04.第二の反復 虐殺兵器③
玄関の扉に手を掛ければ、把手は回った。施錠はされていない。
黒曜が跫音を殺して忍び込めば、凶器を回収した玄武も続く。
正面は廊下であり、右手側には幾つかの部屋が並び、左手には階段が続いている。外観と同様に西洋風の造りであり館内は薄暗い。汽罐室と思しき部屋からはゴウゴウという燃焼音と、カンカンという乾いた水撃が聞こえることから察するに無人ではないらしい。大方、講堂があるという二階の暖房に使われているのだろう。
黒曜は消音器を付けた拳銃を片手に、手当たり次第に部屋へ入っていく。
客間、居間、厨房、厠、納戸、書斎、寝室――。
下男と下女が一名ずつ、そして書生然とした青年がひとりいたが、騒がれる前に眉間を撃ち抜いて始末する。黒曜なりに、余計な苦しみを与えぬように考えた結果であるが、それは利己でしかなく、またいくら手際よく片付けたところで殺人を正当化することはできない。
それが分かっているからこそ、黒曜は黙祷を捧げるような人間らしいことは絶対にしない。畜生には畜生なりの意地というものがある。よくて目礼未満の瞬きをするだけである。
――しかし。
手脚を投げ出して、仰のけ様に死んでいる下女を見ながら考える。
給女服に身を包んだ若い娘であった。蟹股に倒れたせいで、洋袴の裾が捲れ上がり、白い脚が太股まで露わになっている。口をあんぐりと開いて、目を剥いたその死に顔には尊厳も品性も感じられない。悟性を欠いた間抜けな表情である。
酷い胸騒ぎを覚えた。
己は、昔これと似た娘を殺したことがあるのではないか、という強烈な既視感を抱いた。
――それは当然そうに決まっている。
内なる冷静な部分が答える。
任務において、標的が都合良く大の男だけになってくれるとは限らない。
人形兵器に夫を殺された婦人が熱心な活動家に変貌して、仏国の聖女ジャンヌ・ダルク宜しく神輿として担ぎ上げられたことがあった。ある煽動者の家に押し入って家長を殺せば、その屍に縋り付いて泣き喚く妻子もいた。造兵廠に雪崩込む、暴徒化した数多の老若男女がいた。見逃せば後々反乱分子になるであろう者は例外なく手に掛けた。女子供だろうが、爵位があろうが、小間遣いだろうが、金子を積まれようが皆同じである。見逃す理由にはなり得ない。その場に居合わせた無関係な者まで斬り捨ててきた。ゆえに、無様な娘の屍体など、飽きるほど見てきたのだが――。
己は何か途轍もないことを忘れているのではないか。
大昔に、大切な女を手に掛けやしなかったか――という細胞の聲を聞いた。
義手である筈の右腕がジクリと疼いた。幻肢痛である。
黒曜は目を閉じ、記憶領域を司る海馬を、年若い娘という単語で検索するが、該当する情報は一件たりとも存在しなかった。
候補として浮上するのは、己が殺めてきた有象無象の屍だけである。
最早、人相すらも覚えていない。
八咫烏が発足した当初こそ、殺害手段、年月日、氏名、経歴などといった詳細を記憶して、犠牲者の死を悼むように心掛けていたのだが、その習慣も十を超えたあたりで止めてしまった。記憶容量を圧迫するだけだと悟ってしまったのだ。
「頭目。如何した。まさかこの女子、知り合いだったのか」
瞑目した儘、顔を上げない黒曜に玄武が尋ねる。
端から見れば黙祷を捧げているように見えるのか、と察してから黒曜は口を開く。
「こんな乳臭えガキなんざ知るわけねえだろ。だとしても関係ねえよ」
黒曜は必要以上に毒吐くも、蹴って娘の脚だけでも閉じさせてやる。乱れた髪や衣服を直すことまではしない。する必要も資格もない。
「ならば何故そのような真似を。良心の呵責か」
「それこそまさかだ。そんな真っ当な感性なんざねえよ。ただ、何と言うかな」
「ただ、何だ」
「前にもこんなことがあった気がすんだよ。この光景をどこかで見たぞと右腕が喚きやがる」
「頭目の腕は喋るのか」
「馬鹿か。モノの喩えだよ」
「知っているとも。揶揄っただけだ」
玄武は至って真面目な顔で答える。黒曜は何かを言い返そうとするが、上手い言葉が見付からずに、結局反論を呑み込むことにした。
「頭目。奥の汽罐室がまだだ。気を抜くな」
「分かってる。悪かったな畜生」
「何を気にしているのだ。拙が先行するか」
未だに娘の屍体から目を離せずにいる黒曜に玄武が問う。
「いや、俺が先だ。これは譲らねえ。第一お前は図体がでかいから隠密向きじゃねえだろうが。得物だって特注製の大型護拳刀だ。お前は俺が死んだ後の白兵戦担当だろ」
黒曜が指摘すれば、今度は玄武が黙る番であった。
「なあ、玄武。三年前に殉死したとかいう俺の女は、ひょっとしてこの侍女に似ていたりはしねえだろうな」
「いや、少しも似ていない。この女子を悪しきように言うつもりはないが、もっと凜然としていた。美貌も溢るるばかりであった。才気煥発とでも尽善尽美とでも言えば良いのか。隻腕でありながらも武芸に秀でた、まさに皇女殿下の親衛隊に相応しい才媛だった。まるで『竹取物語』の赫映姫のようにな」
「ああ、そうかい。それじゃあ気のせいってわけかい。しかし、どうしてそんな立派な女が、俺みたいな日陰者と婚約なんかしたもんかね。しかも美人薄命ときたものだ。やっぱりこの世はロクでもねえな。悪党世に憚るじゃあないが、生き残るのは俺達みたいな悪人だけだ」
黒曜が言えば、違いない、と玄武も首肯する。
当然この時も周囲に聞き耳を立て、近傍に生体反応が無いと分かった上での無駄口である。
「しかし赫映姫とは大きく出たな。すると何かい。俺は難題を達成できたから婚約できたとでもいうのかよ」
「然様。頭目は見事、隊長の心を射止めたのだよ」
「冗談じゃねえや。そんな覚えなんざねえよ。仏の御石の鉢だろうが蓬莱の玉の枝だろうが、竜の首の玉だろうが火鼠の裘だろうが燕の子安貝だろうが――俺の性格からして、そんなんあったら女に贈らずに額縁に入れて家宝にしてるっつうの」
冷笑を浮かべた儘、黒曜は半ば蹴破るようにして汽罐室に入る。
化石燃料の臭いが染みついた四角い部屋であった。
中央には小型の鋳鉄製汽罐が二基設置されているが稼働しているのは一台のみである。故障時の保険及び運転時間が片側に偏らないための措置であろう。
四畳程度の簡素な詰所には誰もいない。
壁には、煤で汚れた日捲りカレンダーと、火気厳禁と書いた赤い標識が掛けられ、卓袱台の上には湯気の立つ湯飲みが置かれている。
先刻、厠で射殺した下郎は、ここにいたのだろう。
汽罐を挟んだ位置にある鉄扉は裏口である。
曇り硝子越しに差し込む陽光が、四方を蒸気配管に囲われた埃っぽい部屋を照らしている。
館の規模と比較して汽罐が小振りなのは、東京市の心臓――旧宮城地下から高圧蒸気の供給を受けているからであろう。
無論、旧宮城から目黒郊外まで配管を引っ張るとなっては圧力や熱の損失は無視できないが、東京の至る箇所に高効率を誇る貫流式の中継炉と水滴除去装置が設置され、また損失が生じ難い経路を通るなど、緻密な計算と技術の元、市民の生活は成り立っている。
いち家庭や設備で消費された蒸気は、減圧器と復水器を経て液体に戻った後、また旧宮城地下の汽罐へ戻っていくという、人間の血液にも似た循環をなしている。
旧宮城の汽罐が心臓、蒸気が血液であるならば。その真上に位置する『天照』は頭脳、天に聳える大鐘楼は、認識される世界ということになるのだろうか。
それならば。
人間を人間たらしめる最たるもの――心は一体どこにあるのだろうか。それとも、最初から感情などという大それたものは存在せず、歯車と蒸気、煤煙と硫黄だけがあるのか。
「一階は終了だ。二階に行くぞ」
黒曜が廊下に引き返せば、玄武も後に続く。
音もなく階段を上り、重厚な扉の前で立ち止まる。他に部屋はない。
扉越しにも、男達の議論とも喧伝ともつかぬ熱気盛んな声が漏れ聞こえる。
昨年の大正九年五月二日、上野公園で開催された労働争議を彷彿とさせる熱狂振りである。
だが、叫ばれているのは、治安警察法十七条の撤廃でも、失業防止や最低賃金の制定でも、シベリア即時撤兵でも、万国の労働者万歳でもなくて。
蒸気機関の発明ひいては三年前の大災害において、いかに民衆が苦しめられたのかという各々が抱える怨恨を、聞き心地の良い大義名分で包んだかのような――それでいて抽象曖昧な、黒曜にとっては何の面白味もない内容であった。
聞こえる歓声、拍手、息遣いから察するに、壇上に一名、円卓を囲うように複数名が座っている。十名にも満たぬ程度であろうと黒曜は分析する。
門衛や番犬を用意している以上、連中も特高や軍隊といった官憲を警戒している筈である。扉を開けた瞬間、待ち構えていた用心棒が斬り掛かってこないとも限らない。
「密談って言うからこっちもコッソリ来てみりゃ随分と煩えもんだ。打ち壊しの相談なら、もっと静かにすべきだと思うんだがなあ」
突入するか、と視線で問うた玄武を押し留め、黒曜は敢えて軽口を叩く。
「数は凡そ十人。待ち伏せの有無までは分からん。俺達も見習って派手にかますとしようぜ。忍者ごっこは終いだ」
黒曜は腰袋から手榴弾を取り出す。東京造兵廠にて製造される基本兵装のひとつである。
陸軍で導入された十年式手榴弾とは異なり、握り拳程度の規格をした素焼きの陶器に爆薬と信管が収められており、頭頂部には林檎のヘタにも似た安全装置が伸びている。
炸裂は留針を抜いてから約五秒。効果範囲は十メートルと然程でもないが、恐るべきはその殺傷力である。生身の人間であれば、爆風を浴びた瞬間には、人相も性別も分からぬ醜怪な肉塊と成り果てる代物である。
「玄武。合図したら扉を開けろ。そしたら俺がコイツを投げ入れる。その後に扉を閉めろ。突入はそれからだ」
「承知」
「よし、開けろ。ゆっくりでいい。音を立てるなよ」
玄武が静かに扉を押せば、飾電燈の温い光が暗い廊下に辷り込む。
予想通り、奥の一段高いところに男が立ち、何やら演説を垂れている。その手前には、卓を囲い、椅子に座っている者がちょうど十名。全員が気取った紳士服を身を纏い、中には知的階級宜しく眼鏡を掛けた風貌の者までいる。ただの熱意を持て余した狼藉者達の相談ではない。東京市の蒸気社会に楔を穿たんとする重大な会合の場であった。
黒曜は手榴弾を投げた。
黒い果実を思わせる爆弾は、放物線を描いた後、卓の中央に落下すると同時に炸裂した。
茶褐薬が陶器と中に詰め込まれた鉄片を粉々に弾き飛ばす、その爆音は重く低く、扉越しにも空気の振動が伝わった。
檜らしい一枚板の扉を見れば、貫通こそしていないものの、釘とも剃刀ともつかぬ屑鉄が頭を出している。もう少し扉が薄かったらこちらまで負傷していたことだろう。
「玄武。お前は左、俺は右だ。まずは敵の確認、その後に殲滅だ。狸寝入りをしている奴がいるかもしれないから二度殺せ。行くぞ」
黒曜と玄武は、同時に扉を蹴破り講堂へ突入する。
全員が絨毯の上に昏倒して血を流している。
窓硝子は全て割れ、バタバタと窓帷が忙しなくはためいている。窓の下を走る蒸気配管はあちこちが破裂して、真白な高圧蒸気がシュウシュウと漏れ出して板張りの床を焦がしている。天井の半ば壊れた飾電燈は蔦のようにダラリと垂れ下がっている。
壇上で長広舌を披露していた男も、上半身を壁に預けるように死んでいるのだが――。
その隣に、男が立っていた。
最前、扉の隙間から垣間見た時にはいなかった者である。
全身を覆う長丈の外套に紳士帽、そして烏を思わせる嘴状の覆面をした――黒死病医師宛らの異様な装束であった。丸眼鏡には遮光塗料が塗られ、首許には襟巻きが、両の手には革手袋が嵌められている。
防寒のためではない。膚の露出を一切抑えた――太陽光を忌避する先天性色素欠乏症の如し――黒装束の怪人である。
黒曜が怪人を男だと直感したのは、長身痩躯という背格好からであったが、何より先刻の爆撃を、他の者を盾にして遣り過ごすという冷徹な頭脳を持ち合わせている点である。
それ以上に。
顔色こそ窺えないものの、怪人はこちらに対して鋭い敵意を抱いている。膚を刺すような不可視の刺激は、最早殺意と呼んでも差し支えない程であった。少なくとも、文明社会でヌクヌクと育てられた御令嬢にはどうやっても醸すことのできぬ気配であった。
「手前、何者だ」
黒曜は講堂へ足を踏み入れる。平生であれば有無を言わずに射殺していたのだが、何故かそれだけはしてはならぬという危惧を抱いた。先刻、下女の屍体を見た時と同じ感覚であった。
怪人の装備は、外套に隠されて明瞭としないが、太刀を差していることだけは見て取れた。
雇われの用心棒のようにも見えるが、護衛対象を見殺しどころか盾にするような用心棒などいない筈である。また肉塊になった者達も、このような得体の知れぬ者を側に置きたがらないだろう。怪人は、床に転がる骸達に対して何の感情も抱いていないようにも見える。
ならば、なぜこうも殺意を向けられるのか。
佇む男は亡者か幽霊か。今の今迄転がし続けた数多の屍体が冥界から黄泉還り、復讐を果たそうとしているのか。
――んなわけあるかよ阿呆臭え。ここは唯物科学に支配された東京だぜ。
黒曜は、脳裏を掠めた妄想を振り払う。
大方、用心棒をしない用心棒か、よくて同業他社であろう。
警保局にも荒事を専門とする遵法精神の欠片もない部隊が存在することは聞いていた。
相手が睨んでいるのは得物を横取りされたからか爆発に巻き込まれそうになったからか。
「おいおい、無視とはいただけねえな。もう一度訊くぜ。お前はここいらでくたばっている連中のお仲間かい。違うなら違うと素直に言ってくれればいいんだ。そしたら俺達だって詮索もせずに引き下がってやるぜ。弾丸も熱量も勿体ないからな」
黒曜は軽薄な態度で尋ねる。怪人は沈黙した後。
「それは難しい質問だな」
と答えた。嘴の中に音声変換機を仕込んでいるらしく、覆面内で反響する声は、老いて嗄れた男のようにも、艶のある女のようにも聞こえた。
「そんなに難しい質問かね。ガキにも分かるように言ったつもりだぜ」
「それがそうでもないのだ。確かに私はここで死んでいる者に乞われてここにいるわけだが、貴殿とは同じ宿命を背負って生きている。そこだけを切り取って言えば、同志と表現しても障りはなかろうが、私個人の好悪を述べるならば、私は貴殿が嫌いだ。腹の底から憎んでいる」
「長えんだよ話が。端的に述べてくれや。手前は敵か味方か。どっちだよ」
「何故憎んでいるのかとは訊かないのだな」
「当たり前だろうが。下衆には下衆なりの分別ってもんがあんだよ。こちとら泣く子も黙る八咫烏だぜ。人によっちゃ処刑隊なんて物騒な呼び方をする奴もいる。隊服を着て街を歩こうものなら礫を投げられ、後ろ指を指されるんだ。それこそ黒死病のような腫れ物扱いよ」
黒曜が諧謔を交えながら答えれば、怪人は愉快そうに肩を震わせる。
「何笑ってんだよ。人様の不幸を面白がってんじゃねえよ」
「いや、失敬。しかし貴殿が帝都安寧のため自らの職務を全うしているのだ。これを喜ばすして何を喜ぶというのか。計画通りに事が運ぶというのは、存外愉快なものだな」
「計画だあ? 手前は最前から何を言ってやがる」
黒曜は怪人の態度に看過できぬ引っ掛かりを覚えるが、相手は歯牙に掛けたる様子もない。
「忘れてくれ給え。こちらの話だからな。貴殿が知る必要はない」
「だったら最初から言うんじゃねえよこの野郎。質問に答えろ。手前は敵か、味方か」
「言った筈だ。答えるのが難しいと」
「そうかい。だったら訊き方を変えるぜ。手前は俺達と殺り合うつもりか。言っておくがオススメはしねえぞ。外には仲間が待機してんだ。何かあれば手榴弾や火炎瓶が投げ込まれるぜ。どこで買った恨みかは知らねえが俺は付き合うつもりはない。仲間に焼き殺されるなんて洒落にならねえからな。ほら、見逃してやるから今すぐどっかに行きやがれ」
怪人はすぐには答えなかった。僅かに俯いた後。
「焼き殺される、か」
と噛み締めるかのように呟いた。続けて。
「貴殿には、火炎放射器で焼き殺された者の思いが分からないだろう。焼死が洒落にならないというのであれば、ではどういう死に様なら気に召すのだね。是非とも要望してくれ給え。この私が、然るべき時に、然るべき場所で、名誉ある死を贈ってやろうではないか」
と言った。
何が逆鱗に触れたのかは分からない。詰責するかのような口調であった。
「こりゃご丁寧にどうも。折角だが辞退させてもらうぜ」
「何故だ。言っておくが冗談ではない。私は本気で言っているのだ」
「今迄、散々人を殺してきた大悪党だぜ俺は。そんな奴が死に様なんか選べるものかよ。贅沢な真似だぜ。そもそも死なんてものに名誉も糞もねえだろうが。どこかの路地裏で、肺結核だとか脳血管障害だとか食中りだとか、どうしようもない理由で、野垂れ死ぬのがお似合いさ。それが自然の摂理――いいや畜生の意地ってもんだろうがよ」
「貴殿にそう易々(やすやす)と死んでもらっては私が困るな。ひとつ予言をくれてやろう」
「予言?」
「ある婦人からの言葉だよ。貴殿はそんなくだらないことでは絶対に死なない。貴殿には果たすべき役割があるからな」
「へえ。それなら俺はどうやったら死ねるんだよ」
「言った筈だ。貴殿を殺すのはこの私だよ。尤も、今はその時ではないがな」
「そうかい。それを聞いて安心したぜ。一応聞くが、その有り難い大ボラを吹いた頭のおかしな救世主が手前の上役かい」
「正確に言うなれば同志だよ。この世の基礎を築き、生命を尊び、それゆえに後悔して、帝都を壊そうとしている――この世を憂うひとりの女性だ」
「大本教みたいなこと言いやがって。胡散臭え。ああ、聞くんじゃなかったぜ」
大本教――出口なお、その女婿、出口王仁三郎を教祖とする、明治二十五年に結成された神道系の新興宗教である。
尚、教義の一部に世界の建て替え、終末主義、国常立神を重要視する内容――即ち天皇を否定する要素――が含まれることから警保局に注視されており、今年の二月十二日、綾部の本部に警官隊二百名が突入、書簡等の関係書類を押収し、不敬罪等により王仁三郎が逮捕拘束されたという経緯がある。
しかし黒曜には宗教というものが、政治というものが今ひとつ理解できない。
宗教ないし信仰というものが人間社会に必要とされるものであることは承知していた。無宗教の儘、生きて死ねるほど人生が甘いものではないことも同様に。ゆえに太古より人間は、神を創り、神話を紡ぎ、道徳や倫理を守護してきたのだ。
拝火教、回教、基督教、猶太教、仏教――我が国の神道も例外ではない。
理屈では分かるのだ。人間という生物が信仰を求めるようにできていることは。
否、信仰心を持つことが人間であることの証明なのかもしれないが――。
東京市に限って言えば、それは必ずしも、布教を前提とした、聖典に由来するものではない。哲学と神学に補強されるものでもない。
科学万能主義が東京を覆って久しい。三年前の事故に懲りた様子もなく、科学の勝利を信じ、人形戦闘兵器の開発凍結解除を申請する陸軍参謀本部の連中などは立派な信徒であろう。
しかしながら。
黒曜にはそんなものは存在しない。必要としない。人間なら誰しも持っているであろう教義そのものが欠落しているのだ。ゆえに黒曜には信じられるものがない。仲間も、科学も、過去も、自分自身ですらも疑わしく思えてならなかった。
己の裡はどこまでも空虚で、深閑として、ただただ冷たい風が吹き抜けるばかりである。
三年前に殉死した恋人の顔ひとつ思い出せず、また微塵も心が動かぬ冷血漢である。
だからこそ、八咫烏などという危険極まりない職務にあたり、飽きもせず平然と他人を殺めることができるのだ。
信用できる唯一のものがあるとすれば。
『天照』を中心に据えた科学崇拝の世界ではない。
どこかの誰かが綴った聖典に基づく宗教でもない。
況して、暖かな人情や高潔な正義などは以ての外である。
古今東西の戦術と戦略を詰め込んだ頭脳でもなければ、いつ身に着けたのかも分からぬ、拳銃から大砲までを自在に取り扱うことのできる技術でもない。
己の空虚そのものであった。
――多分、きっと。
黒曜は思う。
忌寸黒曜という人間は、三年前に死んでしまったのだろうと。
今ここにいる己は、外側だけを取り繕った、なり損ないにしか過ぎないのだと。
喪くしてしまったのは記憶だけではない。
人間を人間たらしめる、何か大切なものまで喪くしてしまったのだろう。
敢えて言語化するならば人間性――生きる意味、存在理由――だろうか。
一応、忌寸黒曜を瀕死に追いやり、そして姿形も思い出せぬ恋人を殺した災害の元凶を見つけ出し、落とし前を付けさせてやりたいという密かな目標こそあるのだが。
――不毛ではないだろうか。
復讐を果たしたところで記憶が戻るとは思えず、また婚約者が墓から蘇ってくれるわけでもない。ガラン洞のアンポンタンであり続けることに変わりはない。
同じ座標で、一定の速度を保ち、堂々巡りの地獄から抜け出せない歯車のように。
癲狂院に鎖された記憶喪失の狂人のように。
何度繰り返したところで結末が変わらない御伽草子のように。
己は、未来永劫人間らしい人間には到底なりえないのだ。
そこまで考えれば、自然とすることは決まっていた。