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07.第二の反復 虐殺兵器⑥

「貴殿の指摘は尤もだが、この話は、我が国に限った話ではない。英国でも米国でも、概ね蒸気機関を社会の中心に据えている国ほど肺病の罹患者は殖えているし、大気汚染は重度の健康被害を齎すものとして社会問題になっているのだ。公害なのだよ。『天照』も、それを護らんとする貴殿等も」

「続けろ」

「それだけに留まらず、数多の燃料が日々『天照』に投入されてはいるが、問題は全てが我が国の物だけで賄えているわけではないだろう。質の良いもの程輸入に依存している」

「それは、まあ、そうだな」

「『天照』が我が国の中心に在って、国民生活の利便に寄与しているのは私とて承知している。なくてはならぬ存在になりつつあるということも。だが、な。彼女を維持するための熱量を他国に頼り切りというのも(まず)いだろう。現在はまだ良いが、隣人が明日以降も手を差し伸べてくれるかは定かではない。いつ支援を打ち切られるのか分かったものではない。国益というものが絡むのなら尚のこと注意しなくてはならない。飢えて死なないとも限らんのだ」


 怪人は、白い蒸気を噴き出す配管をちらりと見た後、傍らにある栓のひとつを閉める。

 下流の配管ひとつが噴出を止めるが、部屋全体の停止には至らない。


「もし貴殿が『天照』に謁見する機を得たならば問うてみるが良い。この国の社会体系の整合性を。正統性を。持続可能な維持発展で在るか否かを。彼女がどう答えるかが見物だな。未来への危惧を述べるのならば良し。もしそうでないのならば――彼女には自我がないということになる。それでは親衛隊の者達が、何のために戦い、何のために散っていったのかがまるで分からない。あまりに浮かばれないというものだ」


 興奮したように怪人は語る。

 親衛隊という単語に反応して玄武が身構えるが、黒曜は視線でそれを制する。

 見逃すにせよ、始末するにせよ、今はまだその時ではない。まだ語らせることはできる。

 氏名、所属、思想のうち、二つ以上は把握しておきたいというのが本音であった。

 だからこそ黒曜は。


「はん、阿呆くせえ」


 徹底的に(なじ)ることを決めた。


「阿呆とな。貴殿は、今、阿呆と言ったのか」

「おうよ、言ったとも。確かに今は、近代(モダン)だの啓蒙だのと御託を並べて『天照』に忖度(そんたく)しているのは認めてやるわ。本家顔負けの打ち壊し運動が東京市のそこかしこで発生して、その鎮圧やら粛正のために俺達のような部隊が駆り出されるんだ。否定したくともできんわな。だがな、手前の言った諸々の問題を解決できるのもまた『天照』だけなんだよ。事実、脱硫装置の開発やら、有限の熱量を最大効率で運用できるのも『天照』あってこそなんだわ。手前は散々ケチをつけてくれたが代案はあんのかよ。危殆管理として第二案第三案を考えるべきだという主張にだけは賛同してやるが、文句を言って駄々を()ねるのはガキだけの特権だろうが。具体案がないなら黙ってろ。幼い感情論だけで物事を語るんじゃねえ。手前みたいな手合いがいるから社会が丸く収まらないんだよ。手前は世を憂う救国の志士じゃねえ。世を煽動して、(いたずら)に人を死に追いやる煽動者だ」

「黙れ、その不快な口を閉じろ。感情を斬り捨てるな。貴殿にはこの東京を包む怨嗟が聞こえないのか。『天照』を――蒸気機関を打破せんとしているのが民意だ。我等は、あの災害が起きないかを危惧しているのだ。被害者は増え続けている。そう遠くない未来、この国の阻害者となるだろう。貴殿は『天照』を信用しているようだが、その『天照』ですら予測し得ない天変地異が起きたらどうする。明日が、今日と同じような平穏が続いてくれる保証などどこにもないのだ。貴殿が思う以上に、既存の社会体系は脆弱なのだ。維持にだって相応の費用がかかってしまう。一体どれ程の配管が東京中に張り巡らされているのか想像もできないくらいだからな。そして何より『天照』を頭から否定する論文が帝大から発表されたのだよ」


 怪人は嬉々として語る。


「へえ、論文ねえ」


 黒曜は、興味などないという姿勢を貫く。


 内心では、権威主義に呑まれた教授共が、権威そのものである『天照』に反旗を翻すなど考えられぬという驚きが少なからずあった。もし怪人の言うことが事実ならば、特別高等警察の特務課と足並みを揃えて学部長に警告を入れると共に、その論文を提示した者を事故死せしめよとの命令が下るのかもしれないが――。


 そんな仕事はしたくない、と黒曜は考える。

 この手の論文を公表する学士という生物は、正義を拗らせた者か、世俗権力に全く興味がない者かの基本的には二択である。


 或いは。


 己が主張が世にそぐわぬことも、己の身が危険に晒されることも、全て承知の上で、それでも論文を世に出さざるを得なかった正しき告発者か。


 いずれにしても有能な人物であることには変わりない。都市運営の妨げになるからといって排除しては、却って将来的には損失である。

 いかに処刑隊などという不吉極まりない名で呼ばれ、巷から恐れられているとは雖も、筋の通らぬ仕事はしたくはなかった。今回もまた上役とやり合う羽目になるだろうか。そうならなければ良いのだが――と一応の結論を着けてから黒曜は議論を再開させる。


「ひとりで盛り上がっているところ悪いんだけどよ。その手の論文は特高で検閲やら規制がかけられているんだわ。だから内容も大したことのないものばかりなんだよ。日和見したのか学長の顔色を窺ったのかは知らんがな。あと手前は『天照』を舐め過ぎだ。地震雷火事親父――最後は兎も角、天変地異は全て把握してんだよ。伊達に天照を名乗っているわけじゃねえよ。現在も帝国大学の学士様が地震やら津波の被害を抑える方法を目下研究中だ」

「研究中とは、つまりまだ成っていないということではないのかね」

「揚げ足ばかり取るんじゃねえよ。連中の弁をそのまま信じるんなら、数年以内に実現可能らしいぜ。耐震技術にせよ、地震や津波の予知にせよ、『天照』は人命と財産を守るために、文句だけを垂れる手前等とは違って、日々必死に働いているんだよ。そんな奴をぶっ壊そうなんて良心が痛まねえのかよ」

「良心だと。貴殿が良心を語るのか。処刑隊の忌寸黒曜ともあろう人間が!」


 怪人は呵呵(かか)と笑う。図星を突かれた黒曜は顔を顰めることしかできない。


「放っておけよ、自分でも流石に苦しいと分かっているんだよこの野郎。というか、俺に良心があるのかどうかなんざ今はどうでもいいだろうが。いや、手前の言いたいことは分かるぜ。足許に屍を転がした奴が正義を語るなんざ噴飯ものの冗句だ。けどよ、事実なんだわ。『天照』が人間の役に立っていると言うことは。配管やら設備の老朽化云々だって、既に十年単位での計画が進められているんだよ。街外れの工場じゃ日々様々な鋼管が製造されているし、開け閉めの(バルブ)だって同じだ。それを運ぶ人工(にんく)だって、公共事業として、民草が飢えないという側面が強い。その感性(センス)の欠片もねえ色眼鏡を外して、汗水垂らしている連中を見てみろよ。蒸気機関に労働を強いられている可哀想な人間かよ。いいや違うね。食うに困った寡婦、痩せて痩けた猿みたいなガキ共、そいつらに飯と銭を渡して面倒を見てやる親方――殆どが、自ら進んで来やがるんだ。全員が全員、手前のような大それた志の持ち主なんかじゃねえ。今日を生きるので精一杯の人間だ。手前らの言う通りに『天照』を――蒸気機関を毀せば連中の暮らしは楽になるのかよ。本当に救われるのか。崇高な理念やら未来百年の勘定に、そうした連中は入っているのか」


 怪人は答えなかった。

 答えられなかったのだろうと黒曜は推察する。


「結論だ。この日ノ本において『天照』を中心に据えた世界は確定路線なんだわ。最早、誰が何をしたって歯車は止まらねえ。止めさせやしねえ。この東京市の薄汚れた大気を食みながら、憐れな人間の血と涙を潤滑油にして、同じところをグルグルと回り続けるんだ。言い方を変えりゃあ、なるようにしかならないんだ。何せ現世のありとあらゆる事象は神様である『天照』が徹底的に解析しちまうんだからな。人間の自由意志が介在する余地なんてありやしねえんだ。だったら最初から割り切って、一個の歯車たるべしと己が分を弁えた方が精神衛生上は遙かに楽だわな。ああ、だが勘違いはすんなよ。俺という人間の個性も感情も確かに存在してんだよ。俺はこの通り、大昔にヘマをやらかしたらしくてな」


 右肩より先を喪くしちまったらしいんだ、と黒曜は義手を展開して大袈裟に回してみせる。生身の可動域を遙かに超えた、発条(ぜんまい)じみた回転である。


「この義手を授けてくれた医者曰く、何でも設計には『天照』が大いに関与しているようでな。だからというわけじゃあないんだが頭が上がらない。いいや、俺はこの世界を愛しているんだ。何せ一度は死んだ人間が、有り体に言えば社会の塵芥(ごみ)でしかなかったこの俺が、こうして役割を与えられ、影ながらも社会秩序の為に尽くしているんだ。世間一般の物差しで測ればクソみたいな役目なんだろうが、これを愛さずにはいられないだろう」


 その任務が後ろ暗いものであり大衆から恨みを買おうとも。倫理道徳に背こうとも。

 人間として一度は死んでしまった己にしかできぬ仕事であり、最適解なのだと黒曜は思っていた。多少の誇張はあれども本心であった。


 講堂の壁沿いを走る配管に設置された膨張弁が一斉に音を立てて蒸気を噴き出した。


 まるで黒曜の弁を受けて恥じらうかのように。

 黒曜の背を後押しするように。


 しかし当の黒曜はそのような情緒など持ち合わせておらず、唐突かつ不可思議な首を捻る。

 蒸気圧力の上限異常である。供給側の高圧配管が破損して蒸気が漏洩する今、通常ならば起こり得ぬことであった。過度の燃焼か、圧力の減少を感知した都の中継炉が、均衡を取ろうと過剰分を回したのか――。


「貴殿が愛を語るのか。これは傑作だ!」


 黒曜の思索は、怪人の哄笑(こうしよう)によって遮られる。


「なんだよ、悪いかよ」

「ああ、悪いとも。実に悪い。今迄、弱き者を(なぶ)り殺してきた貴殿が。女子供まで容赦なく斬り捨ててきた貴殿のような者が愛を語るなど。そんな珍妙奇天烈な話があって良いものか!」


 問答のうちに怪人の心情を踏み(にじ)ってしまったらしい。

 怪人は、笑いながら怒るという器用な真似をして、一(しき)り笑った後。


「やはり、私と貴殿は相容れぬようだな。少し揉んでやろう、有り難く思え」


 怪人は黒曜に向かって跳躍した。

 黒曜の横、洋卓の天板に着地すると、顔面に向かって太刀を抜刀する。

 黒曜は身を屈めることで、白刃を避けることに成功する。


「危ねえな、殺す気か!」


 黒曜は喚きながら背後に跳ぶ。強靱な下半身による、狼の如し跳躍であったが、読んでいたとばかりに怪人も間合いを詰める。


「当然だ。死にたくなければ避けてみろ」


 怪人は太刀を三度振るった。

 一度目は大上段からの袈裟斬り。体捌(さば)きでいなす。

 二度目は平突きで胸を穿ちにかかる。上半身を強引に反らすが、刃は右肺まで到達した。

 三度目は、これが本命と言わんばかりの横薙ぎ――回転胴であった。深く反った刀身に、遠心力を乗せた、紛うことなき致命の一撃である。


 ――畜生、躱せねえ。


 黒曜は護拳刀を引き抜き、鍔元で剛剣を受ける。否、受けざるを得なかった。


「おいこら、然るべき時に殺り合うんじゃなかったのかよ」


 悪態を吐きながら、黒曜は重圧に耐える。均衡を保ったのは僅かの間だけであり、徐々に力負けして、刀身は撓り、躰ごと押さえ込まれてしまう。


 ――こうなりゃ奥の手だ。


 舌打ちを(こぼ)した黒曜は、半ば破断しかけた護拳刀を鞘に戻すと。またも後方へ跳び退がるが、怪人も食らいついて離れない。

 怪人が太刀を振りかぶった瞬間、黒曜は怪人の懐に潜り込み、握った右腕の拳を相手の水月(すいげつ)に叩き込む。黒曜が恃みにしている、鋼鉄の義手による正拳突きであった。


 怪人の躰が「く」の字に曲がり、怪人は蹈鞴(たたら)を踏むが。

 横隔膜を震わせることはできたが、何かを着込んでいるようで、胃や心臓を潰した時に特有の感触はない。間髪入れずに、黒曜は怪人の右肘を蹴り上げる。皮膚を割き、肉を潰し、間接を砕く――場合によっては切断しなくては助からぬ、本気の蹴撃であったが。


「――固えなあ、おい!」


 怯んだのは黒曜の方であった。


「嗚呼、糞が。手前も御同類かよ」

「何の話だね」


 玄武が投げつけた短弧刃を躱しながら怪人は言った。


「惚けなくとも結構だ。最初からおかしいと思っていたんだ。そこな筋肉馬鹿なら兎も角、手前みたいな細っこい奴が、この俺に力押しで勝とうなんか。間合いの詰め方、得物をどう扱うかってのは確かに人間らしい理解に(のつと)った紛うことなき剣術だよ。だが肝心の振り方は力任せの棒振りと一緒だ。どうだ、違うか」

「火事場の馬鹿力とは考えないのかね」

「ねえよ、そんなもん」

「ない、とな」

「この世は、全て必然で成立してんだよ。あるのは因果だけで、まぐれとか偶然なんて存在しねえと俺は思っている。というかそんな話なんかどうでもいいんだわ。手前が不具(かたわ)じゃなかったらどうしてそんなに腕が固えんだよ。あまりの固さに足首を痛めたぞ。ついでに護拳刀もオシャカだ。いくら数物だっつっても金はかかんだぞ畜生」


 黒曜が護拳刀を抜いて、二三度振り払えば、引っ張り強度の閾値を超えたのか、あっさりと鍔元で折れてしまった。


「ふん、得物が折れてしまっては仕方ない。戯れはこれまでにしておこうか」


 話を戻そうじゃないか、と黒曜の文句など興味がないかのように怪人は言った。呼吸と発声に問題がないあたり、やはり内臓の損傷はないらしい。


「貴殿は『天照』をさも万能のように語るが、科学とやらで自然の驚異を制御できるものか。想定外の天災などいくらでもある。富士山が噴火した場合を考えてみろ。降り注ぐ火山灰や押し寄せる土石流を堰き止めてくれるというのか。大地震が起きたら建物の崩壊を防いでくれるというのか。大雨洪水が来ようものなら雨雲を吹き飛ばしてくれるというのか。できるわけがないだろう。『天照』にできるのは、被害と規模の予測まで。謂わば机上の空論だ。それを取捨選択するのは血の通った人間のなのだ。良いか()く聞け。心を持つ人間として言わせてもらおう。『天照』に依存するなど行き詰まるだけだ。その先は人間が生き残れぬ社会だ。大いなる誤謬(ごびゆう)だ。だからこそ私が介錯してやらねばならぬのだ。人間を人間たらしめるのは感情だ。それを無視して、只の道具に使われるような主客の逆転した社会など断じて赦すわけにはいかんのだ。貴殿の言う歯車は止めなくてはならぬ。人間が犠牲になるなど。もう二度とあってはならぬ。ゆえに私は――」


 怪人が息を継ぎ、黒曜を真っ直ぐと見詰めた儘。


「皇女様を(しい)さねばならんのだ」


 と言った。

 その目は確かに黒曜を捉えているようであったが、怪人の意思は、ここではないどこかに向けられているようで。黒曜は対峙する者にも浅からぬ理由があることを今更ながらに察する。だが、それ以上に黒曜の注意を引いたのは。


「皇女サマだあ? おいこら、話が飛躍してんだよ」


 黒曜が抗議するも、一体何が疑問なのだね、と怪人は動じない。


「手前の御題目は、蒸気機関の排斥――謂わば『天照』に一極集中された国家運営への反発だろうが。後付けの理由として、環境問題やら天変地異やら論文やら文句を並べているが――根本は個々人の負の感情じゃねえのかよ」

「後付けの理屈という言い回しが気に食わないが、概ねそのようなところだ」

「ふん。大概当たってんなら、そいつはマルと見做(みな)されるべきだぜ」

「成る程。貴殿には善と悪、一か零しかないわけか。流石(さすが)処刑隊ともなれば言うことが違う」

「どうとでも言いやがれ。灰色の領域をあれこれ考えて、それらしい理屈と数字で埋めて勘定に辻褄を合わせるのは経理の仕事だ。俺達に求められるのは手柄か首級で、もっと言えば失敗なんざ上が認めねえ。金と銃弾、血と汗をあるだけ積み重ねて、無理を押し通すのが俺達の役目なんだよ。我ながら野蛮というか、科学全盛の時代に根性論なんざ、明治維新まで退化している気がしなくもないが――っと、話が逸れちまったな。どうして手前が皇女サマを狙うっていう話になんだよ」

「貴殿は覚えてはいないのだな」

「あん? 何がだよ」


 黒曜が尋ねる。怪人が答えようとした時。


 だん、という音がした。部屋中から蒸気が漏れ出す音よりも強い、俎板(まないた)に包丁を叩きつけるが如し張りのある音であった。


 音の発生源を見れば。

 怪人のすぐ横、壁に投擲用の短弧刃が深々と突き立てられていた。

 投げたのは玄武である。血走った眼を見開いて男を睨んでいる。暗器が逸れてしまったのは怒りの余り手元が狂ってしまったせいであろう。


「その口を閉じよ!」


 玄武の眼には明確な殺意が宿り、護拳刀の柄は両手で固く握られている。鍔元を担ぐように、右肩に寄せた、変則的な上段の構え――玄武の十八番(オハコ)である。


 ――死んだな、この黒装束。


 黒曜は心の裡で溜息を零す。玄武は既に(はら)を決めてしまったようだし、己も先刻、管理自殺(アポトーシス)が狂いつつある帝都を愛しているという心にもない啖呵(たんか)を切ってしまった。

 ここまで来て、ハイそうですかそれでは御達者で――などと後腐れなく知らぬ存ぜぬを貫くことはできないだろう。その程度には、因縁が生まれてしまったのだ。


 黒曜は、足許に転がる骸のひとつまで寄ると、足蹴にして仰向けにさせた後、腰に差した匕首(あいくち)で頸を切り裂く。既に死んでいるため、血が噴出することはなかった。

 当初の予定では、ひとりひとり、脈拍を計測したり、瞳孔の反応を確認したり等、丁寧過ぎるほど丁寧に殺して廻るのだが――この場合は仕方がない。そもそも、任務には異常がつきものであり大なり小なり邪魔が入るものがある。滞りなく遂行できた件数の方が少ない。


 黒曜が会議参加者を改めて見れば、殆どが四肢のいずれかを欠損して壁際まで転がっていた。運良く頭部を残し、人間の原形を保っている者も数名いたが、口と鼻から血を垂らし、泥水の如し濁った瞳で宙空を見詰めるだけであった。

 奇跡でも起きぬ限りは助からないだろう。仮令、一命を取り留めたところで、発話や運動といった高次機能を取り戻すことはない。与えられた任務は達成したと言っても良いだろう。


 ――山場(ヤマ)は超えた。あとは部隊の撤収だが。


 駄目だな。まるで冷静さを失ってやがる。

 避けるべき、本来不要な戦闘によって死ぬのも殺すのも御免である。

 無論、これは仏心や慈愛などといった意味ではない。こちらが負傷する危険であったり、上役への報告の手間、消費する弾薬と熱量――諸々を鑑みての解析である。


 我ながら人間性を喪失した己らしい思考であると黒曜は自嘲する。ゆえに、人間らしい理由で怒っている玄武を説得することはできないとも。


「頭目」

「何だよ」

「これより拙は、己が矜持を以て死合う。手出しは無用」

「好きにしろ」

「かたじけない」


 玄武は怪人へ向き直る。

 怪人も、太刀を徐に抜く。濡れたように光る瑞々しい刀身であった。

 両者を取り巻く空気が、人間の機微に(うと)い黒曜にも分かる程に張り詰めていくが――。


 ――阿呆くせえ。馬鹿だよ手前等は。


 黒曜は折れた護拳刀を放り捨てる。

 尤も、これは演義である。玄武を信用していないとまでは言わないが、窮地に追い込まれた場合は腰に差した投擲用の暗器を投げ放つ積もりであった。


 しかし興が乗らないのも事実。

 上役に勧められて嫌々見に行った蒸気映像のような。上役に押しつけられた三文小説を手にした時のような――事の運びが容易に想像できる素人以下の芝居である。


 即ち。


 あの黒装束は間違いなく死ぬ。

 玄武は、あの巨躯と大柄な得物を恃みに大きく踏み込むものだから、兎に角間合いが広い。

 先手を打って脇を締めながら袈裟に斬る。これが一手。

 回転しながら遠心力に任せて二度目の袈裟斬りを放つ。これが二手。

 それでも相手が立っていようものなら渾身の兜割りを叩き込む。これが最終手。


 持ち前の剛を活かしながらも、それを扱う技を併せ持つ――少なくとも、初見では絶対に、受けることも躱すこともできない舞うが如しの妙技である。まさに殺人のための剣術である。


 ――玄武に良いところ持って行かれたか。給金にも色をつけてやるか。


 黒曜が帰着してからのことを考えた時である。

 玄武が動いた。想定通りの動きであった。

 鋭い踏み込みにより、板張りの床が軋み、洋卓が一寸ほど浮き上がる。

 白刃が、怪人の肩口に吸い寄せられるように動いた時。


 がちん、と。


 鉄と鉄が衝突する音がした。刃と刃が鎬を削り合うような音ではない。

 もっと低くて鈍い――失態(しくじり)の反響であった。

 黒曜が目を凝らせば、玄武の目の前に怪人が立っていた。

 怪人は、懐に潜り込むことで、玄武の護拳刀を受け止める事に成功している。

 だが、まぐれでもなければ強引な方法でもない。機を捉え、相手の出掛かりを先んじて封じる――理合のなんたるかを知った、人間らしい剣術であった。


 両者は、その姿勢の儘、暫し動かなかった。


 ――違う、動けないのだ。


 玄武は、主武器を抑えられた以上、他の暗器か体術に頼るしかないが、その隙をくれるほど生温い相手ではないことを膚で感じた筈である。身動ぎひとつでもすれば、喉を割かれるとでも思っているのかもしれない。

 対する怪人は、間合いが近過ぎて、自慢の得物がまるで役に立たないことを悟ったのだろう。また目の前の巨漢は、八咫烏一番の近接戦闘担当であり、全身をガチガチに固めた重装歩兵である。強いて対抗策を挙げるなら、組み手か何かで押し倒して、心臓なり頸なりを抉ってしまえば良いが――こと格闘で玄武に挑むのは無謀である。


 両者が両者を牽制するがゆえの拮抗であったが。


 ――野良猫の喧嘩じゃねえんだ。馬鹿馬鹿しい。


 黒曜は、一度は収めた拳銃を取り出す。


「伏せろ、玄武」


 言うや否や、腰に下げた苦無(くない)を扇状に投擲する。五本の内、二本が怪人の胴体に命中するが、相手も服の下に何かを仕込んでいるらしく、簡単に弾かれてしまった。

 黒曜は、玄武が転がり避けるのを確認してから、拳銃を構えて二発発砲する。

 狙いもしない、当たれば儲けものの威嚇射撃であった。


「貴殿、邪魔をするとは度し難いな。手出し無用ではなかったのかね」


 後方に跳び退いた怪人は言う。案の定、二発の弾丸は壁に穴を開けるだけであった。


「そんなの時と場合によるだろうが。敵との口約束なんざ信じる方が悪い」


 黒曜は銃口を男に向けた儘喋る。


 この距離であれば、精度が悪い南部式でもどうにか当たってくれるだろうが、ここで男を射殺して本当に良いのか。何か訊くべきことがあるのではないかというゆえも知れぬ疑念と、郷愁交じりの幻肢痛に支配され、引き鉄を絞ることができなかった。

 今迄、経験したことのない、命令と実行の齟齬――理性と感情の剥離であった。

 破れた配管から吐き出される白い蒸気が、黒曜と怪人の間に辷り込み、両者の輪郭を曖昧に濁してしまう。

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