第1話 先に片づけてくる
火はよく乾いた薪を燃やし、赤い火の粉をはね上げていた。金属のカップが触れ合い、かすかな笑い声が風に乗って運ばれた。霧島敬太朗は火ばさみで炭を寄せ、燃え残りを一か所に集めた。火の始末は最後までやる、そういう性分だった。
友人たちは、受験に失敗して落ち込む彼をキャンプに連れ出していた。これが、彼の人生を根底からくつがえす大きな出来事になるのであった。
「先に片づけてくる」
返事が二つ聞こえ、金属の蓋の当たる音が続いた。敬太朗は小さなライトを握り、樹の間へ入った。細い道は落ち葉で覆われ、踏み跡はすぐ曖昧になった。足裏は湿りを拾い、土は柔らかかった。ライトの円は頼りなく、照らされたものだけが世界であるかのように前へ滑った。
簡易トイレの札は見つかった。用を足し、戻るときに彼は一度だけ立ち止まった。来たときに見たはずの目印が見当たらなかった。テープの色は木の影と混じり、角度が変わればただの線であった。ライトの照射角は狭く、電池の力は落ちていた。彼は地面の小さな踏み跡を拾い直そうとして、うつむいた。その姿勢が長く続いたため、周囲の音の変化に気づくのが遅れた。
茂みの縁で低い音が短く走った。敬太朗は顔を上げ、光の円を持ち上げた。一本の影がいた。狩りに向いた細い体で、耳は前に寄り、尾は高かった。相手は正面から身体を見せた。挑みの姿勢であった。
敬太朗は目を合わせないという知識を持っていた。光を地面へ落とし、体の向きを半分ずらした。足は後へ引いた。土の感触は冷たかった。相手は一歩だけ詰め、短く吠えた。胸の奥で鼓動が高くなった。喉は乾いたが、声は出さなかった。
退いた方角はよくなかった。草の擦れる音が左右と背から増えた。足音が増え、数は確かに二ではなかった。光の円を振ると、反射する眼がいくつも浮いては消えた。輪があると感じた。輪は彼を中心に狭まっていった。
開けた方角を選ぶべきであったが、斜面が先にあった。露出した根が段を作り、落ち葉が薄い膜のようにそれを隠していた。敬太朗は距離を取ろうとして踏み出し、根をすべらせた。膝を打ち、肩を地面にぶつけた。ライトが手から離れ、傾いた円が木の幹と葉の裏を順に照らしながら転がった。光は遠くで止まり、小さな星のように点となった。
視線を外し、体を横へ向ける。教本の記憶はあった。彼は肩を落とし、威を消す形を作った。正面の一匹はそれに反応して一度止まった。だが左右の影は止まらなかった。距離は詰まり、背中の後ろ側に空きがなくなった。
敬太朗は片手を上げ、指を開いた。意味は届かない。右から小石が転がる音が走り、その直後に重い衝撃が腰を崩した。体当たりであった。背が地に打たれ、肺の中の空気が一気に出た。息が入らない時間が短く続いた。
肩口に熱が走った。布が裂け、肉に歯が入った。引く力が首へ伝わり、皮膚の下が裂かれる感触があった。痛みは鋭く始まり、すぐに鈍い塊へ変わった。腕はうまく動かなかった。もう一匹の影が足元をかすめ、位置を変えた。
彼は肩を守ろうとして体を丸めた。動きは遅れた。地面は湿り、冷たさが背から腰へ広がった。呼吸は浅く切れて、胸がうまく持ち上がらなかった。耳に入るのは風で枝が擦れる音と、どこかで石が崩れる短い音であった。
声を出そうとした。名前を呼べば誰かが返すはずであった。喉は動いたが、音にはならなかった。口の中に鉄の味が出た。指先の感覚が遠のき、握力がほどけた。遠方で人の声が上がった。言葉は分解して、意味は入ってこなかった。
光の点は地面の向こう側に転がったままであった。輪郭は次第に溶け、視界は暗い布で覆われるように沈んだ。音は順に途切れ、最後に自分の呼気だけが残った。その呼気も細くなり、世界はそこで途切れた。