03.第二の反復 虐殺兵器②
「悪かったな。仕事の前にくだらねえことを言って」
腕時計を見れば、時刻は十一時五十分――あと十分で正午となる。
「間もなく出撃だ。各自装備の点検は怠るなよ。作戦概要の確認だ。目標は目黒区郊外にある黒煉瓦二階建ての高級住宅だ。特高が入手した見取り図を信じれば二階に講堂がある。大方そこが主戦場となるだろう。先陣は俺と玄武だ。お前等三人は館外を頼む。門番がいたら殺せ。自動車もあるそうだからそいつは奪取してやれ。そして裏口を固めろ。逃げ出す奴がいれば一匹一匹丁寧に潰せ。お前等が突入する時機は、俺と玄武が半刻経っても戻らなかった場合だ。放火するなり手榴弾を投げるなり、その辺は好きにしろ。ここまで。何か質問はあるか?」
返事はない。全員が頷く。
「良し。続けるぞ。特高の諜報班曰く、連中は日夜集って打ち壊しの計画を練っているそうだ。今この時も会議の真っ最中らしい。俺達はそこに踏み込むわけだが連中も馬鹿じゃねえ。激しい抵抗は当然あって然るべきだろう。何なら俺達が出張ってくるのを想定して待ち構えている可能性だってある。用心しろ。絶対に油断はするな。命乞いに耳を傾けるな。相手が何か言う前に殺せ。殺す者に愛する者や家族がいるだなんて甘い考えは今すぐ捨てろ。俺達は修羅だ。何人たりとも生きて返すな。だが頭の片隅には入れておけ。こんな仕事にもきっと何か意味はある。必要なんだ。だから殺す。殺さなければならぬ」
黒曜はそこまで言うと、短くなった煙草の火を靴底で揉み消し、吸い殻を手摺りの向こう側へ放り捨てる。白い芋虫の如し紙巻きは南西の風に乗って流されていく。
――風向き、風速共に良好。これならば滑空は容易。
風向きや気流、温湿度、天候などといった条件を元に出撃時刻を算出したのは、旧宮城に鎮座する『天照』である。三年前の事件以降、度々故障を繰り返しつつも、その度に改修が施され、現在では一秒間に三百万回も浮動小数点演算ができるまで進化を遂げた化物である。
「全員用意しろ。鐘の二発目が鳴ると同時に跳躍だ」
黒曜が言うや否や、隊員達は俊敏なる動作で片足を欄干に掛ける。上背の足りない新人は、石柱を掴みながら両足で乗っている。皆、万全の調子であるようだった。
黒曜はそれを確認してから、自身も手摺りに左足を乗せる。
歩兵宜しくグシャ長の軍靴を履いただけで、他の者のように蒸気駆動の外骨格を纏っていない。自身の撥条だけで十分な跳躍ができるためである。また装備重量が増すことで、鈍足になるのを嫌ったためでもある。
「おい、玄武」
黒曜が呼び掛ければ、顔面に深い刀創を残す大男は視線だけを向ける。
「煙草、美味かったぜ。ありがとよ」
これで死んでも悔いはないぜ、と黒曜が笑えば、縁起でもないことを言うでない、と玄武は表情筋を引き攣らせる。笑ったつもりであるらしい。
この男も、黒曜と同じく親衛隊の生き残りである。
記憶を持たぬ黒曜にとってはあまり意味のない情報ではあったが、話してみれば馬が合い、戦場に立てば背を預けることができるのだから不思議なものである。
もしや、己と奴の間には浅からぬ友誼があり、切磋琢磨し合っていた関係だったのかもしれないとも思うが、黒曜が積極的に過去を尋ねたことはなかった。
意識を取り戻したことを聞きつけて見舞いに来てくれた玄武に、記憶がないと告げた時の狼狽え振りは今でも覚えている。
瞠目して、歯を食い縛り、握り拳をワナワナと震わせて――その顔の儘、被っていた親衛隊の制帽を脱ぎ、深々と頭を垂れて。
「拙は親衛隊が一員、道師玄武と申します。お初にお目にかかります。此度、副長殿が意識を取り戻したと連絡を受け、見舞いと謝罪に参上した次第であります」
と慇懃なる口振りで述べた。
「見舞いは分かるが、謝罪とはどういうことだ」
「拙が至らぬばかりに、親衛隊の同輩は皆死に絶え、隊長殿を――副長殿の婚約者を死なせてしまいました。拙だけが、おめおめと生き残ってしまったことも含めて、申し開きようもございません」
頭を下げたまま、叫ぶように玄武は言った。
その態度があまりにも真剣で。
顔面に残る火傷の痕跡が生々しくて。
浅慮な対応はどうにも憚られてしまった。だからといって慰めようにも、記憶を喪くした自分では上辺だけの薄っぺらい文句にしかならぬ気がして。
「生き残った者同士、散っていった仲間に笑われないように、どうにかやっていこうぜ」
漸く絞り出した言葉が、激励とも同情ともつかぬ、当たり障りのない追認だった。
その言葉を玄武がどう思ったのかは分からない。
上半身を戻した玄武は、直立不動の姿勢をとり。
「いち早い回復を祈っております。空挺特殊部隊、八咫烏にてお待ちしております」
と言い、敬礼の後、去って行った。
以来、示し合わせたわけではないのだが三年前の事件については触れられずにいた。
過去をいくら振り返ったところで全く思い出せず、また死んでいった者達が生き返ってくれるわけでもない。せいぜいが、死に損なった者の責務として、真相を究明してやろうと密かに思うだけである。
玄武にしても、あの事件を悔いているようだが、敢えて蒸し返すこともないだろう。
それが互いのためであろうと分かったつもりになっていたのだが。
「頭目。先刻の話は真か」
玄武は、食い入るように黒曜を見詰めている。
「嘘なんか吐いたところで仕方ねえだろ」
「では、一体何が原因であのような災害が起きたのだ」
「言っただろ。真相は不明だって。正しくは調査待ちだな」
「そうか」
「なんだよ。気になるのか」
「当然だ。もし、何か分かれば」
「分かっている。情報が入ればその時は教えてやる。その代わり俺が吹聴したと密告込むんじゃねえぞ。余計な詮索も抜きだ。文字通り俺の首が飛んじまう」
黒曜が不敵に笑えば、承知した、と玄武も笑う。やはり、犬が嚏を我慢したかのような下手糞な笑顔であった。
暫く、誰も何も言わなかった。
東京上空を吹き荒ぶ冷たい風を浴びながら、静かに出撃の合図を待つばかりであった。
全員が、これより始まる死合を前に、精神を研ぎ澄ます――意味のある緘黙であった。
黒曜はこの瞬間が好きだった。
戦うしか能のない、およそ文明社会とは相容れぬ己が、影ながら必要とされているような気がして、救われたような気にすらなるのだ。
胸に抱えた鬱屈した憤慨も、己に対する遣る瀬なさも、顔も名前も思い出せぬ仲間や婚約者に対する罪悪感も考えずに済むのだから。
――そんな安らぎは錯覚だ、欺瞞だ。
皇女直属の親衛隊などという大層な肩書きはあれども、所詮は私兵でしかない。
狡兎死して走狗烹らる――都合が悪くなった途端、斬り捨てられるに違いない。
その時は、己が今迄積み重ね、背後に転がしてきた屍と同じように。否、それよりも惨たらしく死ぬのだろう。それが世の理――因果というものである。
――望むところだよ、この野郎。
黒曜は心の底で気焔を吐く。
賢ぶった文明人らしく、潔く死んでなどやるものか。
こちとら記憶と右腕を失っても尚、現世にしがみ付いている物狂いだ。人間の道理など疾うの昔に踏み違えた修羅だ。いや、それよりもっと酷い。倫理道徳を最初から理解する知能もない畜生だ。
烏は烏でも、神武東征を導いた三本足の霊鳥でも、太陽の化身でもない。
屍肉を喰い漁るどこまでも生き穢い猛禽だ。
黒曜は唇の端を釣り上げて嗤笑する。
その後、下げていた面頬を鼻先まで持ち上げる。
これで露わになったのは翠玉の虹彩をした二つの眼だけである。
腕時計を見れば、十二時まで既に三〇秒を切っていた。
――十、九、八、七、六、五、四、三、二、一――。
四角錐の屋根裏に格納された歯車が回り出し、撞木に撞かれた鐘が鳴動する。
二発目が鳴ると同時に黒曜は跳んでいた。
持ち前の健脚を活かした、他の誰よりも高い跳躍である。
一瞬、宙空で静止したかと思えば、重力に従い頭から真っ逆さまに急降下する。
直後、背負った黒い翼を広げ、空気抵抗を揚力と推進力に変換する。
硫黄臭い東京の空を、凄まじい速度で滑空していく。
左右後方を見れば、黒曜を先頭に、右翼に二名、左翼に二名が続く。
ユーラシア大陸から本州北東北へ往来する白鳥の如し、逆鶴翼の陣形を保っている。
保護眼鏡と覆面越しにも、全員の表情が強張っているのが見て取れた。あの玄武ですら目を見開き、停止寸前の機関のように両肩を小刻みに震わせている。
――まあ、当然か。だって墜ちているんだもの。
どれだけ訓練を重ね、どれだけ死地を潜り抜けようとも、人間である以上、死に対する根源的な恐怖は拭えない。寧ろ正常な反応である。この高さから墜ちて恐怖を感じない奴の方が異常であるし、死に様は多々あれども、そういった人間性を欠如した奴から真っ先に死んでいくのだから面白い。
――となれば次に死ぬのは俺になるのかね。冗談じゃねえや。
黒曜は眼前に広がる景色を解析、着地点を探す。
強風と砂塵が瞳を直撃するが、瞬きひとつしない――否、できない。
人間が瞬きに要する時間は凡そ〇・一秒。
演算処理しなければならない情報が多く、瞬きの時間すら惜しいのだ。
一つ。適切な広さの着地点を見出すこと。柔らかな緑地であれば尚望ましい。電線やら樹木、煙突、家屋に接触してはならない。衝突即ち死である。
二つ。速度と高度の調整。速度超過の場合、着地の際に大怪我を負うため、機首を持ち上げるように体勢を直立に近付けて速度を殺さねばならない。だがその時機を一秒でも誤れば、姿勢を崩して落下してしまう。
三つ。距離の調整。想定した着地点が近い場合は迂回を。遠い場合は上昇気流を拾って、何が何でも飛距離を稼がなくてはならない。尤も『天照』が指定した条件に従えば、大きな間違いなど基本的には起こり得ないのだが――。
――この調子ならば問題ないだろう。
翼を何度が羽搏かせて飛距離を稼ぐ。
いくら蒸気駆動式且つ南米の公佗児から剥ぎ取った風切羽根を惜しみなく費やした、軽量で強靱な――これまた『天照』による航空力学と構造計算を大いに活用した――イカロスも真っ青な人工翼であるのだが、所詮は人工物であり贋作である。空を自由に飛び回る真実には叶わない。重量出力比にも不足して、落下速度の逓減が精一杯である。当然、地上から空中に飛翔することも不可能である。
黒曜の双眸が目標の邸宅を捉えた。いかにも近代的な、欧州大戦の好景気に乗じて、船成金が建てたような館である。外周は高い塀に覆われ、正門には門衛が二名立っている。
洋館の近辺は、木々が繁茂して、住宅らしいものはない。密約を交わすには都合が良い立地であろう。それはこちらとしても仕事がしやすいため有り難いところであるが――。
――一体、特高の連中はどうやってここを突き止めたのかね。
流石にこればかりは、いかに高性能な機関でも解析のしようがない筈である。
黒曜は翼を広げて速度を緩め、そのまま庭園に着地する。勢い余って派手に転がるが、受け身を取ったため兵装にも身体にも損傷はない。
落下音を聞きつけた門衛が、何事かと駆け寄るが、次いで降り立った玄武と部下のひとりに、声を上げる前に脳天を貫かれて絶命する。他に見張りはいない。屋敷の窓は全て窓帷で鎖され、内部の様子は窺うことができない。
衝撃緩衝用の噴射装置を使いながら、残り二名が軟着陸を決める。
「よくやった。あとは打ち合わせ通りだ。行動を開始しろ」
黒曜が命じれば、二名が屋敷の裏手へ、一名が車庫に音もなく走る。
木造の車庫には、米国輸入車輌フォード・モデルTが収められている。
門衛の屍体を草場に隠すことも考えたが――止めた。どうせ皆殺しにするのだ。事が発覚したところで構わなかった。
「玄武。お前は俺とだ。まずはあの番犬だ。やれるか」
「無論」
返り血で汚れた保護眼鏡を帽子まで上げた玄武は、玄関先に繋がれている土左闘犬――目を充血させて、口からは涎を垂らして喘いでいるのは、東京の汚染された空気に中てられたからであろう――に向けて、調帯に差した短弧刃の一本を抜き取って投擲する。
磨き抜かれた刃は回転しながら一直線に病犬まで迫ると、いとも容易にその眉間を穿つ。
土左闘犬は吠えもせず、崩れ落ちるようにして死んだ。
畜生が畜生を殺しただけである。罪悪感はない。
「見事だ。行くぞ。先頭は俺だ」
「済まん、頼む」
「なに、煙草の代金代わりだ」
『Peace』の礼が殺人ってのもちと物騒だがな、と黒曜が嘯けば、頭目も冗談が上手い、と玄武は覆面の下で笑ったようだった。