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12.第三の反復 『蒸気の夢』と『歯車の記憶』②

 黒曜が八咫烏の宿舎に戻ったのは十九時を回った頃であった。


 当然瑪瑙の誘いは蹴った。

 馬鹿言ってんじゃねえよ、と吐き捨て、勢いの儘、喫茶店を出てきた。


 仮令、幾ら瑪瑙が姉に似ているとしても、だから何だという話である。公序良俗に反するからという尤もらしい理由などではなく、単に、提案に乗る必要性を見出せなかった。瑪瑙に対して微塵も魅力を感じなかったこともある。未だに記憶を取り戻せずにいる己に対する不甲斐なさばかりがあった。


 宿舎一階、談話室が騒がしいと思い、顔を出せば、椅子にどかりと腰を下ろした玄武が酒をチビチビと飲んでいるところであった。珍しい姿である。部屋に篭もって黙々と仏像を掘る作業にも飽いたようである。

 一人寂しい手酌ではない。玄武の左右には、少年少女が付き添い、片方が空いた御猪口に酌をして、もう片方が話をせがんでいる。二人の顔がよく似ているのは双子だからであり、その目許口許に幼さが残るのは、陸軍士官学校本科に進学したての十七歳だからであろう。


「頭目。今帰ったのか」

「兄ちゃん。おかえりい」

「兄貴。お邪魔しております」


 並んだ面子が口々に述べる。


 崩した口調で笑ったのが姉の(いな)()(すず)()、丁寧なお辞儀をしてみせたのが弟の(りん)()(ろう)である。

 二人とも、忌寸黒曜という人間が大災害の日に救助したという縁があって、身元引受人となったのだ。休日となる度に、こうして下宿のために帰ってくるのだ。


 他の隊員はいない。自室で兵装の手入れをしているか、飯を食いに出払っているのだろう。

 黒曜は誰に断るでもなく、玄武の対面に座る。


「浮かぬ顔をしているな。班長補佐からの連絡は悪い報せだったのか。もしやこの間の戦闘を黙していたことが発覚したのか」

「そういうわけじゃねえ。だが何とも判断に困る内容だったわけだ」

「そうか。ならば無理に(ただ)そうとは思わんが、思い詰めないことだな」

「ふん、言われるまでもねえよ。だが、そうだな。仮の話として聞いてくれ」

「いいだろう」

「もしも、大災害を引き起こした首謀者が判ったら。そいつを殺してくれと頼まれたら、お前ならどうするよ」


 黒曜が言った瞬間、全員の動きがピタリと静止した。


「頭目。それは。その言い方では」

「馬鹿、早とちりすんなよ。あくまでも仮定の話だっつってんだろ」

「そうか」

「それで、お前ならどうするよ」

「答えはひとつしかないだろう」

「まあ、そうだよな。お前ならそう言うと思っていたよ。だがなあ」

「どうした。懸案事項があるのか」


 あるんだなこれが、と黒曜が肯定すれば、それは何だ、と玄武がすぐに問う。稲置姉弟は二人の遣り取りを黙した儘、見守っている。


「ひとつ、情報の出所というか根拠が曖昧且つ薄弱に過ぎる。鵜呑みにはできない。ふたつ、その、なんだ。標的は高いところにいるんだよ」

「高いところ、とな」


 玄武が片眉を上げる。高いところならいつもみたいに飛んでいけばいいじゃん、と錫音が口を挟めば、多分標高の高い低いじゃないんだろ、と燐太郎が指摘する。


「要するに、とても偉い人物ってわけだ。普通に生きてりゃまずお目にかかれねえ。だから迷っている。いや、持て余しているというわけだ」

「となれば、情報の精査から始めるのが正解か」


 玄武が御猪口を呷れば、すぐに錫音が徳利を傾けて御猪口を満たしにかかる。


「まあ、それについてはアテがあるから簡単に済むだろうな」

「宛て、とは」

「瑪瑙曰く、論文が根拠らしい。その名も『蒸気の夢』と『歯車の記憶』だ」

「何とも面妖な響きだな。本当に論文なのか」

「さあな。だが、俺達の風変わりな主治医なら、俺のような人でなしにも、噛んで含めるように教えてくれるとは思わんか」

「なるほど。確かにあの女人ならば、協力を仰ぐのも苦ではあるまい」

「そういうことだ。人脈は大いに越したことはない。何も一から十まで自分で考える必要はこれっぽっちもねえんだ。それはそうと錫音、俺にも御猪口をひとつ――うん? どうした」


 黒曜が見れば、稲置姉弟は顔を見合わせて、パチパチと目を瞬かせている。


「兄ちゃん。その論文なんだけど――あたしも燐も、見たことがあるかも」

「兄貴。今日錫に出された宿題が、まさにその論文についてだったんですよ」


 錫音が自信のないように、反対に燐太郎が明確な口調で説明する。


「宿題というと――そうか。お前は各部で、医学が専攻だったな」

「そうそう。それで今日、特別講師として、帝大からとても偉い先生が来て、配られたのがその論文だったわけ。でも内容が難しかったから、燐に色々と相談に乗ってもらっていたんだ」

「お前、宿題はひとりでやるもんだぜ」

「だって難しかったんだもの。考えても分からないなら時間の無駄だよ」

「まあ、今回はいいだろう」


 おかげで真相に近付けたわけだからな、と黒曜が言えば、錫音は握り拳を作ってみせる。


「兄貴がそうやって甘やかすから、錫はつけあがるんですよ」

「今日は赦してやってくれ。それで肝心の内容はどんなもんだった。突飛だったり、『天照』を虚仮(こけ)にするような、特高の連中が潰しにかかるような内容だったのか」

「それは、どうでしょうか。口頭では何とも説明しにくいんですよね」


 燐太郎は腕を組んで考える。


「うん? 秀才のお前でも読み取れなかったのか」

「おれだってついさっき原稿の複写(コピー)を渡されたばかりなんですよ。ただ、何と言うのか、狐に摘まれたような、ペテンにかけられたかのような、小馬鹿にされたような――論文と呼んで良いのか判らないものだったんです。まあ、これについては兄貴も見た方が早いですよ。待っていてください。すぐに持ってきますから」


 そう言うなり、燐太郎は納戸を改装した自室まで駆けていく。


「錫音。今のうちだ。御猪口をひとつ追加で頼む」


 黒曜が頼めば、了解です隊長、と敬礼をしたのち、錫音は台所へ向かっていく。


「ガキ共は賑やかで良いな。こっちの苦労なんか知らん顔だ」

「そうだな。しかし頭目、飲むつもりか」

「いいだろ。ほんの一口貰うだけだ。それとも何かい。それすら惜しいくらい上等な酒なのか。払えって言うなら払うぜ。一〇銭までならな」

吝嗇(けち)だな。煙草の『朝日』すらも買えない」

「だが牛乳一本、珈琲一杯は買えるぜ」

「そんな話などどうでもいいのだ。頭目は下戸だろう」

「そんなこと初めて聞いたぞ。本当かよ」

「嘘など吐くものか。親衛隊時代、同輩達と連れ立って酒盛りをした時、頭目はたった一滴飲んだだけで、顔を真っ赤にして倒れておったぞ」

「豪く情けない事情を聞かせてくれるなあ。ガキ共に聞かれたら舐められるぜ。しかも昔の話かよ。さてはお前、かなり酔っているな」

「然り。実のところ、いつもより酒が進んでいるのだ。ゆえに論文の件は任せた。拙は元より武術しか知らぬ身の上。学士には到底なれなんだ」

「誰も最初から期待なんかしてねえよ。それはそうと見てやがれ、今の俺はひと味違うぜ。毒だろうが薬だろうが、全てを克服した死に損ないの力を刮目しやがれってんだ」

「体質は気合いでどうにかなる問題では――否、言うのも無粋というものか」

「分かってんじゃねえか」


 御猪口と論文は同時にやって来た。右手の御猪口はすぐに清酒で満たされ、左手には紐で括られた原稿用紙の束が渡される。


 二人に礼を述べた後、黒曜は意識を文章に集中させる――。



     *     *     *



蒸気の夢


 ――東京全域を駆け巡る水に自意識が存在するものとする指摘及び思考実験。

 ――人間が蒸気を活用するのではなく、蒸気が人間を動かしているという主客の逆転、及びそれに伴う警句。



 この東京市に全域に蒸気配管が地上地下を問わず設置されるようになって久しい。

 今や、人間の社会活動と蒸気機関は切っても切り離せぬ関係になってしまったことは敢えて語るまでもない。しかしながら、都市運営の根幹を担う蒸気機関の体系を正確に理解している者がどれだけいるのか。蒸気に社会運営を(ゆだ)ねる危険性に気付いている者が果たしてどれだけいるのか(はなは)だ疑問である。ゆえに『蒸気の夢』と題して、この地球上における水に自意識が存在したら、どのような過程を経て我々人間に牙を剥くのかを予測して、蒸気に依存した我が国に一つの警句を提言する所存である。


 却説、前述の通り、これはあくまで思考実験であり蒸気というものに依存して飼い慣らされてしまった人間社会に対する忠告である。ここで汽罐及び東京において採用される体系について整理する。微視(ミクロ)的観点に立った場合における汽罐の構造は次に示す通りである。


 汽罐と雖も、種類は多岐に渡る。煙管式、貫流式、鋳鉄式、瓦斯式、灯油式――だが水を熱して、蒸気にせしめて、その熱量を搾取活用することに変わりはないため、類型については問わないものとする。また日々高性能高効率である汽罐が開発されていることも加味しなくてはならない。ここで注目すべきは水の流れである。


 第一に、水は液体の状態で配管内に給水される。その水が汽罐に流れ込み、熱されることで高圧蒸気に昇華する。そして前述の通り、蒸気は原動機を回す動力或いは熱そのものを利用する暖房若しくは冷房(水を冷媒とした吸収式冷凍機等)として消費されるかは施設によって様々であろうが、問題となるのは次の問いである。


「一度用いられた蒸気・水はどこへ行くのか」


 結論から言えば、どこにも行かないのである。消費され、低圧蒸気となった水は、復水器を経ることで冷却、減圧されて液体に戻り、最初の給水地点に立ち返るだけである。後は延々と、同じところを、同じ圧力で、一定量の蒸気・水が巡り続けるだけである。


 無論、何事にも例外は存在する。汽罐の感知異常により必要以上に熱された蒸気が膨張弁から逃げ出せば水は当然減少して、その減少分が給水される。腐食した配管に穴が空いても同じ事である。配管や汽罐の更新工事のため水を抜かなければならない場合も往々にしてある。そも、復水器が存在せず、蒸気を垂れ流しにする構造の機関だって未だに存在している。蒸気機関車が良い例だろう。しかしながら、これら例外はあくまでも局所的なものであり、所詮例外でしかないため、無視せざるを得ない。


 次に、巨視(マクロ)的な観点における東京市の蒸気社会体系を述べる。根幹を成すのは、『天照』を囲うように設置された幾つもの巨大炉である(基数については本原稿執筆時にも増設工事が行われているため説明を省く)。これら幾つもの巨大炉には、東京中の水が、浄水器を経た上で送り込まれ、炉で熱された後、蒸気となりて二分される。即ち『天照』を稼働させる動力源となるか、東京の各施設に送られて利用されるかのいずれかである。この巨視的観点においても、問題となるのはやはり。


「一度用いられた蒸気・水は何処へ行くのか」


 という問いであり、用意される答えもまた同じく、例外を除き、水は封じられ利用され続けるといったものである。即ち、微視的においても巨視的においても、一度この体系に取り込まれた水は未来永劫配管から脱出することができず、熱源或いは動力源として搾取され続ける堂々巡りに陥っている。些か完結に述べ過ぎたきらいもあるが、これが現在の東京が誇る蒸気社会体系であり、『天照』さえ賛同した効率的な国家運営の一部である。



 ここで問題提起をひとつさせていただく。冒頭にも示した通り、蒸気・水に自意識があったら何を考え、如何なる夢を見て、どのような行動を起こすのだろうか。


 繰り返し断っておくが、これはあくまで思考実験であり、蒸気・水に自我があると主張するものではない。また、ここで仮定される水とは、水滴の一粒一粒ではなく、一立方糎(センチ)の約一七〇〇倍に膨張した蒸気でもなく、体系に封じられた総てであるものとする。理由は、至極単純であり、東京を走る配管は栓で仕切られこそすれども、総て繋がっているためである。


 この時、蒸気・水が見るものは、悪夢以外の何者でもないと考える。

 理由は、下記の通りである。


(一)配管内の円環における急激な温度と気圧の乱高下。

(二)熱量の付与と放出を短時間のうちに繰り返されること。

(三)真っ暗闇の中、只管に行使され続けること。


 これらを人間に喩えると、只々暗闇の中を延々と走らせ続けられる事に該当するだろうか。それも、ある地点では蒸発してしまうほどに暑く、そこで与えられた熱量をある地点では剥奪され、さらに進めば減圧処理されて液体に戻り――最初からやり直すわけである。


 これを悪夢と言わずして何と言うのか。

 永劫の責め苦であり、余程のことがなければ、広々とした自然界には戻れないのである。


 (しこう)して、蒸気・水は、厭夢に飽いて、己を斯様(かよう)な目に遭わせた私達人間に対する憎悪を募らせていくことになるのだが――その膨れ上がった怨嗟が、人間の咽頭を直接噛み千切ることはない。少なくとも、蒸気・水が配管の中に収まっている限りは。蒸気・水の怒りを媒介する物質がない限りは。しかしながら、そのような物質は存在するし、仮令存在しなくとも、蒸気・水は人間社会を呪い殺さんとしていることは留意すべきである。


 蒸気・水が人間社会に対する恨みについては説明した通りであるが、次に取り上げなくてはならないのは、敢えて人間に従っているという点である。裏で牙を研ぎながら、奴僕(ぬぼく)の如し振る舞いをしている点である。結果、人間社会そのものを己に依存させることに成功し、主客の逆転を――即ち、人間が蒸気・水を支配する構造から、蒸気・水が人間を支配する時代へと相成ったのである。以上を警句として、此度の実験を中止する。


【備考】現代社会が蒸気機関なしに立ち行かなくなってしまったのは周知の事実である。人や物の移動は陸蒸気や蒸気船が担い、情報の管理にしても『天照』に一任しているのが現状である。人間には計算できない、()しんばできたとしても時間の掛かる数学の難問も、蒸気式計算機があれば数秒で解答が出力される。商業的な娯楽にしても、蒸気映像が流行って久しい。医療分野においても蒸気駆動式の義手が開発されつつある。最早、取り返しの付かぬ領域まで、蒸気というものは私達人間世界を浸潤していることを忘れてはならない。



*     *     *



歯車の記憶


 ――蒸気・水の悪夢を伝播する唯一の媒介。


 前回の論文(と称するには短く、また詰めの甘い部分もあるのだが)に()いて、蒸気・水の怒りを媒介する物品があると触れたきり、そのまま放置していたことを思い出し、今一歩踏み込んだ内容に整理して起稿することにした。尚、本文書に於いては一科学者の視点によるものであり、そこに政治的主張の一切は込められていないことをここに明記する。


 現代に於いて、人間社会に必要不可欠な領域にまで地位を押し上げた蒸気機関であるが、こと動力を確保するに限り、蒸気・水だけでは何の役にも立たぬことは、日常を蒸気に浸食された私達だからこそ容易に気付くことができよう。


 即ち、蒸気圧力によって動き、その動きを他部位へ伝える歯車が必要になってくる。

 歯車があってこそ機械は動き、かの『天照』も演算処理ができるのである。それは自明の理であるのだが、しかしながら現代科学において、この偉大なる発明品が、然程興味を持たれていないように思えてならない。もっと言うなれば、歯車の持つひとつの機能だけが、人類が歯車を発明したとされる紀元前の頃から今日に至る迄、ずっと見逃され続けてきたのである。


【備考】歯車の歴史は(ふる)く、紀元前まで(さかのぼ)る。埃及(エジプト)羅馬(ローマ)において水を汲むための装置に用いられたという説が一般的である。また、一九〇一年に地中海の沈没船から、古代希臘(ギリシヤ)時代に用いられたという歯車を使った天体運行計算機と思しき機械が発見されており、時代背景を鑑みれば、やはり紀元前には人類は歯車を使った装置を発明していたと考えるのが妥当である。



 歯車が持つ唯一且つ独特な機能とは、一個一個が自我を持つ点である。


 それは円盤(レコード)や個人情報識別札などといった記録媒体以上に、明確で繊細な意思を持つものである。詰まるところ、歯車は一つ一つが意識を持ち思考するのである。現代人が想像するような、取るに足らない一部品などでは決してないのである。


 それは再利用された義手や義足を着けた者が、前の持ち主がよく見て、よく聞いて、よく考えたことを夢に見る現象からも十二分に察し得ることである(悲しい(かな)、現代医学においてはそれを幻肢痛のたった三文字で決着してしまうのである、当医院にも同例の報告が多数挙げられてはいるものの、研究の優先順位の都合上、研究対象にもならないのである)。


 他にも、機巧仕掛けの人形が己を人間と思い込んだり、解析機関に繋がれた娘が、幾百もの歯車が見せる悪夢により発狂したり等、医学や生命工学に限れば枚挙に暇がない。


 もっと身近な例を挙げれば、腕時計の歯車をひとつ交換しただけで、動くには動くが、潤滑油を挿し、規格だって間違えていないのに、異音がしたり、ガタついて動きがぎこちなかったりという経験は誰にだって身に覚えがあることであろう。やはりそれは、歯車という一個体が、明確過ぎるほど明確な自我を持つことにより生じる摩擦であり、馴染むにはそれ相応の時間を有することに留意すべきである。


 次に、歯車が一体どのような経緯により、物事を記憶するのか、即ち自我が発生するのかという段階について述べていく。とは雖も、話は至極明快である。


 歯車は回転して、動力を隣接する他の歯車に伝える機能を持ち合わせているが、この時に噛み込むものが――人間に喩えれば食むものが――歯車の表面に細かな傷を作り、それを私達が記憶と呼んでいるに過ぎない。具体的には、空気、埃、音、そして蒸気を噛んでしまうのだ。


 それら歯車の突起に付着した多種多様なモノにより、その歯車にしか為し得ない特徴的な動作――所謂、癖のようなものが生じるのであり、その癖が幾度となく繰り返されることで、次第に意識ないし自我を持つに至るわけではあるのだが――ここで私達は思い出さなければならない。歯車の自我を構成する過程において、蒸気・水の介入を避けられないことを。


【補足】歯車はその構造上、必ず何らかの部品と隣り合った構造を取る。動力の伝播と同時に、互いが互いに影響し合うものであり、従って歯車が持つ記憶も、ある程度は均一化される傾向にあると考えられる。また、蒸気を原動力としない装置――螺旋や発条式などといった(もつぱ)ら手動の装置は蒸気・水の影響を受けないという指摘もあるだろうが、歯車の製造工程において、蒸気による圧縮、削り出しを経ること、また今日の東京において蒸気に触れずして生きていくことはまず不可能であるため、その指摘は適切ではないものとする。



 却説、ここで話は冒頭に戻る。

 蒸気・水の悪夢或いは怒りを媒介する物質とは、言わずもがな歯車のことである。そして、それら悪感情を受け止めるのは私達人間なのである。


 斯様な理由により、義手や義足を取り付けた人間が幻肢痛を訴えることが説明できると同時に、最前まではひとつの思考実験でしかなかった「蒸気・水に自我があるとすれば、どのような夢を見るのか」という疑問が、逆説的に、事実とは言えぬまでも、それ相応の真実味を帯びてくるものだと思う。


 更に説明を付け加えるならば、大正七年九月三十日に発生した大事故も、反体制派による暴力行為などではなく、『天照』に飼い慣らされた娘が、蒸気の見せる悪夢に感応した結果、指示命令系統を奪取して、配管を通して帝都中の機器を暴走させてしまったと考えなくてはならぬ。



 空前絶後の大災害については先述の通りであるが、ここで問題として採り上げられるべきは、誰が引鉄を絞ったのかではなく、私達人間社会の背景に、目に見えないながらも確かに存在して、私達人間を呪い殺そうとしている蒸気・水そのものである。


 今や自意識を持った蒸気・水が、人間社会を浸潤しているのは『蒸気の夢』で述べた通りであるが、蒸気と人間社会を切っても切り離せぬところまで――自我を持つに至る迄――反逆の意図を構築するに至るまで――歴史と呼ぶに至るまで――せっせと環境作りに精を出してきたのは、現代を生きる私達人間である。


 自意識を持った歴史を創ってきたのが私達人間ならば、自意識を持った歴史を葬り去るのも私達人間でなければならぬ。そうでなくては筋が通らぬ。此度は警句などでは終えることはできない。蒸気・水ひいてはその中枢を担う『天照』は私達人類にとって不倶戴天の敵である。人質に取った娘ごと、滅することも選択肢の一つであるとここに断言するものである。

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