわ」

それは、透が幾度となく脳内で他者を評価してきたのと同じ、完璧に論理的で、血の通っていない宣告だった。

透の網膜に、新たなメッセージが焼き付くように表示される。

【共感能力ゼロ/擬態型サイコパス:生物学的人間として不適合(処分対象)】

「社会に完璧に適合しようとする機械は、もはや人間ではない。あなたは、人間社会には危険すぎる」

防護服の男たちの分厚い手袋が、容赦なく透の両腕を背後に捻り上げた。スマートなスーツの肩が悲鳴を上げて裂け、これまで十年間、一度も乱したことのない髪が無様に顔にかかった。

床に引きずり倒された透を、結衣は見下ろしたままピクリとも動かない。その目に映っているのは、もはや夫ではなく、ただの処理済みのエラーデータだった。

「嘘だ!僕は間違っていない!完璧に空気を読んだじゃないか!僕は100%だ!」

無機質なタイルの床に膝を打ち付けられ、窓のない暗い廊下へと引きずり出されながら、透は絶叫した。喉が裂け、血を吐くような悲痛な叫びだった。

しかし、その必死の叫びは誰の感情も揺さぶることなく、静かに閉じられた分厚い扉の向こう側で、ただの無意味なエラーノイズとして処理された。

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