06.第二の反復 虐殺兵器⑤
黒曜が自身の存在に対する疑念と誤謬、矛盾と破綻を自覚しかけた時。
「早いか遅いかの違いだと?」
怪人が言った。男か女か、老人か子供かも分からぬ声により、黒曜の意識は大正十年――血と蒸気に満たされた講堂に引き戻される。
「そうだ。手前はあの災害があった日から今日迄の三年間で何をしてやがった。手前等が何もしてこなかったから、いつの間にか蒸気機関がこの街のド真ん中に居座り、今や東京中に配管を引っ張って、最早引き返せないところまで来ちまったんだろうが。本当に蒸気機関が要らねえって言うんなら、災害が起きたその日にでも歩き回って打ち壊しでもすりゃ良かったんだ。当日が無理なら翌日。翌日が無理なら翌々日だ。こういうのは早ければ早い方が良いだろ。思い立ったが吉日、善は急げだ。〝The soon as best〟とでも言おうかね」
「成る程、成る程。貴殿の言わんとしていることは分かった。能く分かったよ。ならば私達にとっての吉日は今日だ。そしていずれ貴殿を殺してみせようではないか」
「手前、人が折角忠告してやってんのに聞く耳なしかよ。それに手前も執拗いな。一体どこで買った恨みなのかが、てんで分からねえ。手前は一体何者だ。名前くらい名乗りやがれ。殺されてやるのは無理だが、正当性がある理由なら、手を突いて詫びてやらあ。ああ、だが三年より昔のことは駄目だな。何せ記憶を喪くしているもんでな」
「そんなことは百も承知だよ」
「手前そりゃどういう意味だ」
「貴殿は」
黒曜を無視して、怪人は言った。
「この国はもう引き返せないところまで来てしまったと言ったな」
「おう、言ったとも。付け加えるなら、だから諦めちまえとも思ってるぜ。そして今すぐ目の前から消えてくれともな。今なら見逃してやらあ。上役にも黙っておいてやるぜ」
ほら行きやがれ、と黒曜が背後の扉を指差せば、折角だが遠慮しておこう、と黒装束は掌を見せる。革手袋を嵌めているため骨格すらも分からない。
「心にもないことを。処刑隊だろう貴殿等は。時計塔から烏が飛んだらすぐに隠れよ、血も涙もない壬生狼気取りの殺人狂とまで言われているのだ。そんな者達に背中を向けるほど間抜けではないのでな」
「ふん、よく分かってんじゃねえか」
黒曜は不快に鼻を鳴らす。
図星を突かれたからではない。
侮蔑されたことでもない。
怪人と対峙していると、鏡を突きつけられているかのような気分になるからである。
己が知らぬ忌寸黒曜という亡霊が黄泉返り、罪の清算を迫っているような――罪悪感にも似た感情を抱いてしまう。
「手前は蒸気機関を駆逐するみてえなことを言いやがったが」
まともな人間らしい感受性が己の裡にあることを認められずに黒曜は反駁を試みる。
「何度でも言ってやる。そんなものは無理だ。合理的じゃねえ」
「合理非合理の問題ではない。私とて言った筈だ。そうしなくては報われぬ者が多過ぎるのだ。この東京に満ち満ちているのだ」
「手前ら反乱分子は、よくもまあ揃いも揃って似たようなことを言いやがる。その手の文句は聞き飽きたぜ」
「貴殿がどう思おうが、何度だって繰り返そう。蒸気機関は――『天照』は要らんのだ」
「それだよそれ」
「む?」
怪人は首を傾げる。遮光眼鏡の奥に隠れた双眸が一瞬だけ透けて見えた。強い意志がありありと灯された、凜々しい眼であった。
黒曜は、目許の造形を検索に掛けるが一件も該当しない。
初対面か、或いは大災害以前の知り合いか。
「手前だってここ東京に生きている人間だろうが。蒸気自動車や蒸気式計算機は兎も角、汽罐で暖をとったり、蒸気映像を見たり、暗くなれば電燈を点けたりするだろう。電気だって羽根車原動機を回して得られる力だよ。それだけじゃない。新聞やら広告を刷るのだってもう殆どが機関の仕事になっちまった。活字拾いのために生活苦の小童を雇う時代はもう終わったんだ。瓦斯灯の青いボンヤリとした光なんてどこにもない。繊条の目に煩い電球がビカビカと品のない光を振りまいてやがる。その下を、紳士淑女の皆々様が我が物顔で闊歩するんだ。日々の頭脳労働に疲れ切った洋服細民か、男供が中心の社会構造に呆れ果てた職業婦人かもしれねえが――まあ、何だっていいさ」
黒曜は指先で頭を掻きながら、言葉を整理する。
「連中の着ているモンは、きっと最新式の紡織機で製造された大量生産品だ。綿や絹なんて上品なものじゃねえ。化学繊維に人造繊維、呼び名は色々あるだろうが、きっと大半は舶来モノの銅アンモニアレーヨンか何かだろうよ。手前のその小洒落た襟巻も、俺達が着けている兵装も、どうせ人絹なんだ。覚えておけ、時代は変わったんだ。人間が汗水垂らして働いていた時代はもう過去だ」
「過去とは言い過ぎではないかね。例外だってあるだろう」
「まあ、一次産業なんかは、もう少し時間はかかるだろうが――それでも蒸気機関が人間の代わりに森林を伐採して、田畑を開墾して、魚類を乱獲してくれるようになるだろう。いや、俺が知らないだけで既にそうなっちまったのかもしれねえ。何にせよ男耕女織なんて時代遅れだ。人間にできるのは、今の今まで積み重ねてきた歴史や宗教、道徳と照らし合わせた上で、機関に任せていい領域をキッチリ線引いて、より効率的或いは非効率の極みを以て――舵取りをするしかねえんだ。尤も、技術の進歩が早過ぎるせいで、肝心要の人間様が条件反射的に反発しちまっているから目も当てられねえけどな」
黒曜は持論を述べていく。
自分でも意外に感じてしまうほど流暢で熱のある活弁であった。特別、誰かに師事していたわけでも影響を受けたわけでもない。黒曜個人の主張であった。
「もっと言ってやろうか。これは手前らが憎む『天照』だって同じだ。いいや、寧ろ『天照』こそがこの都の大本命で大本丸よ。人間に喩えりゃ心臓だ。優れた頭脳だ。優れているってところが重要でな。人間が解けないような難問も、『天照』にかかりゃ、ものの数秒で答えを弾き出してしまうんだ。文字通り桁違いの速度と正確さだ。だから利用申請者は後を絶たない。帝大の教授連中や陸軍参謀本部の生え抜きから、計算と発明が趣味の、下町の親父まで。要するに、医学薬学科学工学――ありとあらゆる分野の最先端は『天照』によって支えられているんだよ。それを破壊しようだなんて寝言は寝て言いやがれってんだ」
己を含め、蒸気機関ひいては『天照』の恩恵を受けている者は多い。個々人の損得勘定の範疇を超え、国家の問題として考えなくてはならない。そして反乱分子の活動が事を為した場合――即ち『天照』からの脱却ないし破壊に成功した場合――国益は大いに損なわれるであろう。国際競争の場に立つことすら叶わず、どこかの列強に支配され、植民地となる可能性すらあるのだ。それを大勢の者が苦しんでいるからと言って反対だとするのは短絡に過ぎて、黒曜には全く理解できない。
来し方に事故があったなら、今度はそれが二度と起きぬような対策を練るしかないのだ。過去を振り返っても前に進めない。数多の犠牲、そしてそれを赦す寛容さがあって、初めて人間社会は構成されるのだ。ここで文明社会から逆行してみろ。それでは、何のために、明治維新だ文明開化だと言って、この国のために働き、死んでいった者達が浮かばれないではないか。
しかし、それは過去を持たぬ己だからこそ吐ける綺麗事でしかないのかもしれない。
もしも己が、記憶を失わずに、愛した女の顔を覚えていれば。同輩達を弔う篤い友情があったとしたら。きっと八咫烏などという部隊には入っていなかった筈である。残された人生の全てを復讐に捧げていたのかもしれない。
己には理解することはできないが、人間には、私利私欲や損得勘定などといったものでは決して測れない、より崇高でより高潔な自己同一性や自尊心というものが存在する筈なのだ。少なくとも、己が暗殺してきた者達には、そういう類型が多かったように思う。
また己が蒸気社会に拘泥するのは、その在り方が国家及び臣民に広く便益を与えるからである。代替手段があるのならば反対はしない。寧ろ諸手を挙げて賛成すべきである。具体的には化石燃料を用いた内燃機関や風力、地熱、太陽光から熱量を取り出す自然科学の分野だろうか。いずれにしても、蒸気機関の発達と比較すると、その成長は研究者の少なさゆえに遅々としており、簡単に挿げ替えることはおろか両立も難しいのだが――。
――冗談じゃねえぞ、おい。
黒曜はまたも不快に顔を歪める。
己は蒸気機関が犇めく、硫黄と煤煙が漂う世界で生まれたのだ。
その世界でしか生きられぬ人種なのだ。
今更世界の仕組みを変えようなんて困るではないか――。
黒曜が、自分自身の利己を自覚した時である。
「そうだな。貴殿の言うことは確かに尤もである。だが」
怪人は鷹揚に頷いた。
「その程度の理由で引き下がれるほど私達の怨嗟は浅いものではないのだ。貴殿は我々が『天照』の恩恵をいかに享受しているのかを説いたが、私に言わせれば、それは依存でしかない。我が国と臣民は『天照』に依存し過ぎているのだ。それに貴殿は知らんだろう。『天照』が開発された本当の理由を」
「本当の理由だと」
「考えてみるがよい。『天照』が多岐に渡る分野の研究開発に役立っている。ここまでは良い。実に至極真っ当な使い方だ。世界にも類を見ない優秀な機能を持つがゆえ、利用者が長蛇の列を作るというのも納得できる。余分な蒸気は生活の利便に役立っている。だが、本当にそれだけの理由で、毎日日本各地から莫大な石炭を始めとする化石燃料が運搬され、地下の巨大炉で消費されるものか。その消費量が余りにも多いと思ったことはないか。本来とは全く異なる理由で化石燃料を消費していると思ったことはないか」
「つまり手前は、『天照』に用いられる燃料が、本来の用途以外の使われ方をしている。そう言いたいのか」
尋ねながら、黒曜は頭の片隅で試算する。利用者の数や頻度は概ね把握している。同じく、旧宮城地下に設置された巨大炉に日々運搬される化石燃料の総量も。
しかし、解は出なかった。
肝心の『天照』の構造設計を知らなかったためである。知っているのは、何秒間にどれだけの計算を熟せるかという表面上の機能だけである。
無論、構造を知らずとも『天照』は稼働する。利用者の殆どが、計算上必要な数値を入力すればすぐに応答してくれる便利な装置という認識でいるだろう。
道具というものは得てして、そういうものである。使うにあたって一から十までを知る必要はない。拳銃の引鉄を絞れば弾丸が飛び出て命中すれば人は死ぬ。そこに拳銃内部の構造やら、射出の速度、排莢の仕組みなどといった理解は基本的には不要である。
――とは雖もだ。
黒曜は、己が『天照』を理解していなかったことに――無知であるという自覚に欠けていたことに――少なからず衝撃を受けてしまう。
無論、博識あれかしと己に言い聞かせていた黒曜とて全てを知っているわけではない。
寧ろ、知ることを放棄していた事象の方が多い。婦女子が好みそうな話題も、世を賑わせている流行も、政治や宗教などといった世間の常識も理解できずにいる。住む世界が違うのだから知らなくても良いとすら思っていた。己が関わらずとも社会は回るものであり、また自身がいつ死ぬか分からぬ身の上であるという環境も相まって。
古代希臘のソクラテスに無知を指摘された知識人はこのような心持ちなのかもしれないと黒曜は思う。この感覚は、己が記憶喪失であると指摘された時と酷似していた。逆説的に、忌寸黒曜という人間は『天照』に深く関与していたということになってしまうのだが――。
「やはり、知らなかったようだな」
黒曜は、沈黙を以て続きを促す。
「それだけならいざ知らず、『天照』から排出される瓦斯もまた問題なのだ。化石燃料と一口に言っても、主に燃やされるのは石炭だ。石炭を焼べれば、煤煙と二酸化硫黄が発生するのは今や尋常小学校でも扱われている内容だ。それは何故か。三年前のあの日、暴走した『天照』を始め、その支配下にあった多くの汽罐が貯蔵した石炭を食らい尽くすように燃焼したのだ。貴殿には分かるか。想像できるか。宮城に点在する幾つもの汽罐が火を噴き、天高く伸びた煙突からは真っ黒な煙が立ち上る光景の悍ましさを。人間の制御しきれぬ技術など、手に余る科学など、断じて幸福など齎さぬと、私はその時になって遅まきながら気付いたのだ」
黒曜は何も言えない。言葉を発する権利を持たない。
「あの日、大災害などとは言われているが、陸軍の工廠から暴走した人形兵器が這い出て、民を虐殺し、街の至るところで破壊活動を始め、四方八方から宮城に押し寄せていく光景はまさにこの世の地獄だと思った。だが、本当の地獄はその後の騒ぎだ」
その後の騒ぎ?
「当時最先端の技術を詰め込んだ人形兵器は確かに脅威ではあった。蒸気機関の暴走も同じく。だが所詮は一時の災禍だ。人形達は忌寸黒曜が全て破壊したというし、臣民の保護と秩序の回復は軍と警察が連携して取り組んでくれた。どうかな。覚えているかな?」
「記憶にねえよ」
「ああ、そうだろうとも。貴殿はその戦闘が原因で記憶を失い、そちらの御仁も浅からぬ傷を負ってしまったと聞いているよ」
圧し黙る黒曜を横目で見遣ってから。
「我等のことを知っているのか」
と玄武が訊いた。
「ああ、知っているとも」
「何処で」
「共通の知り合いがいるのだよ」
ややあってから、怪人は答える。
「問題となったのは、その後の大気汚染とそれに伴う健康被害だ。先刻も言った通り、石炭が燃やされれば二酸化硫黄と煤が生成される。それが亜硫酸の気体となりて、東京市上空を覆い尽くしてしまった。元々、煤は呼吸器疾患の原因だと指摘されており、度々炭鉱やら陸蒸気、自動車が槍玉に挙げられるが――気候条件が悪かったのだろうな。前日、前々日と降り続いた雨に打って変わって晴れたがゆえの放射冷却現象により気温が下がった。また東京上空は無風だったことで帝都に滞留した濃霧に亜硫酸が溶けて混じり――強酸性の霧となって臣民に牙を剥いたのだ」
後に瘴気と呼ばれるものだな、と怪人は言った。
「病院には兵器に襲われた者だけではなく、瘴気によって目や鼻、呼吸器系を痛めた者達が雪崩のように押し掛け、病床はどこに行っても満杯、口や鼻を覆うマスクや手拭いが品不足になった。そもそも呼吸器系の疾患――気管支炎、咽頭炎などといった慢性的閉塞肺疾患の患者にできることなどまずない。激しい喘息の発作による呼吸困難や心臓発作で年端もいかぬ子供や体力の衰えた老人から次々と死んでいった。今も、こうした症状で苦しむ者は大勢居るのだよ。ゆえに現在なのだ。現在、変えねばならぬことなのだ」
「確かにそうだな。間違っちゃいねえ。手前にも正義というものがあることは認めてやらあ。だがな。それを契機に工場やら汽罐では煤煙の排出に大きく規制がかけられたことくらい手前も知ってんだろ。それにもう東京にある汽罐の殆どは、硫黄分を含まず、煤も出さない無煙炭か骸炭に切り替わりつつある。まあ、今でも褐炭や泥炭を使っているところはあるが、それも費用対効果を鑑みて、已むを得ない場合くらいだ。何せ日本では一部しか産出しないからな」
無煙炭の主な産出地域は、大嶺、秋田、筑豊、志免、天草に限られる。量も潤沢とは言えず、米国、中国、印度からの輸入があってどうにか成り立っているのが現状である。
尚、海軍は軍艦を動かすに際しての隠密性を考慮して、大災害以前から無煙炭の有用性に目を付けていたらしいが、質の悪い化石燃料の有害性にまでは考えが及ばなかったらしい。
――いや、そんなわけねえか。
海軍は生え抜きの中の生え抜きである。伊達に英国を模倣して、純白の制服で着飾っているわけじゃねえ。確かな教養を持った紳士でありながらも大和魂を持った連中である。気付かぬ筈がない。言及して然るべきである。
大方、政治的な阻害が入ったか、疑念を挟む余地もないほどに『天照』を中心に据えた体系が出来上がっていたのだろう。
いずれにせよ、我が身の保身を考えれば追求は避けたい案件である。
「ついでにもうひとつ加えるとだ。脱硫装置の開発もしっかり進んでいるんだ。分かるか。公表されている数値を信じるのなら、『天照』を初めとする主要な機関や汽罐からは硫黄酸化物が検出されねえんだよ。何がどうなって機能しているのか迄は流石に知らないが。どうだ。これでもまだ『天照』が不要だと言うのかよ」
「ああ、言うとも。そんな上辺だけの理屈で私の意見が覆ると思うなよ」
「手前も頑固だな。そんじゃあ聞いてやるよ。一体全体、何がそんなに気に食わねえんだよ」
「全てだよ」
怪人は即答する。
「排出される瓦斯に硫黄が含まれないのは良いとも。だがそれ即ち無害であるとはいえまい。大量に排出される二酸化炭素や目に見えぬ粉塵は人体にとって有害な物質であろう。人間を無自覚の儘、裡から蝕んでいくのだ。貴殿は知らないのか。我が国の肺病患者の数は、蒸気機関が導入されてから右肩上がりに増加しているのだよ。『天照』が造られてからは尚更だ」
「そりゃ本当かよ。病院の数が増えたからとか、検査の精度が向上したとか、人口の増加や出生率の増加で、臣民の絶対数が増えたとか――諸々の条件が絡んでいるとは考えないのかよ。数字をただ拾って全ての責任を『天照』におっ被せようとするのはどうかと思うぜ。まあ、俺だって確かな統計を知らないから何とも言えないが――いや、医療とやらはサッパリだ」
黒曜にとって、医術というものは未知の領域であった。
内科医が薬を処方して、外科医が止血して傷口を縫う。他にも眼科、耳鼻科、脳神経科、産婦人科、精神科、呼吸循環科――ありとあらゆる分野が存在し、如何なる時代においても民から必要とされ続けた、知識の集積であることは確かなのだが――どのようにして、人間の疾病が治癒するのかが分からない。
無論、現場指揮官として必要最低限の知識と経験は持ち合わせている。
任務において負傷した部下の手当をしたことがある。反対に敵から銃撃を受け、前後不覚に陥ったところを、病院に担ぎ込まれたこともある。ただ、その程度である。部下の出血は止まり、戦線に復帰して今もいる。己の方も気が付けば弾丸の摘出手術が終わっていた。
黒曜にとって医術とは、再起不能に陥った者を蘇らせる謂わば魔術のようなものであった。
己が失態った時、決まって目を覚ますのは同じ病院、同じ研究室、同じ寝台の上であった。花瓶に挿した造花らしい向日葵の位置も角度も、黄ばんだ窓帷越しに差し込む陽光の具合も同様であった。極めつけは、上体を起こす己のすぐ隣――椅子に座って洋書を読んでいた女が、本を閉じて、ふわり、という擬音が似合う笑みを投げ掛けるのだ。
一度目は、自身の記憶が戻らぬということもあり混乱した。
二度目は任務の達成と部下の無事を知り安堵した。
三度目は既視感に気付き、四度目以降は気にもしなくなった。
そうした反復の中で、部下達は死に、多くを殺し、利害関係者は変わっていくが――病院に運び込まれた際の目覚めは何一つ変わらない。光の加減も、面白味もない天井の模様も、作り物めいた女の微笑も。本物の作り物である向日葵も。
この病院、この研究室だけが、時間の流れ、エントロピーの増大という世界構造の理から外れた箱庭のように思えてならなかった。
いずれにせよ。
黒曜にとって医学というものは。医療技術というものは。
人類を救済するどこまでも理屈の通った学術の一分野であると同時に、数多の哲学をもって立ち向かわなければ簡単に呑み込まれてしまう奈落のようなものであった。