08.第二の反復 虐殺兵器⑦
「どうした、撃たんのか。今更、人殺しに臆したわけでもあるまい」
怪人が言った。
「んなわけあるかよ馬鹿たれ。粗悪な官給品だからな。撃っても当たらねえ目算が高いんだ。下手な鉄砲も数撃ちゃ中るとは言うが、弾丸やら装甲やら消耗品は、自前で調達しなきゃならんのがウチの規則でな。無駄な出費は避けたいんだ。そも、計画にない殺人は趣味じゃねえ」
胸に宿った懐かしさと苛立ちの儘、黒曜は言った。
理性では、人間の胸部には心臓と肺が収められるだけであり、そこに精神が宿りようがないことは分かっていた。況して機巧の腕など言わずもがなである。しかし黒曜には、ここで怪人と決着を付けることがどうしても得策だとは思えなかった。
「ひとつだけ聞かせろ。手前を生かすことで、この東京の役に立つのか」
ゆえに訊いた。聞かずにはいられなかった。見逃す理由がほしかった。
「頭目」
玄武が短く呼ぶ。
「此奴はここで撃殺すべきだ。頭目を殺さんというならまだしも、『天照』を始め、皇女殿下まで害そうとする輩だ。社会秩序を乱し、民を煽り、徒に死者を増やす朝敵だ」
玄武は蒸気砲を構える。太い指が引き鉄を引くだけで、黒装束は壁に縫い付けられた肉塊と成り果てるだろう。
「ほーん、で?」
だが黒曜は揺らがない。敢えて軽薄な口調で訊けば、玄武は当惑しながらも。
「此奴を見逃せば、後々我等の障りになることは明白だ。何より皇女殿下を弑すと言ったのだ。あの皇女殿下をだ。これを赦さずにいられるものか。おめおめと生き残った拙ならまだしも、あの日死した親衛隊の同輩達が。宿禰隊長が赦さない」
と答える。続けて。
「頭目。撃殺命令を」
と催促する。
「駄目だ認めん。その大砲を下ろして深呼吸でもしてろ」
「何故」
「いいから下ろせって言ってんだろ馬鹿。大筒を抱えたまま喋る奴がどこにいる。第一、お前はいつから霊媒師になったんだよ。死人に口なしっていう諺くらいお前だって知ってんだろ。死者が赦さないだの、元隊長が赦さないだの、馬鹿も休み休み言え。お前が気に入らねえだけだろうが。それを尤もらしく死者のせいにすんじゃねえ。それこそ死者への冒涜だろうが」
死者がこの世に干渉できるなら俺もお前もお陀仏だろうが、と黒曜が言えば、不承不承と玄武は蒸気砲を背に戻す。
「悪ぃな。とんだ邪魔が入った。話の続きだ。手前を生かしておけば、後でちゃんとお釣りが返ってくるんだろうな」
「勿論だとも。貴殿には、先刻も言ったように死を贈ってやろう」
「そりゃ上等な贈与品だな。いいだろう。見逃してやる。いや、俺達は今日手前とは会わなかった。俺達が知っているのは今地べたに這いつくばっている連中だけだ。それでいいな」
「ふむ。感謝しようじゃないか」
「良し。俺達は引き揚げるが――そう時間も経たねえくらいに特高が後始末に押し寄せてくるだろうよ。せいぜい気を付けることだな。手荒な真似こそしないが、尋問拷問洗脳情報操作教育人体実験――殺さず生かさずの手腕に長けた連中だ。俺から言わせりゃ奴等の方が忌むべき者だと思うんだが――まあ、いいか。行くぞ、玄武。これ以上のんびりしてたら、外の連中が手榴弾を投げ込んでこないとも限らない。奴等に同胞殺しの汚名は着せられねえからな」
硝子の割れた窓を見遣る。裏門に残した部隊にまだ動きは見受けられない。気配を探ろうにも、蒸気配管から漏れ出す蒸気が雑音となり、感知機能もまるで役に立たない。
「達者でな」
後方を顧みることもなく黒曜は歩き出す。玄武も、何も言わずに続く。
その時、正門付近から、自動車の機関が回る音がした。続けて、急かすような警笛が三度鳴らされる。音から察するに、車庫に収められていた輸入車であろう。仲間達の撤収仕度が調ったという合図だろう。敵側の増援や官憲との小競り合いという線もないわけではないが、言い争うような声はしなかった以上、仲間のものと考えて良いだろう。
土左闘犬の死骸を跨ぎ黒曜と玄武が庭先に出れば、想像通り、館外を見晴らせていた隊員達が乗り込んでいた。ひとりは運転席、二人は後部座席である。
周囲に新たな屍体や血痕、隊員達も手傷を負っていないことから察するに、特にこれと言った荒事はなかったようである。
「おう、えらく準備が良いじゃねえか。何か問題はなかったか」
「特には何も。玄関、裏口ともに脱走者及び侵入者の類はおりませんでした」
答えたのは、運転席に座る入隊したての新人であった。小柄な体躯に合わせようと、座席の位置や室内鏡の調整に手間取っている。
「そちらはどうでしたか」
「任務なら問題ねえよ。下男下女は階下にいたから射殺した。標的の活動家連中は二階の講堂にいたから手榴弾で纏めて吹き飛ばした。俺からは以上だ」
「えっと」
それだけですか、と新人は目を瞬かせる。
「何だよその面は。言っておくが死体漁りをしていたわけじゃないぜ。念入りに殺していたから時間が掛かったんだ。いつも言ってんだろ。人間は三度殺すくらいがちょうどいいって」
一度目は生命活動の停止。
二度目は屍体を損壊させて尊厳を損なうこと。
三度目は人相も性別も分からぬくらいに、滅茶苦茶に磨り潰すこと。
こうなれば、その何某という存在は急激に薄くなり、他者からも忘れ去られてしまうだろう。
『天照』が、警保局と共有する個人情報統括局に、行方不明者が一名書き加えられるだけである。その但し書きに、国家反逆の思想を有する者也――とでも書かれれば完璧である。
「しかし戦闘の痕跡が見受けられます。護拳刀だってありません。どうされたんですか」
「あ?」
黒曜は玄武と顔を見合わせる。
確かに玄武の護拳刀は鍔元が潰れて変形しているし、己に至っては護拳刀そのものがない。
「気にすんな。お前等に迷惑を掛けるような真似はしてねえよ。なあ玄武」
「然様、心配無用だ」
玄武が不機嫌そうに頷けば――といってもそれが元々の顔なのだが――新人は追求を止めて引き下がる。後部座席の二人は、最初から気にしていないのか素知らぬ振りを決めている。
ここで玄武の機嫌を損なえば、後日の修練で、叩きのめされるのが分かっているのだろう。全員が、背嚢型汽罐を外した、ごく最低限の兵装であった。
「分かりました。すみません」
「おう。聞き分けが良いのは組織で生きていくには必要なことだぜ。んじゃ、隣失礼するぜ。玄武、手前は後ろに――ぐえっ」
黒曜が助手席の扉に手を掛けた時、玄武が襟首を引っ掴み、強引に引き留める。
「おいこら、一体何のつもりだ。変な声出ちまっただろうが」
振り返って睨めば、玄武は自身の制帽を指差した。左耳の上部、側頭部には、先刻黒曜が投げた苦無が生地を縫うように突き刺さっている。先端には薄らと血が付着している。
「痛かったぞ」
「随分品のある簪じゃねえか。毒は塗ってないから安心しろや」
「頭目は後ろだ、それがいい。拙の体躯では、収まりきらんのでな」
「ああそうかい。分かったよ。それじゃ俺は後ろの後ろだ。見張りはしてやるが、お前等も気を抜くなよ。任務は帰って上官に成果報告をして、装備の点検を終えるまでが一区切りだ。どこかの誰かに猟銃で撃ち殺されんとも限らんからな」
黒曜はそう言うと、後部座席の後ろ、車体の凹凸に足を掛け、幌の枠組みを引っ掴む。
既に玄武が助手席に乗り込んだため、重心の偏りは然程感じない。板撥条が沈む深さから、やや積載過多なきらいもあるが致し方ない。動くだけで十分である。
「拙が隣で悪かったな。我慢してくれ」
「――あ、いえ。玄武さんが嫌とか、そういうことはありませんよ」
正直期待していたのは確かですけど、と新人が言えば、素直なのは良いことだ後に奴の活躍を聞かせてやろう、と玄武は小さく笑ったようだった。
「運転手。いつまで喋っている。早く出せ」
「は、はい!」
「安全運転で頼むぜ」
黒塗りの車は、徐に動き出すと、すぐに安定した速度を保つ。
蒸気機関車とは異なり、長い暖機運転も、熟練の機関士も必要としない、最新技術が詰め込まれ、運転効率にも優れた内燃機関である。
――これで大量生産品っていうんだから凄えよなあ。
黒曜は、周囲を観察しながら米国の技術に思いを馳せる。
特にこれと言った制限がなければ技術は勝手に進歩発展していくものである。旧いものから追いやられ、新しいものへと移り変わっていく。人類が石器から青銅器を発明したように。死への恐れから神を見出したかのように。新陳代謝と言っても良いのかもしれない。
そう考えれば、我が国において、蒸気機関の天下もそう長くはないだろう。
あの怪人との話ではないが、熱効率やら環境への影響等、諸々を鑑みた場合、いかに『天照』が優れていようとも、いつかは乗り換えるべきなのかもしれない。
――いや、無理だな。
黒曜は断ずる。そんなことは有り得ない。絶対にあってほしくはないと。この国は既に引き返せないところまで来てしまったのだ。今更航路を変えようなど絵空事も良いところである。
そもそも、黒曜には蒸気機関が存在しない世界を全く想像できない。
自我を持ったのが、大正七年帝国大学付属病院第一研究室であり――上半身を起こして窓を眺めれば、街の至る箇所にある煙突から煙が立ち上る、鉛色の空が広がっていた。青空も夕焼けも、辞書でしか識らぬ概念であった。その癖、現場指揮官として知るべきこと、できなければならぬことには十二分に体得しているのだから不思議なものである。雀百まで踊り忘れずとはこのことかと密かに思いもしたが。
――では、何故日本はここまで蒸気機関に傾倒したのか。
『天照』の存在なくしては立ち行かないところまで来てしまったのか。誰が主導したのか。
少なくとも明治の頃にはなかった光景である。そしておそらく大正に年号が変わった直後にも。僅か数年の出来事のように思えてならない。
東京市のみならなず、日本各所で打ち壊し運動が起きているのは、時代や文化の急激な変動について行けない者達の悲鳴であり警鐘なのだろう。果たして、それを避けられぬ摩擦や成長痛と見做して、切って捨てても本当に良いものか。
黒曜は考え込む。
平生であれば気の迷いだと一蹴していた類のものであったが、何故かそれはできなかった。
己に求められる仕事は、役目を理解して、ただ執行するのみである。そこには、当人はおろか何人の意思も存在しない。してはならない。それが秩序を守る側――遵法者としての、せめてもの礼儀である。他人を殺害して法を語るなど冴えのある冗談ではあるのだが。
何にせよ。
歯車は、ずっとそこに在って、隣接する部品に動力を伝えるだけである。
白血球は、体内に入った黴菌を取り込み無害化するだけである。
そのようなものなのだ。それだけで良いのだ。
そこに意味やら意義やら、大層な理屈や思想を後付けしたがるのは人間の悪癖なのだ。
畢竟、こと蒸気機関に支配された東京市において自我など必要ないのである。
しかしながら。
己は『天照』を知らない。
誰が何の目的を以て造ったのかを。どうしてここまで急いて造らざるを得なかったのかを。何故こうも拡大し続けているのかを。
黒曜が問題の本質を――世界の歪み、何者かの意図を――認識しかけた時、自動車の速度が緩められる。法定速度の十マイル――時速換算十六キロから徐行となる。
郊外から市街地の目抜き通りに差し掛かったところである。見れば、対向側から数台の車輌が連なってくる。すれ違う分には問題ない道幅であった。車輌は赤一色に染められた三菱A型である。先頭の運転席に座り、こちらに敬礼を示す男とは面識があった。
特別高等警察の特務課の面々である。
「運転手、停めてくれ。向こうの責任者と話をしてくる」
「あ、はい。了解です」
「道を塞ぐわけにもいかんから、下げて脇に寄せてくれ」
黒曜が車体から降り、手を挙げれば、向こうも意図を察したのか停車して、運転席に座っていた男だけが下りてくる。特務課の副官である。こうして都合良く鉢合わせれば、毎度簡単な打ち合わせと情報共有を済ませているため、互いの部隊に不審を抱いた者はいないようである。
――お互いにもう少し緊張感を持つべきではないのかね。
互いが互いを暗殺せよと命じられない保証などないのだから。
黒曜は暢気にしている部下達を見て思うが、何も言わぬことにした。
「おう、悪いないつも。時間を取らせて」
「気にするな。必要なことだからな」
気安い口調に気分を害することもなく、副官も手袋を嵌めた右手を挙げる。
姓は裏辻という。名は分からない。年齢はそう変わらない。
部隊同士の気軽な打ち合わせだというのに、妙に耳目を集めているのは、裏辻が眉目秀麗な優男であるからと、風に靡く相手の外套が、表は漆黒、裏は深緋と華美なものであり、左腰に下げる軍刀が様になりすぎているからだろうと黒曜は分析する。
道行く町人達も、すわ何事かと足を止め、学生服に身を包んだ女学生に至っては、副官の顔をウットリと見詰めてすらいるが――その対面に立つのが黒い翼を背負う八咫烏こと処刑隊の筆頭であることに気付くと、青い顔をして一目散に逃げ出していく。
黒曜は、そんな者達の様子を見送ってから、己が任務の成り行きを淡々と述べていく。
どこで誰を何人、どのような手段で殺したのか。現場に幾つ屍が転がっているのか。残党や応援、罠の可能性の有無等も含めて話し合う。
「――ってなわけで。俺達は自動車を接収して、スタコラサッサと撤収している次第だ。荷台や座席の下も確認したが、そちらさんが欲しがるようなめぼしいモノはなかったぜ。あ、自動車を盗るななんて細かいことは言いっこなしで頼むぜ。バラせば貴重な資源になるし、何より技術の宝庫だ。輜重部隊の整備練習にもなる。俺達にはそちらさんのような足がないから一台欲しかったんだよ」
「貴公らには車は要らんだろう。その羽根は飾りじゃないだろうに。跳んでいくのを見たぞ。ついに人間が空を飛ぶ時代になったものかと感慨深いものがあったな。うちの隊にも、あれに憧れて導入しようなんて言い出す者がいるぞ」
「本当かよ。オススメはしねえぞ」
「端から見れば実に便利に見えるが。事実、門衛は空からの襲撃で始末したのだろう」
「それはそうだが、あれは飛んでいるんじゃない、墜ちているんだ。良く言えば滑空しているだけだ。それに色々と制約が多いんだぜ。体重を一キロでも減らすために前々日から絶食だ。やっても最低限の点滴だ。場合によっては下剤まで飲む。慣れた奴でも、気を抜きゃ墜ちる恐怖で漏らすから襁褓を巻いているんだぜ。悪夢で精神科のお世話になる奴もいる。何より一歩間違えれば死ぬのが最大の欠陥だな。だったら多少鈍くとも、勘付かれた相手に逃げられる危殆があっても、安全第一で行軍すべきだと俺は思うがな」
「なるほど。そう聞くと危殆と手間が掛かる代物なのだな」
「ああ。上の連中と工廠の人間がどう考えているのかは知らねえし考えたくもねえが、人間は消耗品じゃねえ。いや、仮令消耗品という側面があったとしても育成に費用と時間がかかり過ぎて代用の利きにくいモノだ。だから、まあ、なんだ。人間をホイホイと殺していいものじゃねえんだな。敵だろうが味方だろうが同じだ。国家という大きな観点で見た場合、労働生産人口が欠けるわけだから、損失にしかならねえからな、多分だが」
黒曜は堪らず言い淀んでしまう。今迄、率先して他者の生命を平然と踏み躙ってきた癖に、部下達を死なせたくないと堂々と言える程、己の矛盾に気付けぬ愚昧でもなければ、厚顔無恥にもなりきれなかったのだ。
「話が逸れちまったな。報告すべきはこんなものかね」
講堂での会敵は伏せていた。怪人の存在は己と玄武だけが知っていれば良い。特高の後始末において何の不都合も不利益も齎しはしないだろう。
だがそれは、怪人があの場から立ち去っていた場合である。
怪人と、これから現場に乗り込む特高の隊員達が鉢合わせにならないとも限らない。
その場合は十中八九戦闘になる。当然死傷者も出るだろう。そうなれば、こちらもいつまでシラを切り通せるのか怪しいものである。
――そも、どうして俺は奴を秘密にしようとしていのか。
皇女とやらを弑すという途方もない大逆を企てていたからか。はたまた、報告するに値しない蒸気機関の排斥という誇大妄想を掲げていたからか。
それとも。
己が、奴の信念に正義を見出したからか。
見逃すことで。黙秘することで。
奴の正義が。妄執が。悲願が。達成されることを望んでいるのだろうか。
己の脳髄が、奴に加担すべきと判断したのか。その方が国の為になると判断したのか。
誤った歴史は修正されるべきと。最大多数の最大幸福を追求したのか。
――否、そんなことはない。断じてない。
黒曜は小さく頭を振る。昔はどうだったのかは知らないが。今の己は、己の為だけに生きている性根からの利己主義者である。国粋主義者のような暑苦しい忠義もなければ、無政府主義や共産主義のような思想も持ち合わせてはいない。
今でこそ八咫烏という部隊長に収まっているが、それも単に、玄武という元同僚に誘われ、陸軍の御偉方にもそのように命じられたからである。目的などありやしない。
要するに。
虚無なのだ。忌寸黒曜という人間は。
ここにいるのは、人間の形をしているだけの亡霊である。殺しても死なない、何度殺されようが翌日にはケロリと何食わぬ顔で蘇る、生ける屍である。
己が黒装束を伏せていたのは、面倒だったからである。
ただ、それだけの筈である。
だが。
「それだけか?」
裏辻は問う。
思っていたことを言い当てられ、黒曜は思わず相手の顔を見詰めてしまう。