11.第三の反復 『蒸気の夢』と『歯車の記憶』①
黒曜が八咫烏の上長――陸軍参謀本部第一部作戦課航空班班長補佐――宿禰瑪瑙の招集を受けたのは、目黒への出撃から一夜明けた十月二日のことであった。
場所は銀座、会員制の純喫茶である。
日没を迎えても煉瓦街には人通りが絶えず、瓦斯灯が薄らと光る中、幌馬車や自動車が緩慢な速度で流れていく。
風に靡く外套を気にも留めず、肩を怒らせながら夜に染まりつつある街を闊歩する。
すぐ先には『カフェー・プランタン』がある。
東京美術学校を卒業した松山省三が営業を創めた日本初の喫茶店である。
作家や芸術家達が集う社交場でもあり二階は会員専室である。尚、一時期は経営難に陥り、貨幣不足党と某新聞社に諷刺されたこともあったが、今では何とか持ち直したらしい。
顔を上げれば、今や銀座の象徴となった服部時計店の時計塔があり、軒先の陳列窓には、商品が存在を主張しているが、とても銀ブラ――書いて字の如く銀座を散策つくことである――の気分にはなれなかった。
――いくら御天道様が沈もうとも、俺がいて良いところじゃないわな。
黒曜は、片足を喪くして路傍にへたりこむ物乞いを無視して歩みを進める。
間違っても喜捨はしない。財布には百円札の束が詰め込まれてこそいるが、そして多少減らしても問題はないが、不具には不具なりの矜持があるのだと身を以て知っている。
職に貴賤はないとは雖も。
誰かを殺して得た金で奴さんも生き長らえたくはないだろう。
誰に宛てたものかも分からぬ弁護をした折、近場のカフェから千鳥足の男が出てきた。赤ら顔で相好を崩しているあたり、目当ての女給に勧められるが儘、麦酒を浴びるように飲んだのだろう。同じような連中で溢れているあたり、何とも気楽なものである。
享楽に浸っているのは男達だけではない。着物を纏った三人組の女性も舶来化粧品の屋台前で姦しく騒いでいる。歓声を聞きつけた道行く淑女達が次第に集まっていく。売り子の青年が熱心に目の前の女性を口説けば、女性は参ったとばかりに懐から財布を取り出す。見事、商談は成立したようであった。
繁華街の熱気と黄昏の涼しさ、石炭と硫黄の臭いが混じった刹那の光景である。
黒曜は逃げるように銀座の街を進む。
件の店にはすぐ着いた。
中に入れば、厚化粧をした女給が出迎えてくれるが、黒一辺倒の隊服を見て処刑隊と分かるや否や、甲高い声を上げて逃げ出してしまった。
――何でえ。人を化物みたいに。誰が手前みたいな年嵩女を喰らうかよ。
仕方なしに、黒曜はズカズカと店内へ立ち入る。
一階の一番奥、衝立で仕切られた空間に己を呼び出した上官――瑪瑙はいた。
珈琲を片手に、呆れたように黒曜を見詰めている。
「義兄上殿。だから制服で来るなと申し上げたのに」
己を義兄と呼んだ年下の上長は、今流行の納戸色を基調とした洋服姿で着飾っている。
「私服なんて一着も持ってねえよ。どうせ仕事の話なんだろう。なら任務のうちだ。次はどいつを転がせばいい」
「可愛い義妹が、親交を深めようとしたとは考えないのですか」
「ああ、考えないね。お前、俺のことが嫌いだろ」
「そんなことはありません。義兄上殿はこの街の体系を担うひとつの大きな歯車です。この腐り果てた都市の次には好きであります」
「それは嫌いですって言っているのと大差ないんだよなあ。というか誰が歯車だよ。こちとら血の通った人間だぞ、おい」
「血の通った人間?」
瑪瑙は一瞬眼を見開いた後、義兄上殿もお上手ですな、と笑い出す。
その態度に侮蔑とも嘲笑ともつかぬ敵愾心が宿っていることは鈍感な黒曜にも察し得たが、敢えて指摘しようとも思わなかった。
――ま、当然だわな。
瑪瑙は、己の婚約者だったという女――宿禰瑠璃の実妹である。
そして瑪瑙にとってみれば、己は姉を護れなかったどころか、記憶すらも喪くしてしまった役立たずもいいところである。寧ろ、内容は兎も角、こうして会話をしていることが不思議ではあるのだが――そこは瑪瑙という人間の強かな部分である。
本人の才覚もあろうが、家柄ゆえに持ち得る伝手や人脈を最大限に利用して、陸軍参謀本部に所属、見事班長補佐として八咫烏の指揮権を勝ち取るに至った次第である。
一体、何がそこまで瑪瑙を駆り立てるのかは分からない。己を使い潰し、惨めに死ぬ様を見届けて溜飲を下げようというのか。亡き姉の遺志を継ぎ、水晶という娘のために尽くそうというのか。はたまた、女という不利な身で、どこまで出世できるのかという一種の遊興を愉しんでいるのか――。
いずれにせよ。
黒曜にとって瑪瑙は上官である。そこに存在する背景など関与すべきではないのだ。
標的を殺せと言われればそうするし、護れと言われれば命を賭して護るだけである。
そしてこの場は、そうした命令が下される時によく用いられるのだ。
――次は誰を殺せと言われるのかね。
できれば陸路で向かいたいところだが、と黒曜が考えた時である。
「義兄上殿。とりあえずは座してください。本日は相談があるのです」
「相談?」
「何か気に障ることでも? 兎に角座ってくださいな。話し悪いでしょう」
「いや、人選の失敗とは思わないのかよ。こういうのは教育課の連中か、ウチなら玄武にでも頼めば良いだろう。あいつなら、お前が声を掛ければ走ってくるぜ。どうして俺なんだよ」
「義兄上殿にしか頼めない、極秘の謀り事がありまして」
「極秘の謀り事ねえ」
黒曜はひとまず、護拳刀を調帯から引き抜き、右手側に立て掛けてから安楽椅子に腰を落ち着ける。先日折れた一本ではない。倉庫から引っ張り出してきた間に合わせの一振りである。
「これに関しましては、任務でも何でもありません。ごく個人的な依頼になります」
「一応、聞くだけなら聞いてやるよ。請けるかは別の話だがな」
「有り難い。義兄上殿のそういうところ、嫌いではありませんよ。姉上も、そういうところに惹かれていたのでしょう」
「あん? いきなりどうしたよ」
何か悪いもんでも食ったのかよ、と黒曜が茶化せば、真面目に聞いてください、と瑪瑙は答える。続けて。
「義兄上殿。姉上の記憶はまだ戻りませんか」
と問うた。
「ん、まあそうだな。どれだけ頭ン中を探っても、てんで治る気配がねえ。すると、なんだい。相談ってのは姉絡みのことか」
「端的に申し上げます。姉上が殉死した事件の犯人が分かりました」
「ほう。良いね、実に良い報せじゃないか。そいつは誰だ」
「驚かないでください。水晶殿下です」
「はぁ?」
黒曜の脳裏に、黒死病医師の姿が過る。
――いかにも。私は皇女様を殺す。殺さねばならん――。
そのように、かの怪人は言っていた。だが、黒曜も玄武も、上長である瑪瑙に報告は上げていない。黒曜は、自身の胸に嫌な予感が宿るのを感じた。
「そう。彼女が、この帝都を――帝都だった街を滅茶苦茶にした張本人であります」
「あー、まあ、待てや。話が見えねえ。どこをどうすりゃそんな話になるんだよ。というかその情報の出所は本当に信用できんのか?」
「情報の提供者については、自分からは何も申し上げることができません。義兄上殿に話さないことを条件に説明してもらったことゆえ」
「ってことは俺と面識がある――否、あったかもしれない奴ってことか。俺が覚えているかは大分怪しいところだが。当たっているか?」
「繰り返します。義兄上殿に話すことはありません」
「それならもう少し上手く嘘を吐くことだ。この場は何も訊かずにおいてやるが、どこをどうしたら大災害と姫サマが結びつくんだ」
「義兄上殿は、水晶殿下のご容態をご存じですか」
「ご容態? 何だ、病気なのか」
「違います。過去に襲撃を受けて、延命措置がなければ生きられない状況下にあるのです」
「初耳だぞ。いつの話だよ。それに襲撃とは穏やかじゃねえな」
「大正六年のことですから、今から凡そ四年前になります。皇太子妃の選定に、宮中が揉めに揉めたことくらいは知っているでしょう?」
「まあ、知識としてはな」
「当時から、水晶殿下も候補には上がりました。ですが水晶殿下には遺伝的疾患があったそうなのです。自分は医学には昏いため分かりませんが――白子症というのでしょうか」
「それなら知っている。先天性色素欠乏症だな。だがそれは劣性遺伝だ。問題になるものか」
「問題どころか事故――いいえ、事件になってしまったのです」
「事件」
裏辻との会話では聞き得なかった言葉に、黒曜は眉を顰める。
「そうです。水晶殿下の乗る汽車が――東京から京都までの移動中――何者かによって爆破されてしまったのです。そのせいで、殿下は生命に関わる大怪我を負ってしまわれました。侍女兼護衛として側仕えしていた姉上もその時に片手を喪ったのであります」
「犯人は捕まったのか」
「実行犯だった若い男衆は無事捕縛に至りました」
言葉に含みを持たせながら瑪瑙は言った。
「動機は聞くまでもないか。姫サマに生きていられると都合が悪い奴等が大勢いるもんな」
「それはそうでしょうね。兎に角、そういう経緯があって、水晶殿下は今この時も、『天照』によって生かされているわけであります。因みに、この事件があったからこそ、当時は宮城に詰めていた特別警衛掛の中でも、更に選抜された者が親衛隊と相成りました」
「へぇ。ということは、俺もそれなりに優秀だったというわけかい」
「残念ながら違いますよ。義兄上殿は落ち零れの最下位だったと姉上が仰っておりました。ゆえに、副隊長という役目を敢えて与えたそうであります。何です、そのような顔をして」
「聞いて損した」
「話を戻します。水晶殿下は、一時は昏睡にまで陥ったと聞いております。それこそ、生きているのが不思議なくらいの重傷を負ってしまったと。具体的な怪我までは聞いておりませんが――そうですね。汽車に乗っていた多くの者達がいたけれど、生き残ったのが姉上と水晶殿下だけだったと言えば事件の凄惨さは想像できるでしょうか」
機関士、副機関士に至っては遺体すら見付かりませんでした、と瑪瑙は言った。
「成る程。大勢が巻き添えを食らったのか。五〇人くらいか」
「いいえ。確認できたのは七三名です」
外した罰としてここの支払いは義兄上殿にお任せ致します、と瑪瑙は言い、女給を呼びつけて追加の珈琲を頼む。
「その水晶殿下が意識を取り戻したのが事件の翌年――大正七年九月三十日です。ちょうど寺内内閣から平敬内閣に代わった頃であります」
「――待て。話が一向に読めねえ。というより内閣が替わったことなんてどうでもいいんだよ。九月三十日といえば、ちょうど大災害が起きた日じゃねえか」
「仰る通りです」
「列車の横転によって姫サマが瀕死の重傷に陥ったのは分かった。『天照』に繋がれて、どうにか生きていることも。だが姫サマが復活したら、災害が起きたというのはどういうわけだ」
そんなもの偶然ではないのか。否、この世界に偶然など存在しない。在るのは因果だけである。この世における、ありとあらゆる事象は、全て最初から決まっていることなのだ。
それならば。
因果を取り違えているのかも知れない。
即ち、水晶という娘が起きたから大災害が発生したのではなくて。
水晶という娘を起こすために大災害が。数多の犠牲が必要だったとしたら――。
「それについては説明が難しいであります。論文に載るような内容ですから」
「論文?」
またも黒曜の脳裏を怪人が過る。あの者は何と言っていたか。
――そして何より、『天照』を頭から否定する論文が帝大から発表されたのだよ――。
「そいつは『天照』を否定する内容だったのか」
「そうですね。そう捉えても構わない、でしょうなあ」
「豪く歯切れが悪いな、おい。理解できなかったのか」
「馬鹿にしないでください。内容があまりにも過激かつ突飛で、しかも『天照』に関わる内容でしょう。歯切れのひとつやふたつ悪くなるに決まっているでしょう」
いやはや特高はちゃんと検閲しているのか疑わしいですな、と瑪瑙は空になった珈琲の器を洋卓の隅に退ける。
代わりの珈琲はすぐに届けられる。
先刻、黒曜の顔を見て逃げ出した者とは別の者である。頼んでいない黒曜の分まで持ってくるあたり、従業員の教育は行き届いているようであるが――。
黒曜は女給の顔を盗み見る。
どこにでもあるような面であったが、見覚えがあった。
はて、一体どこで面会しただろうかと考えながら珈琲に手を伸ばし、杯の液体を腔内に流し込んだところで、舌が僅かな痺れと青臭さを感知する。
――鳥兜だな。窒素系有機物が含有されている。
女給の口許が、にっと歪んだ。だが黒曜は構わずに珈琲をそのまま呷り、一気に嚥下する。
「不味いな。この店では、附子汁を混ぜた珈琲を客に提供すんのかよ、なあ」
黒曜が笑いかければ、女給は身を翻して逃げようとする。
だが黒曜が襟首を引っ掴む方が早く、女給は蟇を踏み潰したような叫びを放つ。
「義兄上殿、一体何を」
「止めるな瑪瑙。飲むなよ、毒入りだ」
「毒でありますか」
「そうだ、普通の人間なら致死量だ。思い出したぞ、手前。この間見逃してやった女学生だな。恩を仇で返すという諺も知らんのか」
女給は、殺されるものと思い込んでいるのか、必死に逃れようと藻掻いている。
「何が恩だ、あたしの父さんを殺したくせに。人殺し! 殺人鬼! どうして毒を飲んで――」
女給の言葉は続かなかった。細い頸に噛みついた黒曜の右手が、そのまま締め落としたため。
俄に、店内が騒がしくなる――。
「瑪瑙、済まん。この塵芥を捨ててくるため中座させてもらう」
「まさか、殺すとは仰いますな」
「そんなわけあるかよ。こんなのは日常茶飯事だ。その度に殺していたんじゃキリがねえだろ。入口の表通りに放り投げるだけだ。運が良ければ世話好きの紳士か巡査が拾ってくれるだろ」
「運が悪い場合は、悪漢に捕まり、路地裏に連れ込まれて嬲られますが、それでも良いと?」
「そこまでは面倒見ねえと決めているんだよ。しかしまあ、任務に仏心は出すもんじゃねえな。見逃した相手にこうして毒を盛られちゃ世話ねえぜ」
「義兄上殿、毒を飲んでも平気なのですか」
「そりゃ、処刑隊だからな」
「答えになっておりません」
「訓練してんだよ」
黒曜が用事を済ませて席に戻った時には、居住まいを正した瑪瑙がいた。聞けば、あの女給はどこからか潜り込んだらしく、店側の関与は見受けられなかったとのこと。
「とんだ邪魔が入ったな。どこまで話が進んだっけな」
「『天照』を否定する論文です」
「そうそう、それだそれ。具体的にはどんな内容だったんだ」
「水晶殿下があの惨劇を引き起こしたことを。そして『天照』がそう遠くないうちに破綻することを的確に述べた――帝国臣民にとっては悪夢のような内容でありました」
「悪夢とはまた過剰だな。題名は覚えていないのか」
「論文は二つありまして。『蒸気の夢』と『歯車の記憶』です」
「何ともまあ勿体振った表題だな」
黒曜は思いを巡らせるが、二つの原稿が如何様なものであるかは分からなかった。
蒸気は夢など見る筈もなければ、歯車も同様に記憶など持ちようがない。在るのは、両者とも決められた場所で、決められた運動を延々と果たすだけの役割――それこそ悪夢である。
いずれにせよ、下手糞な散文の題名にしか思えず、とても理論と権威の権化そのものである『天照』を否定するだけの楔になるとは思えなかった。
「それで、お前はそんな話を俺にして、どうして欲しいんだ」
ゆえに続きを促せば。
「殺してほしいのです、水晶殿下を。他ならぬ義兄上殿の手で」
瑪瑙は言った。その眼は、先刻の給仕女によく似ていた。
肉親を喪くした者に特有の、憎悪を秘めた瞳であった。
その時、壁に張り巡らされる蒸気配管の、複数の膨張弁から、加熱蒸気が噴出する。
銀座一帯に高圧蒸気を供給する汽罐の故障か、この店舗に設置された汽罐の出力異常か――膨張弁から吹き出す白い蒸気は止まる気配がなかった。霧の如し白い蒸気はみるみるうちに足許から忍び寄り、黒曜と瑪瑙を遮ってしまう。
「瑪瑙。それは命令か」
「違います。最初に言った筈です。相談がありますと」
「相談――」
黒曜は眼を細める。瑪瑙が遠くに見えたために。何より、相談という言葉の本旨が理解できなかったために。その沈黙を躊躇と受け取ったであろう瑪瑙は。
「自分は、姉上に似ているとよく言われるのです」
と言った。唐突な話題の変化であった。
「それが、どうした」
「似ていると思いませんか」
「悪い。顔すら思い出せないから、判断のしようがない」
「それならもっと能く見てください。似ているのです。自分と姉上は」
瑪瑙は身を乗り出して断言する。鬼気迫るような物言いであった。周囲を囲む蒸気など微塵も気に留めた様子はない。仕方なしに黒曜は瑪瑙を見詰め返す。
白い膚であった。黒い髪と黒い瞳をしていた。心なしか、その目が涙に濡れ、頬は紅色に染まっているように見える。扁平な顔立ちが多い日本人にしては珍しく、凹凸に富んだ、くっきりとした顔立ちであり、世間一般的には美人と評される面であろうが――美醜の感性が根本から存在しない黒曜にとっては何の意味もない情報であった。
「私の相談を聞いてくれるならば。義兄上殿にならば」
この躰を捧げても構いません――と瑪瑙は言った。
身に纏う蒸気が、瑪瑙という個人の輪郭を曖昧に溶かし、記憶の奥底に眠り続ける誰かの存在を想起させんと黒曜に訴えかけるが。黒曜が感じ得たのは、右腕に走る鈍い幻肢痛と、水蒸気越しに伝えられる何者かの泣き顔であった。




