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05.第二の反復 虐殺兵器④

「人間臭えのは御免だぜ。今日ここで手前を見たことは上には黙っておいてやるよ。勝手にするんだな」


 黒曜は拳銃を拳銃嚢(ホルスター)に収め、怪人に背を向ける。

 標的だった男達は皆死んでいる。要人暗殺という役目は果たしたのだから文句を言われる筋合いはない。言われたところで気にもしない。


 怪人が翻意して、懐から拳銃を取り出して発砲する可能性はあったが、問題ない。(そびら)に仕込んだ装甲は小口径の火器ではまず()けない。仮令撃ち抜かれたところで、病院に駆け込んで弾丸の摘出と整復を受ければ良いだけである。過去に肺と心臓を撃たれた時はそうだった。突かれる不意など元よりありはしない。


「玄武。引き揚げるぞ」

「待たれよ」


 立ち去りかけた黒曜が振り返れば、玄武は怪人を凝視していた。正確には、怪人の左腰にある一振りの太刀を穴が空くほど見詰めていた。恩賜の軍刀と思しき錦の装飾と血のように鮮やかな柄巻が目を惹いた。


「頭目。彼奴(あやつ)の軍刀に見覚えはないか」

「いや、初めて見るぜ。あれがどうしたんだよ。業物らしいが、まさか分捕ろうって言うんじゃねえだろうな」

「違う。あれは――否、拙の見間違いか。しかし、そんな筈は」

「なにブツブツ言ってんだよ。いいから引き揚げるぞ。二度も言わせんな」


 用が済んだなら速やかに撤退すべきである。庭先に放置した屍を発見した郵便配達員が警邏を呼びつけないとも限らない。裏口で待機させている部下達との兼ね合いもある。余計な危殆(リスク)を背負う必要などどこにもない。


「やはり見逃してはくれんか。相変わらず目敏い男で安心したよ」


 怪人は言った。その言の()に、昔を懐かしむような丸い響きと親しみが込められているのを黒曜は聞き逃さない。玄武の太い眉が怪訝に歪む。


「おいこら、玄武。あの黒死病医師はお前の知り合いか」

「否、そんなことはない。ないのだが」


 玄武は言い淀んだ後。


「あの錦の太刀は知っている。親衛隊隊長が差していた又とない逸品だ」


 と苦々しく述べた。


「はあ? なんだいそりゃ。なんでそんなもんをあいつが持ってんだ。見間違いということは」


 ないだろう。玄武は目が良い。また確信があることしか口にしない慎重な男である。

 問題は、なぜそれを相手が持っているかについてだが。


「いかにも」


 答えたのは怪人であった。


「この軍刀は、忌寸黒曜という人間が愛した女が――親衛隊隊長、宿(すく)()()()が息絶えるその時まで握っていた得物だよ」


 どこか誇らしそうに、怪人は饒舌に語る。


 ――宿禰瑠璃。


 当然、名前は知っていた。覚えていたわけではない。

 見舞いに来た玄武や、担当医から伝え聞いた程度の知識でしかない。


 その女の名は、黒曜の中に奇妙な余韻を残して響いたが、喪った記憶を呼び覚ます引鉄には成り得なかった。寧ろ、赤の他人であるような余所余所しさすら抱いた。


「そうかい。ご丁寧に解説してくれてありがとよ。それで」


 黒曜が横目で玄武を見遣れば、玄武は目を見開いて、怪人を睨んでいた。右手に握られた護拳刀の柄が握り締められ、ぎり、という音を立てた。


 ――こりゃ完全に、頭に血が上ってやがる。


 怒り狂った玄武を見るのは初めてではなかった。日頃から冷静沈着の玄武にしては珍しい態度ではあったが、あの災害が絡んだ途端、金剛力士像の如し形相になるのだ。


 あの災害の原因となった蒸気機関を壊してしまえ、と吐き棄てた活動家は男女の別が分からなくなるほど顔面を潰された。特別警衛掛(とくべつけいえいがかり)の連中が、親衛隊など所詮は玩具の兵隊よ、と愚弄した時は、その無礼者の頸を圧し折った。当然その事件は警衛掛との軋轢を生むことになったが、八咫烏を縛る法が存在しないため問題にすらならなかった。


 玄武の中では、きっと三年前から時間が進んでいないのだ。

 敬愛していたであろう上官を喪い、苦しみや悲しみを分かち合う仲間は皆死に絶え、辛うじて一人が意識を取り戻したと期待すれば、そいつは記憶喪失の白痴であり、共に死地を渡り合うことしかできぬのだから救いのない話である。自責と後悔で塗り固めた覚悟と意地は、当人の気付かぬうちに、聖域のようなものになってしまったのかもしれない。


「貰い受けたのだよ。こいつを使って私の仇讐をとっておくれと。今も尚、玉座に縛り付けられている可哀想な皇女様を殺しておくれと。あの日に散っていった者達の無念を晴らしておくれと乞われた気がしたのだ。それが私の使命だ」

「気がしたって、そりゃ使命じゃなくて手前の感想じゃねえか。しかもまた狙いが皇女サマときたか。大言壮語もいい加減にしやがれ。同業でも何でもねえ。手前はただの朝敵だ」

「いかにも。私は皇女様を殺す。殺さねばならん。それが私の――否、私達の復讐だ」

「聞けば聞くほど分からねえな。手前がこの国に恨みを抱いているんならそれでいいさ。その憂さ晴らしに皇女サマとやらの首級(しるし)が欲しいっていうのも、まあ納得してやらあ。だが、手前がその業物を差しているのはどういう理屈だ。持ち主の女は皇女サマの親衛隊だったんだろ。その遺志を継ぐっていうなら、手前はこっち側の人間だろうが。よくそれで同志だ何だと言ったもんだな」

「違うのか。貴殿も、この国を――皇女様を解放せんとする者のひとりではないのか」

「止めろ馬鹿。俺を巻き込むんじゃねえ。陰謀だか何だか知らんが勝手にやってろ」


 黒曜が大袈裟に否定すれば、怪人はさも意外そうに首を捻る。


「どうやら見込み違いか。いや、まだ自覚がないだけか」

「あん? 何言ってやがる」

「貴殿は知らぬだけだ。いずれ、そう遠くないうちに、あの憐れな娘を殺してやりたいと思うようになるさ。私と同じようにな」


 怪人の台詞は、蒸気が混じった空気に溶けるように消えていった。

 黒曜は、講堂が蒸気に湿潤されて視認性が悪くなりつつあることに気付く。


「悪いが、何を言っているか分からねえな。妄言は聞き飽きたぜ」

「簡単なことだ。大災害の原因が皇女様だからだ。即ち、皇女様がいなければ、宿禰瑠璃は死なずに済んだのだ」

「そんな話、聞いたことないぜ」

「それはそうだろう。第一級の機密だからな」

「それが事実だとして、そんな機密を知っている手前は何者だ。そも、手前がその立派な太刀をこれ見よがしに()いて復讐する話になるんだよ。話が繋がらねえ。原因云々(うんぬん)よりも何よりも皇女サマを護ろうって流れになるんじゃねえのか」


 黒曜の問いに、怪人は答えなかった。

 答えられなかったのだと黒曜は勝手に察する。


「まさか、その隊長とやらが黄泉から舞い戻って、皇女サマを殺してくれと頼んだわけじゃねえだろ」

「言った筈だ。そのつもりだと。天下万民が為。我が国未来百年が為。帝都の中心に、女郎蜘蛛の如し巣喰い、蝕み、鎮座する、蒸気機関もろともに根絶しなくてはならんのだ。そうでもしなくては浮かばれぬ者達が大勢いるのだ」

「人間らしいことをほざきやがって。厄ネタの臭いしかしねえ」

「貴殿には理解できぬ話であろうな」


 大災害の原因が皇女にあるという話の、真偽の程は定かではないが。

 多くの者が死んだのは紛れもない事実である。大混乱に乗じて殺人、偸盗(ちゆうとう)、強姦が発生し、已むなく警邏が射殺したという報告もないわけではないのだが、それでも犠牲になったの者の殆どが無辜(むこ)の民である。


 三年経った今でも、生き残った者は苦しみ続けている。元気なのは燃料を消費して蒸気と煤煙を吐き出し続ける機関と、秩序を守護する軍隊や官憲ぐらいであることも確かである。


 この倒錯した状況に呑まれつつある――最早機関のために臣民が存在すると言っても過言ではない――半ば機能不全に陥りつつある世界を立て直そうと、少なくない者達が東京の至るところで活動していることも同様である。


 この講堂に転がった物言わぬ屍達が、そして八咫烏の存在がその証左であろう。


 現在は目黒の片田舎が舞台でしかないが、反乱の兆しは、人間の体内を、リンパ節に乗って、忽ち全身に箇所に転移する(がん)細胞のように――或いは、水滴除去装置を通り抜けて、配管の角で水撃を鳴らす雫のように――より強く、より大きくなっていき、いずれは宿主を毀してしまうのではないかという危惧すら抱いてしまう。


 だが。


「理解してたまるかよそんなこと」


 黒曜は否定する。


「いいか。耳の穴掻穿って聞きやがれ。ここ東京は――いいやこの国は、最早蒸気機関抜きには立ち行かないところまで来ちまったんだよ。そりゃあ、手前の主義主張はそれなりに筋が通っているのかもしれねえ。のっぴきならない事情とやらがあるんだろうが、所詮それなりでしかねえよ。俺から言わせりゃ、だから何だよって話だ」

「分からんな。何が言いたい」

「手前は遅過ぎたんだよ。皇女サマを蜘蛛に喩えて、蒸気機関の排除やら打ち壊しをしようって唱えんのは勝手だ。俺達も勝手に取り締まらせてもらう。そも、他人様の主義やら思想やらを否定できるほど学もなけりゃ偉くもねえ。せいぜいが殺人と兵器の扱いに慣れ切った親衛隊崩れだ。隊服で表通りを歩けば泥団子か石礫が投げられる。女子供は青い顔で逃げ出していく。喫茶店の女給に泣かれて、店主に叩き出されたことは一度や二度じゃねえ」

「同情はしないぞ。それだけ貴殿が忌み嫌われている証拠ではないか。それ即ち、現在の東京を良く思っていない者がいるということに他ならない。貴殿達は邪魔なのだよ」

「だから言ってんだろうが。遅過ぎたんだって」

「遅い、とな」

「そうだ。早いか遅いか――要は程度の問題だ。手前の考えが正しいのかなんざ正直どうだっていいんだよこっちは。寧ろ、反乱分子がいなけりゃ俺達はお払い箱だってことを考えりゃ、有り難い存在なのかもしれない。いいや、今の今迄、覚えるのが馬鹿らしくなる程に屍を積み上げて、上からも下からも恨みを買いに買いまくったんだ。元親衛隊という看板がなくなりゃ、羽根を毟られた烏と同じだ。そこいらの野良猫か野良犬にでも食い殺されるだろうさ。うん? 手前が俺を殺してくれるんだったか。まあ、それは置いておくとしてだ」


 屍を確認しろ狸寝入りしている奴がいるかもしれないからな、と黒曜が命じれば、こちらの六名は既に絶息している、と玄武は答える。


 横目で玄武を見れば、玄武はやはり怪人を凝視している。

 床に転がる者達の損傷は、一目で屍と判る程に酷いものであったのだろう。若しくは怪人の動向を警戒した結果なのかもしれないが。


 ――それはちょっと見積もりが甘いぜ。


 人間という生物は中々にしぶとく、そして生き穢いものである。

 四肢の欠損ではまず死なない。失血に関しても、全体の三割を超えたところで漸く多臓器不全と呼吸障害で、時間を掛けて死に始めるのだ。内臓を掻割いて、小腸やら膀胱を引き抜いたところで同じことである。何なら、肺や腎臓は左右二つあるのだ。ひとつ潰したところで生命の維持にはそこまで影響しない。


 また近年、医療の発達には目覚ましいものがあり――特に解剖学や社会医学、臨床医学の進歩は特筆に値する。義手や義足は勿論(もちろん)、人工臓器の開発まで進められているというのだから驚きである。

 そう遠くない未来、首から下は全て機巧で、脳味噌だけが原初の人間などという(おぞ)ましい発明も間違いなく歴史に登場するであろう。既に精巧に動く義手があるのだから。我が国の、モノ造りにかける情熱は類を見ないのだから。江戸時代から、弓を射たり、文字を書いたりなどといった機巧人形を作るような国なのだから。絹之道(シルクロード)のドン詰まり、極東の意地である。


 ――閑話休題(話が逸れた)


 人間を確実に、死に至らしめる術は何かというと。

 窒息或いは酸欠であろう。

 次点で、全身に血液を送る心臓、生命活動を司る脳幹の損傷である。


 人間というものは、酸素濃度の低い場所では活動できないようにできているのだ。無酸素に近い空気を吸い込めば一瞬にして気絶してしまう。気合いや根性などではどうにもならない生物としての限界である。己や玄武が身を以て知っていることである。


 逆説的に考えれば。


 人間を人間たらしめる要素とは何か。何を満たせば人間であると言えるのか。生きていると言えるのか。存在していると言えるのかを考えて――その定義をひっくり返せば良いのだ。

 専門的な定義は抜きにして、人間というものは、代謝を行い、成長して、排泄して、殖えて、老いて――死んでいく。これが凡そ人間というものであり、己はその生命活動を止めるため、人間らしく大義名分を振りかざし、不幸な標的に鉛弾か護拳刀を叩き込むのだ。野蛮人も真っ青な、まるで文明人らしからぬ行為である。


 だが、それで話は終わってくれないのが人間というものである。

 こと人間においては、殺しても死なない者がいるのだ。いてしまうのだ。


 生命活動についていえば己と玄武がそうである。

 己は、利き腕と婚約者、仲間達、記憶を喪失してしまった。軍人としても人間としても致命的であるが、何の因果か八咫烏という所属を与えられ、とりあえずは生きている。

 玄武にしてもそうだ。足の指は癒着して動かせないというし、引き攣れを起こして、膝や肘といった関節周りを動かすのも辛いらしい。また燃焼した気体を吸ったせいで咽を内側から焼かれ、嗄れた声しか出せずにいる。そしてこれが一番だが、生殖機能も失い、子孫を残すことができない。

 言葉を喪い、表情を喪い、有性生殖の術を喪い――火傷の範囲と深度を(かんが)みるに、数年以内には敗血症若しくは臓器障害を併発してしまう可能性が高いために――未来すらないのだ。


 だが、玄武は間違いなく生きている。

 こちらが冗談を言えば片頬だけを引き攣らせた下手糞な笑顔をつくる。日々の訓練では、放任主義な己に代わり、新人を始め部下の育成に心血を注いでいる。誰かが殉職しようものなら大層落ち込んでみせる。非番の日に至っては、殺した相手を偲び、手彫りの仏像にずっと祈っている。どうにかして、己の任務と存在に折り合いを付けようとしている。

 きっと玄武が死んだとしても、その在り方は誰かが継承するであろう。そういう意味において玄武は殺しても死なないのだろう。


 この黒死病医師にしてもそうである。

 正確に言えば、この男ではなくて。


 ――宿禰瑠璃。


 忌寸黒曜の婚約者にして親衛隊隊長。

 皇女に仕えし隻腕の赫映姫。


 声も顔も思い出せないことに、黒曜は居心地の悪さを抱いてしまう。

 この感情は、活動家の息女であるというだけで殺害対象になってしまった、憐れな女学生を見逃した時の気分に似ていた。


 ――豹は死して皮を留め、人は死して名を留むとは言うが。


 新五代史、王彦章伝に出てくる言葉である。正しく解釈するなれば、豹が死して美しい皮を残すように、死後も語られるような、立派な人物になりたいという旨の内容であるのだが。


 迷惑な遺言を残してくれやがって。


 黒曜は溜息を吐く。


 ――閑話休題(また逸れてしまった)


 人間を人間たらしめるのは、きっと、そこに在るということだけではなく、寧ろ生命の次元などあっさりと超越して、しかも第三者を動かすことのできる、より崇高で、高潔で、それでいて温かい精神性なのだろう。


 黒死病医師や玄武が良い例である。少なくとも、記憶と共に倫理道徳をどこかに喪失してしまった己には、絶対に持ち合わせぬものであろう。


 詰まるところ、八咫烏の任務が真に達成されるのは、蒸気と歯車からなる秩序を乱さんとする者達を肉体的な意味でも精神的な意味でも、ひとり残らず狩り尽くした時である。その任務が完了した暁には、この時代を蒸気機関が支配したと言ってもいいのかもしれない。


 だが、果たして。


 人間性を排除した世界は、残された者にとって有益な環境となり得るのだろうか。

 数多の生命と引き換えにしてまで得るほどに価値のあるものなのだろうか。

 八咫烏の存続は、人間社会において有害であり、秩序の維持という目標は、達成されるべきものではないのかもしれない。


 黒曜は未来を予測(シミユレート)する。人類が蒸気機関を戴いた後の世界――では数合わせの爆発により、演算処理に時間を要するため――範囲は東京市だけに絞る。


 国の中心には『天照』が堂々と鎮座して、日々歯車を回しては、人智の及ばぬ世界を観測しては、余った熱量で人間社会の様々な環境を維持管理することになるだろう。

 個人の労役は適性を鑑みた上で決定されるだろうし、生産量も調整されることであろう。何なら人口そのものを管理する手段として、生殖の奨励や抑制、死没の延期や前倒しすらも決定してしまうのかもしれない。

 その頃には、科学技術の進歩により、錬金術による人造人間――瑞国のパラケルススが考案した試験官嬰児(ホムンクルス)のことである――も形になっているだろう。医療の進歩により健康寿命も伸びているだろうし、死期の前倒しについても、より効率的で経済的で、尊厳を損なわない、執行側にとっても精神的負担が少ない手段が執られることであろう。

 現在の倫理観には大凡そぐわぬ内容であるかもしれないが、所詮は予測の一つ、観測されていない未来の話である。

 価値観などは、その時代によって、存外簡単に移り変わるものであるし、そもそも反対意見など出よう筈がないのだ。反乱分子を全て排除した後なのだから。突然変異的に、周囲の人間へ影響を与える人間性の持ち主が出現しないとも限らないが――そんなことは世界が、何より『天照』が赦さないだろう。


 ――駄目だな。話になんねえ。


 己がいない世界を憂いたところで何の役に立つものか。飼い慣らされることの是非を論ずるのは己の仕事ではない。そんなものは政治家や思想家に語らせておけばよい。


 歴史というのは、時代というのは。

 個人を超越したところにあって、なるようにしかならないのだ。


 そもそも、前提からして間違っているのだ。己のような空虚で機巧じみた人間が、他人を本当の意味で殺せるわけがないのだ。それはここ数年の――大学病院で自我を取り戻し、八咫烏に所属してからの――忙しない日々が雄弁に物語っている。

 反対派の連中は、いかに惨たらしく殺してみせても、または理を以て全てを論破しても、まるで物陰から這い出る羽根蟻(はねあり)御器囓(ごきかぶり)のように、次から次へと湧いて出てくるのである。

 飯の種を心配することこそないが、不毛な争いもいいところである。


 それに。


 『天照』が人間社会を管理、掌握せしめるというのも些か現実的ではない。確かにこの先、人間の科学技術は加速度的に発展していくことだろう。しかし人間の上に立つのはいつだって人間なのだ。所詮『天照』は優れた機関でしかない。石炭を焼べれば、汽罐を通る水が蒸気となって歯車を回すだけの、子供でも分かる簡単な機巧である。いかに演算速度に優れていても、記憶領域を保有していたところでそれは変わらない。


 機関に感情はない。

 自意識などありようがない。

 人間が数値を入力して、初めて結果が出力されるのだ。


 況して。


 先刻予測した管理社会など『ユートピア』――英国トマス・モアが一五一六年に著した書であり、邦訳は『社会の最前政体とユートピア新島における楽しく有益な小著』である――の出来損ないのようなものである。

 著者のモア自身、当時の欧州における社会問題を採り上げるための問題提起として書いたものでしかないと推察されている。ユートピアという単語自体が、どこにもない場所、或いは、どこでもない場所、という意味でしかない。


 これが示すところは。


 八咫烏の存在意義こそ、あってないようなものである。

 何故なら蒸気社会に反対する者達の、人間性の打破という絶対に到達し得ない目標が掲げられてしまったのだから。

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