階段の側の黒猫
魔物部屋での戦いの後、ショウゴとクィンシーは地下1層の探索を再開した。今まで通り油断なく周囲を見て回る。
そうして悪意のダンジョンの探索を始めて2日目が終わった。正確には砂時計による時間の経過でそう判断したのである。
ともかく、1日が終わった。なので、一定時間休む必要がある。2人は調査済みの部屋で2回目の野営を始めた。
簡素な夕食が終わると就寝と見張りの時間である。
「ショウゴ、今日はお前が先に見張りだ」
「わかった」
短い言葉を交わすと、ショウゴは隣でクィンシーが横になるのを見た。この後、鐘の音1回分の間起きて異常がないか見張り始める。
冒険者になって何年にもなるショウゴなので夜の見張り番には慣れていた。駆け出しの頃はよく途中で寝落ちしていたものだが、今ではそんなこともない。ただ、一番の大敵である眠気に次いで強敵の暇をどう攻略するのかということは未だに悩んでいた。こういうとき、何も考えないでずっと過ごせる者が羨ましいとショウゴは思う。
だが、今晩はその強敵も鳴りをひそめていた。ショウゴには考えることがあったからだ。今日1日の出来事である。
朝に怪我人を抱えた冒険者パーティを助け、昼に魔物部屋で魔物を倒した。今日の特別な出来事を一言で表すとこれだけだ。問題なのはその内容である。
ショウゴは見張り中にクィンシーに諭されたことを振り返った。助けた冒険者パーティは今後の活動のために嘘をついた可能性が高いという。具体的な証拠を掴んだわけではないのであくまでも推測だが、クィンシーは確信しているようだった。
それではショウゴは騙されて損をしたのかというと実のところ微妙である。金ではなかったが、対価として魔物部屋の情報をもらったからだ。薬の対価としてそこまで悪いとは思わないし、だからこそあのときクィンシーも止めなかったのだろう。
しかし、クィンシーが問題としているのは損をさせられたかということではない。嘘をつかれたという点だ。事情を正直に話して対価を金から情報に変えるという方法もあったのに、あの冒険者パーティは嘘をつくことを選んだわけだ。いや、当初は無料で譲ってほしいと主張していた。情報と交換というのはショウゴが提案したことである。そうなると、あちら側は最初から騙すつもりでいた可能性が高い。
もちろん、焦ってとっさにあんなことを言ってしまった可能性もある。だが、ここで今度は初日に出会った警戒心の強い冒険者パーティの言葉が脳裏をかすめた。1層目だからと油断するな、敵は魔物や罠だけではない。
しっかりとした証拠を元に推測しているわけではないので推測に推測を重ねている自覚はショウゴにもあった。悪い方向に考えようとするといくらでもできてしまうことも知っている。
元の世界からこちらにやって来て10年程度になるが、色々と騙されたこともある。さすがに騙す側に回ろうとまでは思わないものの、以前よりも他人を警戒するようにはなった。その経験から鑑みても、クィンシーの出した結論に間違いがあるとは思わない。
今回、悪意のダンジョンの厳しさはダンジョンだけでなく、中で活動する冒険者との関わり合いも含まれることを知った。下に降りるほど環境が厳しくなることは承知しているので、対人関係も一層警戒するべきなのだろう。具体的には、今後一切親切なことをしないというように。クィンシーは恐らくそう割り切ったはずだ。
では自分は、とショウゴは自問する。雇い主に続くのが正しいのは間違いない。しかし、しかしだ。本当にそれで良いのかという迷いがまだある。
なぜそんな迷いがあるのか。それは自分の目的のためだ。この異世界にやって来て約10年、それでもまだ諦めていないこと。
『いずれ元の世界に帰る』
ある日突然この世界に放り出されたショウゴにとって、それは諦めるわけにはいかないことだった。今生きている意味と言っても良い。
そして、この目的を果たした後、本当に元の世界に戻ったときに、今自分が抱えている優しさあるいは甘さが必要になるのではと漠然と思っているのだ。こちらの世界の常識は元の世界基準では殺伐としすぎている。この基準に染まりきって戻ったとしたら一体どうなってしまうのか、ショウゴはそれが恐ろしい。だからこそ、この感情を手放したくはないのである。
色々と考えた結果、結局いつもの結論に行き着いたことにショウゴは苦笑いした。これだから未だに馬鹿にされたり騙されたりすることがあるのだ。
そうは言っても、今回は自分の命がかかっている。騙された末に殺されてしまったという事態は避けないといけない。ただ、そうなると大切なものを手放すことになってしまう。どうしたものか。
実はこの当たりも既に答えはある。致命的なことにならない範囲でこれからも慎重に親切なことをしていこうというものだ。つまり、今まで通りである。
散々色々と考えたが、結局は何も変わらない。
自分自身に呆れつつも、いずれ帰るときのためだとショウゴは自分に言い聞かせた。
翌朝、ショウゴとクィンシーは用意を済ませると、すぐに悪意のダンジョンの探索を始めた。この日もショウゴが先頭でクィンシーが後方である。
3日目ともなると2人とも迷宮に慣れてきた。通路や部屋の構造、罠や宝箱などに対しても経験を活かせるようになってくる。さすが熟練の冒険者といったところだ。
そんな2人は今日の探索の目的を変更していた。その目的とは、地下2層へ続く階段を探すというものである。地下1層全体がどの程度の広さなのかは2人にはまだわからないが、この2日間で探索した結果、もうそれほど新鮮味のある発見はないだろうと考えたのだ。特に雇い主であるクィンシーの目的はこの迷宮の最奥に何があるのかを突きとめることである。隅々まで探索することではない。
とは言っても、やることは今までと変わりなかった。通路や部屋をひとつずつ丁寧に調べていくのである。最悪地下2層以下で活動している冒険者パーティの後を追跡するという方法もあるが、これは最終手段だ。他の冒険者パーティと情報共有できないのはなかなかつらかった。
今回の探索でこの階段が見つかれば嬉しいというくらいの気持ちでいた2人だったが、意外にも目的である地下2層へ続く階段はあっさりと見つかる。
それはとある扉を開けたときのことだった。悪意のダンジョンの入口から割と奥まで来た辺りを探索していると、広めの部屋の奥に階下へと続くそれが目に入ったのだ。最悪まだ何日もかかると思っていただけに2人ともいささか拍子抜けしたくらいである。
ともかく、目的の場所は見つけることができた。しかし、ここでこの場にそぐわないものをどちらも目の当たりにする。
「クィンシー、あれ、猫だよな?」
「オレにも猫に見える」
「なんであんな所にいるんだ?」
「そんなのオレが知るわけないだろう」
互いが幻を見ていないことを確認するだけの会話をしながら、ショウゴとクィンシーは部屋の出入口から入ってすぐのところで呆然と立ち尽くしていた。
階下へと続く階段のぽっかりと空いた穴の片隅に猫がちょこんと腰を下ろしているのだ。金色の眼に黒一色の毛並みが可愛らしくも凜々しく見える。非常に上品そうに見える黒猫だ。
一瞬誰かがこの悪意のダンジョンに捨てたのかとも思ったが、町から1日以上離れた山の中にあるこんな危険な場所にわざわざ猫を捨てるためだけにやって来る者がいるとは思えない。閉まっていた扉はどうやって開けたのか普段何を食べているのかなど疑問は尽きないが、どうしたものかと動きあぐねていると黒猫が先に動く。
「にゃぁ」
可愛らしい鳴き声を上げると、その黒猫は背を向けて階段を降りていった。それきり、室内は再び静かになる。
顔を見合わせたショウゴとクィンシーは階段に近づいた。それ自体は通路や部屋と同じ石造りで寸分の狂いなく正確に積み上げられている。その階段の階下を2人して覗いてみた。しかし、ずっと続く階段が見えるだけである。
「下に降りたのか」
「そうだな。よく生き残ってるな、あの猫」
妙に感心した様子でクィンシーがつぶやいた。それから周辺を見て回る。
一方、ショウゴはそのまま階段の奥を見つめ続けた。そして、別のことを考える。何となくではあるが、あの黒猫が自分を見つめていた気がしたのだ。遠目で見ただけなので勘違いしている可能性は当然あるが、妙にそう思えて仕方がない。
ただ、例えそうだったとしても、だからどうしたのだという話でもある。もうこれきり会わないだろうからだ。
クィンシーが地図の作成を終えると階下に降りる指示を出す。ショウゴはうなずくと階段を踏みしめた。